その2
「――」
じっと伺うように息を潜め、もしかして声が小さかったから発動しないという事態も想定し、もう一度「タエさんっ」と勢いを乗せて口にする。
それでも祖母ちゃんの問題いっぱいの声が始動しないことに、風香はやっと安堵の息をついた。
「大丈夫、みたいです」
「もうひとつの鍵はいまいち判然としないが、少なくともタエの名を呼ばなければ術式が始動することはないだろう」
――そんなこんなで、できれば暫くはタエ祖母ちゃんの話題は避けたい風香とドーンであった。
「風香?」
祖母ちゃんのことを尋ねたい曾祖母ちゃんの声に、風香が微妙な顔をしていると――助け舟を出すようにドーンが立ち上がった。
「風香。そろそろこちらにも慣れただろう――魔法について学ぶ気があるのであれば、図書室に行こう」
勿論、風香はいそいそとその言葉に自らも席を立ち、ドーンに続いて食同室を出た。
魔法。
幾度もこの場に来てから聞かされていたし、あちらの世界でも聞いていた――ただしまるきり電波だとしか思っていなかったが――その魔法を、果たして自分が使うことができるのだろうか。
ドーンは風香には素質、素養があるという。
だが、それだって風香自身にはまるきり判らない。少なくとも地球でそんなものに触れた覚えは無いし、魔法使いであったという祖父ちゃんの魔法すら見たことが無い。
風香はどきどきとする心臓を感じながらドーンの後に続いた。
確かこの世界の魔法は精霊魔法。
精霊とかって見たことないけど、そこも大丈夫なのだろうか?
個人宅の書斎というには仰々しいその部屋に入ると、ドーンは無表情で幾つかの本を積み上げた。
……五冊、七冊、十二冊。
「まずはこれを読むところからはじめなさい」
「無理」
仰々しい辞書のような本の群れにもうんざりだが、なにより大事なことを忘れてもらっては困る。
この指輪文章翻訳しないんだよっ。
先日、面前に突きつけられた祖父ちゃんがこさえた借金の借用書は、意味不明の紙切れでしかなかった。
糞ジジイぃぃぃぃ、おかしな機能に力ばっか込めて、必要なとこ手ぇぬいんじゃないっ。
というか、そうか、祖父ちゃんは少なくとも文字は独学で学んだのか。
そこは認めてあげてもいい――などと思う訳がない。
ここまでくると祖父ちゃんがアカデミー賞を取得していたとしても風香だけは認めない。
祖父ちゃん憎けりゃ椎茸だって憎い。
引きつった表情で「無理」と言い切る風香に、ドーンは片眉を跳ね上げた。
「風香?」
「こっちの言葉の翻訳は指輪がしてくれるようですけど、生憎と文字は理解できない」
とりあえずぶあつい本がイヤというのはおいておいて――忌々しい気持ちで口にすると、眉間に皺を刻みつけたドーンは小さな声でぼそりと「つかえない」と呟いた。
びしりと風香の額に青筋が走る。
「す・み・ませんねっ。
でも言わせてもらいますが」
風香はドーンが本と同時に用意した紙に、ペンですばやく「風香」と書いた。決して綺麗な文字ではない挙句、丸文字だがそこは気にしてはいけない。
「ドーン叔祖父さんだってあたしの使う文字は読めませんよね。
こればっかりは仕方ないと思いませんか? もともと国はおろか世界が違うんです。
言葉が理解できるだけでも立派なもんですよ」
って、その言葉が理解できるのは祖父ちゃんの指輪のおかげだが――今は無視。
祖父ちゃんの指輪には褒めるべきところなど何ひとつない。
な・い!
ドーンは冷たい湖畔色の眼差しで風香を見下ろすと、唇の端をひくひくと引きつらせておかれた本のタイトルを指先でなぞった。
「魔術指南書」
ゆっくりとした口調で一度告げたが、風香の眉間に皺が寄るのを満足げに眺め、その唇がまたしても小生意気な戯言を撒き散らす前に、丁度一番近い棚から一冊の薄い本を取り出し、開いた。
「たのしい文字基礎知識――絵本を読もう」
きのこっぽい絵柄と謎の動物っぽい絵柄が描かれたその表面を示し、ドーンは意地悪くゆっくりと口にした。
まさに、幼い子供に読み聞かせるかのように。
「私が幼い頃に一番はじめに読んだ本だ。
はじめの二日、乳母に読んでもらい、私は五日かけて読めるようになった。
おまえがいったいどれくらいの時間で読破できるようになるのか、実に楽しみだ」
風香は引きつり笑いでその本をひったくった。
「受けて立つ!」
さすが祖父ちゃん弟性格悪い!
風香が息をまいてそう考えた時、ドーンは冷ややかに「さすがヴィストの孫」と小さく呟いていた。




