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母の過去

 衿香たちが部屋に入ると、正面に置かれた大きな書斎机に向かっていた男性が立ちあがった。

 出雲と同じくらいの身長だが、肩幅は出雲よりがっしりしている。

 ダークな色合いのスーツに身を包んだ男性は、出雲の父というには若いように思えた。

 入り口で立ちすくむ衿香の元に、彼はゆったりと歩み寄った。

 

 似ている。

 近付くほどにその顔立ちがはっきりと分かり、衿香は息を飲んだ。

 もちろん出雲に似ている。

 だがそれ以上に彼は兄の綾人に似ていた。

 誰が見ても兄弟だと言えるほど。


「君が衿香か」


 耳に心地よいバリトンが衿香の名を呼んだ。

 微かに頷くと長い腕が伸びてきて、ふわりと衿香の体を抱きしめた。


「やっと会うことができて、うれしいよ」


 初めて会うのに懐かしいのは何故だろう。

 そういえば初めて出雲に会った時、いきなり抱きしめられたのに嫌悪感は感じなかった。

 それが血、というものなのだろうか。


「ほらほら、父さん。衿香は聞きたい事があるんだから。いい加減離してやれよ」


 苦笑交じりに出雲が言うまで、彼は衿香の体を離さなかった。


「私の名は出雲義隆だ。父は出雲義文、母は綾香。つまり私は君の異父兄だ」


 そう言って義隆は衿香に革製の写真立てを渡した。

 入れられているのは二枚の写真。

 一枚には満面の笑顔で振り向く少女が一人で写っている。

 そしてもう一枚には寄り添う男女の姿があった。


「これは結婚前の母の写真だ。そしてこれが結婚後。母のお腹には私がいる」


 母にも若い頃があった。

 そんな当然のことが、突然現実味を帯びて衿香の目の前に差しだされた。

 少し驚いたような笑顔は、眩しいほどの生命力に溢れていた。

 

「この時母は十五歳。高校一年生だった。父と母は写真を通して知り合ったそうだ」


 言われて見ると母の手には黒い大きなカメラが握られている。


「そしてこちらはその十ヶ月後」

「十か月?」


 だとすればこの写真の母はまだ十五、六のはずだ。

 今の衿香と同じ年齢で母は結婚妊娠した。

 その事実以上に衿香を驚かせたのは二枚の写真の表情のちがいだった。

 一年足らずの間で人の雰囲気はこんなに変わるものなのだろうか。

 衿香は眉をひそめた。

 母の肩を抱き、晴れやかに笑う男性。

 だが肩を抱かれた母の顔に浮かぶ表情は曖昧だ。

 笑っているとも、泣いているとも、困っているとも取れる顔でカメラを見つめている。

 愛する人と結ばれ、その子を体に宿し、幸せの中にいる女がこんな顔をするものなのだろうか。


「不思議だろうね。何故母がこんなに哀しそうなのか」


 義隆が衿香にソファーを勧め、自らもその隣に腰掛ける。


「この結婚は、母にとって本意ではなかったんだよ」


 写真にそっと指を這わせ、義隆は話し始めた。


「父と母はある高校が主催した写真会で出会った。そこで父は母に一目惚れした。母はとても魅力的な人だったそうだ。だが母にはすでに婚約者がいて父に心を動かす事はなかった。その婚約者というのが後に君の父となる神田総一郎氏だ。……だが父は諦めなかった。いや、諦められなかったんだ。父にとって母は伴侶だったのだから」


 伴侶。

 その言葉に衿香は目を見開いた。

 それは人外にとって逆らうことの出来ない絶対的な運命の相手。

 

「知っているんだね?伴侶のことは」


 そう衿香に尋ねる義隆の目は哀しみに溢れていた。


「神田氏には申し訳ないと思う。だが、父にもどうにもならなかったのだとも思う。心を動かさない母を父は無理矢理人外化し、全てを奪った」

「……っ!」


 ドラマやニュースの中ではよくある話だ。

 だがそれは作り話ではない。

 現実に自分の母の身に起こったことなのだ。

 もし今の自分に同じことが起こったなら、衿香は生きていける自信がない。

 衿香の脳裏に優しく微笑みを浮かべる睦月の顔が浮かぶ。

 想いを寄せる相手が別にいるのに、他の男に奪われ、人ですらなくなってしまった母は何を思い日々を生きたのだろうか。


「母は自ら死を選んだ。何度も何度も。だが、父の手がそれを阻んだ。何度死のうとしても、父はそれを許さなかった」


 義隆は何かを堪えるように目を瞑った。


「やがて母は私を妊娠した。母は、私を産むために、生きることを選んでくれた。私が産まれる日まで仮そめだが穏やかな日々が続いた。母は分かっていたのだろう。私を産めば、その命が削られることを。分かっていて、私を産んでくれた。自分の命と引き換えにして」


 義隆は写真の母をじっと見つめた。


「私を産んだ直後、母はこん睡状態に陥った。父は必死で看病したそうだ。ある日、こん睡状態の母がうわ言で神田氏の名を呼ぶのを聞き、父は深く絶望した。父は母を愛するゆえに奪ったのだ。不幸にしたくて奪った訳ではない。死に直面した母を前に、父は決断する。母を手放す事を」

「でも……」


 伴侶というものは、逆らうことの出来ないものではないのだろうか。


「そうだ。生きている限り、父は母のことを追い求めてしまう。伴侶とはそういうものだ。父は母に持てる全ての気を与え、自ら命を絶った。母が生きていたならば、神田氏の元に戻してやってほしいという言葉を遺して」


 壮絶な愛。

 一言で言ってしまえば簡単なことだ。

 だが、義隆の父は命を懸けて母を愛し、命を懸けて母を守り抜いたのだ。

 衿香は母のことを何も知らなかった。

 知ろうともしなかった。

 なぜ母が外出どころか、離れから一歩も外に出ずに生活しているのか。

 そういうものなのだと、疑問に思うこともなかった。


 『自由に生きて』


 そう言った母の言葉の重みが、今になってようやく理解できたような気がした。



 

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