捕獲
無意識のうちに勝手に足が回れ右をしていた。
だが、数歩も歩かないうちに後ろから腕を掴まれてしまう。
なぜかくるりと体が反転したかと思うと、背中が固い壁に押し付けられた。
「逃げるのは、なしね?」
耳元でささやかれる低い声に、衿香は抵抗を諦めた。
大人しく腕の中に収まった衿香に満足して睦月は手を離した。
逃げる衿香をとっさに抱き寄せてしまった睦月だが、思いのほか彼女が不足していたようだ。
これ以上抱き寄せていたら正常に理性が働くか、自分の事ながら自信がない。
こころもち俯いた衿香が逃げる気がないのを確認すると、睦月は衿香の隣に並んで壁に背を預けた。
「一週間ぶりかな?元気にしてた?」
「……はい」
「いろいろ聞きたい事もあるんだけど、まずは僕の話から聞いてもらえるかな」
「話、ですか?」
「うん。球技大会の時に僕と一緒にいた女の子の事。きちんと説明してなかったよね」
「……」
「彼女の名前は星宮 姫ちゃん。去年の四月から十一月まで学園にいて、朝霧ちゃんのルームメイトだった子なんだ。自称朝霧ちゃんの親友。朝霧ちゃんと晴可のキューピットも彼女」
「星宮 姫さん……」
「そう。信也が密かに想いを寄せている女の子。でも彼女は普通の女の子じゃない。僕たち人外の力を封じる事のできる能力を持つ、加護持ちと言われる一族なんだ。彼女を学園に呼んだのは晴可だよ。僕たち学園の在校生だけでは朝霧ちゃんの身の安全が計れないという理由で、晴可は姫ちゃんを呼び寄せた」
睦月は衿香の顔をちらりと覗きこむ。
固かった衿香の表情がほんの少し緩んだのは気のせいだろうか。
「ごめんね?忙しさに紛れてちゃんと説明してなかったよね。何も知らない衿香ちゃんから見たら、誤解を招いても仕方ないと思う」
「……誤解なんて」
「しなかった?」
下を向いたままの衿香の制服のポケットに睦月の手が伸びた。
あっという間に睦月の長い指が、衿香の携帯を摘み出す。
「あっ」
「これで僕の動向を把握してたよね?」
衿香の目の前で携帯をひらひらさせ、にっこり微笑んだ睦月はまたもやあっという間に衿香のポケットに携帯を戻した。
「夏目も協力してたよね?そこまでして僕を避けてた理由はなんだったのかな?」
敵わない。
衿香は手も足も出ない自分に歯噛みした。
避けていた理由を口にする訳にはいかない。
でもどんな言い訳も睦月には通じない。
どうやってこの場を切り抜ければいいのか。
必死で衿香は考え続けていた。
「衿香ちゃん?」
「……私が会社のためにここに来たこと、お話しましたよね?」
「うん」
「ここに遊びに来ているわけじゃない、という事に、改めて気付いたんです。だから、私は睦月先輩の気持ちに、答える訳にはいかない」
「……だから避けるの?」
「じゃあ、先輩は、もう私に構わないでとお願いしたら、そうしてくれますか?」
衿香の問いに睦月は顎に手を当て考え込む。
このまま引いてくれないか、と衿香は強く願った。
分かったと、一言言ってくれれば。
「衿香ちゃんは僕の事が嫌いなの?」
「……っ」
睦月の呟きが衿香の心に鋭く突き刺さった。
その思いもかけない大きな痛みに、衿香の顔が歪む。
「衿香ちゃんが僕の事を嫌いなら、諦める。話しかけるなと言うなら、話しかけない」
なぜ、自分の願いを受け入れてもらえるというのに、涙が出そうなんだろう。
衿香は下を向いてぎゅうっと目を瞑った。
「でも、そうなんだったら、ちゃんと僕の目を見て、そう言ってほしい」
睦月の口から出た言葉に、衿香は息を呑んだ。
そんなこと、今は、無理だ。
だって。
下を向いたままの衿香の顎に睦月の指がそっとかかる。
優しい手つきなのに、有無を言わせぬ力で衿香の顔が上向けられた。
「……きらいです」
こぼれそうになる涙を必死で堪え、衿香が声を絞り出す。
その顔を見た睦月が深いため息をつく。
「衿香ちゃん。そんな顔をして嫌いって言われても……」
自分の中で必死に保っていた理性がはじけ飛ぶ音を、睦月は聞いたような気がした。
衿香の嫌がることはしないと、睦月は誓った。
今日だって、話を聞きに来ただけだ。
手出しをするつもりなど、これっぽっちもなかった。
だが、衿香の泣き顔は恐ろしいほどの破壊力で睦月の理性を打ち砕いた。
気が付いた時には無意識のうちに勝手に手が動き、衿香の体を抱き寄せていた。
その柔らかい体に、芳しい香りに、陶然となる。
「だって……」
くしゃりと歪む衿香のくちびるに吸い寄せられるように、睦月のくちびるが近付いていく。
「もう、黙って」
睦月の吐息が衿香のくちびるを掠めた。
衿香の周りから全ての音が消えた。




