母の懺悔
衿香は以前通っていた女子校の高等部に編入することになった。
通学も認められていたが、衿香は寮生活を選んだ。
正直、今は家のことは考えたくなかった。
自分を切り捨てた家で笑っていられるほど神経は太くない。
そう。
衿香は父に切り捨てられたのだ。
兄を手に入れるために。
転校の手続きが済むまでの一週間、衿香は家でぼんやりと過ごしていた。
本当は起きるのも億劫なほど、心が疲弊していた。
時間が出来たら読み返そうと思っていた本を手に取っても、内容が頭に入らない。
本の整理も持ち物の整理も、しなくてはならない事はあったが、やる気が全く起きなかった。
だが寝てばかりいたら佐和が心配する。
とりあえず衿香は母の見舞いを日課にした。
庭の花を適当に摘み、花瓶に生ける。
その後はひたすら眠る母の傍らに置いたソファーに座っていた。
傍から見れば、意識を取り戻さない母を心配しているように見えたが、実際衿香は何も考えていなかった。
ただ時間が過ぎるのをじっと待っていた。
その日もそんな風に時間が過ぎるのを待っていた。
明日には寮に移る。
ようやく、ここを出ていける。
温かい秋の光の満ちる部屋の中。
いつの間にか衿香は浅い眠りに落ちていた。
ふ、と衿香は目を覚ました。
なんだろう。
この違和感は。
きょろきょろとあたりを見回した衿香は、ベッドに横たわる母の姿にぎょっとした。
ずっと眠ったままだった母は、はっきりと目を開いて衿香を見つめていたのだ。
「お、かあさま?」
驚きのあまり喉に言葉が引っかかる。
そんな衿香を見て母はふわりと微笑んだ。
「お目覚めになりましたか?佐和さんを呼びます」
そう言って慌てて立ち上がろうとする衿香を止めるように、母がすうっと手を伸ばした。
「お母様?」
母はその手をサイドテーブルの方に伸ばした。
「取って」
微かな声で母は確かにそう言った。
その指が示すのは、黒い無骨なカメラだった。
これ、見たことがある。
手に取った衿香はなぜかそう思った。
衿香が学園で持っていたものより、ずっと重いそれは母のものなのだろうか。
カメラを差し出そうとした衿香に母は微かに首を振った。
「あげる」
「え?」
あげるとは、これを自分にくれると言うのだろうか?
衿香は首を傾げた。
母はそんな衿香に微笑み続ける。
「ごめんね」
意味が分からない。
母はこのカメラで何を償おうというのだろう。
「怒って、ごめん」
その時、衿香の頭に物凄い勢いで幼い頃の記憶が甦った。
穏やかな季節だった。
幼い衿香と一緒にいた女の人が、黒いそれを持って庭の花にそれを向けていた。
何をしているんだろう。
カシャリカシャリと空気を切り取るような快い音を聞きながら、幼い衿香は草花を摘んでいた。
ふと、何かを思い出したように女の人が黒い物を芝生の上に置き、家の中に入って行った。
興味津々、衿香はそれに手を伸ばした。
黒くてずっしりしたそれは、衿香がやっと持ちあげられるほど重かった。
持ちあげるのを諦めた衿香はぺたりと寝そべり、女の人の真似をして小さなガラス窓を覗いた。
庭の風景が小さく切り取られて映っていた。
小さな風景はとても美しく新鮮だった。
ふと気が付くと小さなスイッチのような物が付いている。
そっと触れてみる。
そのすべすべした感触が気持ち良くて、つい力が入る。
カシャリ。
爽快な音がした。
もう一度カシャリ。
写真を撮るという意味も分からず、衿香はシャッターを切り続けた。
「何してるの!?」
突然のことだった。
女の人の叫び声と共に衿香の目の前から黒いそれが消え去った。
訳が分からずぽかんと口を開けたままの衿香を、それを手にした女の人は鬼のような形相で睨みつけていた。
それ以来、衿香は女の人と遊ぶことはなくなった。
あれは、母だったんだ。
衿香は手の中のカメラを見つめながら遠い日の記憶に思いを馳せていた。
ああ、だから。
生徒会室で写真を褒められた時に聞こえたあの声は自分の声だ。
『ママに叱られるからお写真は撮らない』
あの声の意味はこれだったのか。
でもなぜ母は、今これをくれようとするのだろう。
母に視線を戻す。
「怖かったの。カメラは、私の運命を、変えてしまったから。衿香が、カメラを好きになったら、衿香の運命も、私のように、狂ってしまいそうで」
息が続かないのか、母は途切れ途切れに話す。
それが苦しそうで衿香は母の言葉を遮った。
「お母様。急にお話になられては体に障ります」
母は衿香の言葉に首を横に振った。
「私は、間違っていた。衿香の人生は、衿香のもの。私と同じはずが、ない。だから、衿香、好きな事を、しなさい。誰の、ためでも、ない。自分の、ために、生きて」
その言葉に衿香は言葉を失った。
自分のために生きる。
それは先日、神田のためだけに生きてきたことを否定された衿香にとって、重い言葉だった。
衿香は黙って手の中のカメラをギュッと握りしめた。
母は優しく微笑んで衿香を見守っていた。
どれくらいの時間が過ぎたのだろうか。
衿香が母の顔を見ると、母は安らかな寝息を立てていた。
夢?
だが手の中にあるのは、確かに母のカメラだ。
呼びかけても母はもう目覚めない。
いつの間にか部屋は柔らかなオレンジ色に染まっていた。




