その3
端的に言おう。
祖父ちゃんが残した指輪は「M69星雲へ行く指輪」だった。
いや、正確に言うのであればどっか別の次元だか、どっか別の星だか、それとも地球の裏側なのかまったく判らないけれど、とりあえず小峰風香の居るべき地球の日本ではないまったく別のナニカにたどり着く為の指輪であった。
この国だか大陸だか星だかには、アメリカも中国も日本も存在していない。
風香の常識は非常識だ。
ただし、確実に「M69星雲」ではないらしい。
風香に「M69星雲?」と問いかけられたー曾祖母ちゃんヘレンは困惑をさらに深めた。
そう、風香が突然現れた場所は、ヴィスト――ヴィスト・ウィード・サーシェナシスというふざけた名前の祖父ちゃんの生家ということであった。
サーシェナシスって何だ。
風香の知る祖父ちゃんの名前と言えば、完全入り婿の小峰ヴィストさんです。漢字の当て字がどうとか頭の悪いネタで一時間喋り続けるジジイです。
しかも、時間の流れまで違うのか――せんだって八十一歳で死んだ祖父ちゃんは、この場所ではほんの一年程度しか失踪していなかったことになっている。
当初、勿論息子が亡くなったという言葉を信じてもらうのは大変な労力を必要としたが、祖父ちゃんの母親であるその女性――ヘレン曾祖母ちゃんは二日の間涙にくれたものの、三日もたてば戸惑いつつも淡い微笑で風香に接してくれるようになった。
「まぁ、ヴィスト! 魔法の失敗で女の子になってしまったというのは本当だったのねっ」
そんなこんなのなし崩し的一週間後。
突然けたたましい声が聞こえたかと思えば、昼食の平和な時間は破られた。
庭先でテーブルを出しての昼食――曾祖母ちゃんのヘレンは丁度買い物で不在。庭のテーブルについていたのは、ヴィスト祖父ちゃんの弟であるドーンだけだった。
ドーンは口元に当てていた紅茶を激しくむせさせ、咄嗟に「風香、逃げろ」と短く言ったものの、生憎とその警告は思い切り遅かった。
けたたましい声の持ち主は、薄桃色のドレスをたくしあげるようにして走り、そのままの勢いで風香を抱きしめた。
先日ヘレン曾祖母ちゃんに抱きしめられた時よりも更に圧迫的な強さで。
「それでも構わない。だって私の愛は永遠だものっ」
謎の永遠の愛を叫んだ女性は、椅子に座ったまま度肝を抜かれている風香の唇にがばりと噛み付くように口付けた。
女性に胸をもまれ、女性に唇を奪われた……――祖父ちゃん、日本に戻ったら絶対に祖父ちゃんの大嫌いな椎茸を供える。
椎茸の焼き物、椎茸の肉詰め、椎茸の入ったおむすび!
果たして椎茸の入ったおむすびなんて代物が存在しているのかどうか知らないけれど、とことん椎茸攻めの刑確定。
盆には椎茸に割り箸をぶっさして椎茸の馬で帰ってくるがいい。
そうして盆の間ずっと椎茸を供えてやる。
絶対にやる。
人間にはやらなければならないことがある。
「まぁっ、ヴィストっ」
粘着質な唇を引き剥がし、女性は信じられないとでもいうように首を振った。
「まだきっと心が傷ついているのね? あなたのエリスがきたというのに、言葉もないなんて」
「あの、すみませんが……」
「それとも忘れてしまったの? 魔法の失敗の弊害?
いいわ。私がたっぷり教えてあげる」
もう一度顔を近づけてくる女性から逃れようとしたところ、それまで静観していたドーンがひょいっと風香の腰を掴み、自分と体を入れ替えた。
「エリス、確かにコレはヴィストにそっくりだが、生憎とヴィストじゃない」
「何を言ってるのよ、ドーン。この髪も、瞳も、顔も、どこを見てもヴィストよ! ちょっと性別が変わってしまったけれど。そんなことはよくあることよ。愛があれば大丈夫」
ちっとも大丈夫じゃない。
ソレより先に、性別が違うって、そんなことはよくあるってどういうことだ。
あまりの勢いに風香はドーンの背後、シャツをしっかりと掴み、その逞しい背に隠れるように身を縮めた。
それにしても、ハンサムであったという祖父ちゃんに似ているといわれるのは喜ぶべきことなのか、それとも哀しむべきなのだろうか。
「エリス、ヴィストは死んだんだ」
ドーンの重苦しい言葉に、エリスと呼ばれた縦巻きカールの女性は瞳をまたたき、不思議そうにドーンの瞳を見返した。
「ヴィストが、死んだ……?」
「そう。ヴィストはもう死んだんだそうだ。彼女は、ヴィストの孫だ」
淡々と言うドーンの言葉に、エリスはその表情を胡散臭いものを見るものにかえた。
一拍、二拍、こちらが心配になるくらい間を空けて、けれど彼女は鼻で笑ったのだ。
「可哀想なヴィスト――大丈夫。そんな愚かなことを言わなくても。私の愛は性別も肉体も全てを超越しているのよっ。ああっ、こうしてはいられないわ! お父様にお願いして、夜会を開いてもらいましょう。ヴィストの生還祝いをしなければっ」
傍若無人な弾丸娘は、一人で勝手に騒いだ挙句にそのまま身を翻して「ヴィスト、また来るわねっ」と呪いの言葉を残して走り去っていった。
「すまん……」
ドーンは額に手を当てて疲労の濃い溜息を吐き出し、未だ後ろに張り付いている風香の肩に手を回し、食事を再開させるべく椅子を示した。
「あの人は?」
「エリス――ヴィストの婚約者だ」
一度言い切り、ドーンは訂正した。
「ヴィストの婚約者だった。ヴィストが失踪して半年で一応婚約は解消されている」
「祖父ちゃん、あの人のこと……好きだったんですか?」
祖父ちゃんに祖母ちゃん以外の女の人が!
その事実に驚愕していると、しかしドーンは肩をすくめた。
「いいや、まったく」
「……そうなんですか」
「エリスが来ると一目散に逃げていた。つかまると襲われるから」
――追いかけられていた祖父ちゃんは、どうやら魔法の失敗で日本に落ちて、そして自分から逃げまくる祖母ちゃんを追い掛け回すことにしたらしい。
大迷惑。