新しい生活
「めんどくせえ」
高い木の上、太い木の幹にもたれながら半ば寝そべるような態勢で木田はつぶやいた。
眼下に広がるのは女子校の敷地。
そこでは学園よりも一足早く行われる文化祭の準備が慌ただしく進んでいる。
木田が用のある少女はその準備の中心になって動いているため、なかなか接触の機会がない。
朝から姿は確認しているのだが、彼女の元には指示を仰ぎに生徒たちが入れ替わり立ち替わり途切れることなくやってくる。
「いい加減休みとれよ」
木田の見ている限り、彼女は朝から一度も休憩をとっていない。
時計を見れば昼も過ぎている。
「お?」
いい加減自分も空腹でイライラしてきた頃、木田の祈りが通じたのか彼女の元に一人の少女がやってきた。
一言二言会話を交わしたあと、彼女はようやく庭園を離れ一人で歩き出した。
衿香が転校したのは元々通っていた女子校の高等部だった。
転校したのが文化祭の一週間前というのも理由の一つだろう。
衿香は転校初日から何の違和感もなく、周りに溶け込むことができた。
それどころか中等部で生徒会を経験しているからと、現生徒会長の独断で生徒会補佐という取ってつけたような名前の役職を押し付けられ、目の回るような毎日を過ごしていた。
一般的な高校の文化祭とちがって、女子校の文化祭は生徒が主体で行うものではない。
学校側がメインホールに一流の芸術家を招いて観賞会を開く、文字通り文化を愛でる祭りなのだ。
三日間行われるその演目は音楽鑑賞を始めとしてバレエ、日舞、オペラと多岐に渡っている。
出演者との交渉とプログラム作りは学校側で行うのだが、機材の搬入などの雑用は生徒会が仕切ることになっている。
それに加え女子校が誇る大庭園で開かれるガーデンパーティーの準備や最終日に行われるダンスパーティーの会場準備、ケータリングの手配。
もちろんほとんどの作業は業者に委託するのだが、業者との打ち合わせや設営の立ち会いなどは生徒会及び文化祭実行委員が行わなくてはならない。
九月末で三年の生徒会役員が引退するため、現体制になって初めての行事に生徒会長の力も入っている。
だからっていきなり生徒会補佐はないと思うんだけどなあ。
衿香は手にした書類に目を落としながら歩いていた。
午前中一杯かかって庭園にテーブルや椅子が運び込まれ、庭園の木々には電飾が施された。
この後は軽食や飲み物を提供する業者が調理器具を運び込むのに立ち会う予定だ。
女子校に来て一週間。
目まぐるしく過ぎて行く日々に神田の後継者のことや学園のことをゆっくり考える時間はなかった。
そのおかげで胸をぽっかり抉るような生々しい喪失感はほんの少し薄れていた。
けれど。
あの時、桜の木の下でまた来週と言って別れた睦月の顔を思い浮かべると途端に胸がざわめく。
連絡をしていないのだから連絡がないのは当然なのだ。
なのに忘れられたいと思いながら、探し出してほしいと願う自分がいる。
このまま離れてしまえば何の言葉も残さなかった薄情者と忘れ去られていくのだろうか。
そんな事を考えているときゅっと胸が詰まり息をすることさえ苦しくなる。
今はまだ。
衿香が立ち止まり、そっと制服の胸に手を置き苦しい息を吐きだした。
かさり。
傍らの茂みで微かに葉っぱを揺らす音がした。
「騒ぐな」
一瞬、衿香は自身に何が起きているのか理解できなかった。
口を覆う無骨な手。
右肩から左腕にかけてがっちり回された腕。
「んんんっ」
茂みから現れた腕に引っ張り込まれ拘束されている事実に気が付いた衿香は、口を覆う手を何とか引きはがそうともがく。
「抵抗しても無駄だ。痛い目に遭いたくなければ大人しく我らに従え」
我ら、という言葉に衿香は目だけを動かして周りを見る。
衿香を拘束している男以外に三人の姿が確認できた。
全員衿香の知らない顔だ。
「我々が欲しいのはお前の血だ。大人しく差し出せば危害は加えない」
血。
衿香は目を瞬いた。
では彼らは学院の者?
衿香の前に大きな注射器を手にした男が立った。
ちょっと、今!?
注射器の大きさに衿香の目が見開かれる。
なんとか口に張り付いた手を引き剥がし、悲鳴を上げることが出来ないものか。
必死にもがくが男の手はびくともしない。
男の手を掴む衿香の左手が強い力で引きはがされた。
「~~~~~!!!」
「動くな。下手に動くと痛む」
衿香の腕をがっしりと掴んだ男が衿香の制服の袖を手早く捲りあげた。
空気に晒された肌がざわりと粟立つ。
迫りくる注射器の針を見ていられなくて、衿香はギュッと目を瞑った。
痛みを覚悟した時。
どん!!
体が投げ出され、衿香は地面に手を着いた。
「誰だ!?」
「お前らこそ何だ?」
「邪魔するなら手加減はしないぞ」
「手加減結構。まとめてかかってきていいぞ」
この声は。
衿香はハッと顔を上げた。
そこには四人の男と対峙する木田の姿があった。
木田は強かった。
手近にいた一人を殴り倒し、同時に背後から飛びかかってきた一人を回し蹴りで仕留める。
残りの二人も衿香が瞬きしているうちに地面に這いつくばっていた。
「よう。久しぶりだな」
あっという間に四人の男を叩きのめした木田は、息すら切らしていなかった。
「ケガはねえか?」
地面に座り込んだ衿香の手を引いて、木田が尋ねた。
立ち上がった途端に衿香の体が震えだす。
その体を、木田はいつになく優しい仕草でそっと抱きしめた。




