ごめんなさい
ごめんね、ごめん。
誰かが衿香の体を抱きしめて頭を撫でていた。
大きな柔らかい手。
ああ、お母さまだ。
柔らかい芝生の上、母の手がやけに大きく感じる。
いや、母が大きいのではない。
自分が小さいのだ。
ぽつんと雨が一粒衿香の頬に落ちる。
『怒ったりしてごめんね』
ああ、そうか、これはあの日の記憶だ。
母と最後に遊んだ幼い日の記憶の続き。
『こんなママでごめんね。衿香』
雨だと思ったのは母の涙だった。
自分を戻れない道に導いたカメラを、捨てることが出来なかった母。
そして娘が同じ道を歩むのではないかという恐怖に震える母。
その痛みが苦しみが衿香の心に響く。
ごめんなさいを言わなければならないのは衿香の方だった。
何も知らず、知ろうともせず、母に愛されていないのだと思い込み。
母に関わることを諦めた自分。
母はこんなに愛してくれていたのに。
「ごめんなさい」
衿香のくちびるから小さな声が漏れた。
と同時に頭を撫でる手が止まる。
「衿香ちゃん?」
はっと衿香は目を開いた。
目に飛び込んでくるのは白い天井をバックに衿香を覗きこむイケメンの顔。
「どしたん?怖い夢でも見た?」
なぜ晴可が寝ている衿香の頭を撫でているのか。
いや、それよりここはどこなのか。
混乱する衿香の目尻を晴可が指先でそっと拭った。
「もう大丈夫やよ?ここは俺んちの病院や。衿香ちゃん貧血で倒れたん覚えてる?」
貧血。
ああそうか。
血を抜いたんだ。
出雲の家での出来事が鮮やかに衿香の頭に甦る。
「顔色ももういいな。睦月が頑張った甲斐があるわ」
「え?」
「睦月な、一生懸命衿香ちゃんに気を与えすぎてぶっ倒れたんや。あいつの体調も万全じゃなかったしなあ。一応止めたんやけど」
「倒れたって……!」
衿香は言葉を失った。
連絡を絶っていたはずの睦月がどういう経緯で衿香に気を与えることになったのかは分からないが、またしても睦月に迷惑をかけることになってしまったのか。
「ああ心配しやんでも。睦月が出雲の家に衿香ちゃんを助けに行ったのは覚えてる?」
顔を曇らせたまま衿香は微かに首を傾げた。
「あいつな、血相変えて学園飛び出したんやって。その時はそやから俺の言うことを聞かんと懐の中に入れとかへんからやって、思ったんやけどな」
衿香の枕元で頬杖をついた晴可の眼鏡の奥の瞳が優しく細められた。
「そういう愛情もあるんかなって。今は少しだけそう思う。大事に囲いすぎるのは俺の悪い癖やから。囲われる方の気持ち、考えてなかったかもな。そやから、衿香ちゃんを自由にさせてやれる睦月の度量の大きさには感心する」
「睦月先輩は?」
「別の部屋で休んでるけど、すぐに来るんちがうかな……」
晴可が言い終わらないうちにドアが勢いよく開いた。
「ああ!!なんで晴可がここにいる訳!?」
そこには怒りの表情を浮かべた睦月の姿があった。
「もう~。睦月の怒りんぼさん。お前が寝てる間、見守ってただけやん」
へらへらと笑う晴可を鋭い視線で睨みながら、足どりも荒く睦月が部屋に入ってくる。
「女の子の寝てる部屋に勝手に入るなんて犯罪だよね?」
「嫌やなぁ。人聞きの悪い。睦月かておんなじやん」
「僕は祥子さんに許可をもらってる。それに仮にも晴可は婚約済みの身の上だろ?朝霧ちゃんに言いつけるよ?」
「なんもやましい事はしてへんよ?」
そう言いながらも雅の名前が出ると晴可はどこか慌てた様子で立ち上がった。
「ほなもう行くわ。衿香ちゃん。よう休みなね?」
慌ただしく部屋を出ていく晴可を冷めた視線で追っていた睦月がふう、と軽くため息をついた。
その視線が衿香に向けられた途端、衿香の心臓が激しく脈打った。
晴可は睦月が出雲の家に迎えに行った、と言っていた。
微かにその姿を見たような気もするのだが記憶が曖昧ではっきりしない。
つまり衿香にとって睦月と言葉を交わすのは学園の桜の木の下で別れて以来ということになる。
その時のシチュエーションと共に、また来週という約束を破った罪悪感が胸の中にじわじわと甦ってきて、衿香はまっすぐ睦月の目を見ることができなかった。
「衿香ちゃん?」
不思議そうに少し首を傾げた睦月が衿香の横たわるベッドに近付いてくる。
その表情に先程の険しさはない。
何か言わなければ。
そう思うのだが頭の中は虚しく空回りするだけだ。
視線を彷徨わせる衿香の頬を睦月の指がするりと撫でた。
「ごめんね?辛い時にそばに居てあげられなくて」
「……っ」
情けなく眉尻を下げた睦月の口から出てきたのは、謝罪の言葉だった。
思いがけない言葉に息を呑み、固まる衿香の頭を睦月がそっと撫でる。
その手があまりに温かくて、優しくて、どんな言葉よりも雄弁に衿香への想いが伝わってくるようで。
衿香の顔がくしゃりと歪む。
「僕がちゃんと傍に居れば、出雲に手を出させることもなかったかも知れない。血の提供だって、もっと体調を考えて万全の態勢で出来たかも知れない。それなのに、僕はくだらない事をぐだぐだ考えて何もしなかった」
そんなことはない。
勝手に離れていったのは自分なのだ。
思い返せばいつもそう。
睦月先輩は私のやりたい事を止めなかった。
どんな無謀なことでも、仕方ないなと苦笑を浮かべて見守っていてくれた。
そして私が傷つき疲れたら、その腕でいつも受け止めてくれた。
想いと共に涙が溢れて言葉にならない。
もどかしい気持ちで衿香は両手を伸ばした。
衿香が今、本当に欲しいものに向かって、まっすぐに。




