二人の秘密
自分が去った後の空気が、あり得ないほど重くなっていた事など知らない衿香は、日にちが変わる頃にやっと帰りの車に乗り込んだ。
車のシートに体を沈め、深々と息を吐く。
疲れた。
けれども首尾は上々だ。
この夏休み、社交返上でバレー部の密着取材をしていたおかげで、軽く扱われていた衿香の存在を思う存分アピールする事ができた。
ライバル会社の娘は激高した挙句、衝動的に手近なテーブルにあったシャンパンを衿香のドレスにぶちまけた。
おかげで彼女の評判はガタ落ち。
衿香も汚れてしまったドレスを言い訳に、思ったより早い時間に引き上げることができた。
心地よい疲労感に包まれ、衿香はいつの間にか眠りの世界に引き込まれていった。
「お嬢様。家に着きましたよ」
運転手に揺り起こされ、衿香はぼんやりと目を開いた。
ドアを開けてもらうのにも気がつかないなんて、稀に見る熟睡だ。
ドレスから微かに匂う、アルコールの匂いに酔ったのだろうか。
「ありがとう」
頭を一振りして、眠気を振り払う。
車から降り、玄関で出迎えてくれた佐和にもう休んでいいと伝え、ダイニングで冷たい水を飲む。
さて、寝よう、と足を踏み出した衿香は、階段の下にいる人影に気がついた。
「おかえり」
「睦月先輩。泊っていらしたんですか」
「うん。朝霧ちゃんがなかなか本の世界から帰ってこなくてね。綾人さんがどうせなら全員泊っていけって」
「そうですか」
衿香はゆっくりと睦月に向かって歩いていった。
その時。
あれ?
なぜなんにもない、平らな床の上でつまづいたんだろう。
衿香にも分からない。
けれども、気がついた時には衿香はバランスを崩していた。
あ~、パーティー会場じゃなくて良かった。
できれば、睦月先輩もいない所だったら良かったのに。
体が投げ出される感覚を覚えながらも、そんな事を考えていると。
あれ?
痛くない?
覚悟していた衝撃は襲ってこなかった。
代わりに感じるのは、人の温もり。
「あわわわわ!ごごごめんなさい!」
睦月との距離はどう少なく見積もっても数メートルはあったはず。
なのになぜか衿香は睦月の腕に抱きとめられていた。
衿香は慌てて体を立て直し、腕を伸ばして睦月の体を押しやる。
「そんなに僕がいや?」
頭の上から響く、傷ついたような睦月の声色に、衿香は慌てて体の前で両手を振る。
「ちがうんです!その、今日は色々アクシデントがあって。ドレスにシャンパンがかかっちゃいまして。一応乾かしたんですけど、汚れちゃうといけないから……」
頭の片隅では、なぜこんなに慌てて言い訳してるんだろう、と冷静に突っ込む自分を感じる。
が、最後まで言い終えるより早く、衿香の頬は睦月の胸にむぎゅうっと押しつけられていた。
「だ、だから……」
「そんな事聞いたら余計やめられないじゃない。やっぱり大変だったんだね。ちょっとだけ、じっとしてて」
あわあわする衿香の頭に、睦月のくちびるが落とされる。
睦月の腕の中、与えられる温かさに心地よいような、どこかむずむずするような感覚に衿香はギュッと睦月の服を握った。
「も、もしかして、これって気を入れてるって事なんですか?」
衿香は、ふとお祭りへ行く途中で聞いた人外の話を思い出した。
「ん。僕にはこれくらいしかしてあげられないから」
「ダダダダメですよ!睦月先輩はこれから学院との調整で大変じゃないですか!?私に力を使っている場合じゃありませんよ?」
「……晴可がね、言ったんだ。無理してる衿香ちゃんを黙って見送るのかって。それでいいのかって」
「貴島さんが?」
「晴可はさ、朝霧ちゃんを全ての事から守る覚悟で彼女を愛してるし、その力を持っている。だから、衿香ちゃんの事を見過ごす事が出来ないんだろうし、何も言わない僕たちに怒りを覚えるんだと思う。けど、ちがうだろ?衿香ちゃんは守ってもらって安穏と笑っていられるような人じゃない」
どきりとした。
衿香は他人に分かってもらおうと思った事はない。
自分のやる事は、全て自分がやりたくてやっている事だ。
その理由を他人に語るつもりはないし、これからもないと思っていた。
でも、なぜだろうか。
自分の事を睦月は理解している。
そう思うとなぜかもっと知ってもらいたいと思った。
自分がそんなにできた人間じゃないという事を。
「え、とですね。私、今日は、変なんです」
「変?」
「はい。もしかしたらドレスにかけられたシャンパンの匂いで酔っちゃったのかも」
「大丈夫?」
「だから、今から言う事、酔っ払いのひとりごとだと思って、忘れてもらえますか?」
睦月は小首を傾げて、腕の中の少女の頭を見ていた。
「貴島さんに言われました。百パーセントの社交なんてできないって。今日できなければ次に挽回すればいいって。でも私にはそれは出来ないんです。私が弱い人間だから」
「弱い?」
「もし、自分に選択肢を用意したら、私は今日行かなかったかも知れない。もし今日行かなかったら、次も行かない理由をきっと探してしまう。自分がそういう弱さを持っている人間だと知っているから、私は自分にノーと言わせないために選択肢を用意しません。それが他人から見たら、自分を犠牲にしているという風に映るんでしょうが、ちがうんです。私は人のために自分を犠牲にしたことなんか一度もない。自分のしたいように、自分が神田衿香として胸を張って生きたいという、ただそれだけのために、自分のちっぽけなプライドのためにやっているだけの事なんです」
ふ、と睦月が頭の上で笑うのを感じた。
「おかしいですか?」
一瞬、言わなければ良かった、と後悔が衿香の中に押し寄せる。
「ううん。おかしくないよ。衿香ちゃんらしいって思って」
そう言って睦月は再度衿香の頭にくちびるを寄せる。
「君の思うようにやればいいよ。だから今はじっとしてて。僕にできるのは見守ることと、ほんの少しの力を与えることだけだから」
「……はい」
衿香は素直にそう言い、静かに目をつぶって小さくつぶやく。
「約束ですよ。忘れてくださいね」
衿香の頭の上で、睦月がくすりと笑った。
ここまで読んでいただいてありがとうございました。
これで夏休み編は終わりです。
次からは学園のお話に戻ります。
新学期はどんなイベントを用意しようかな。
またしばらく更新に間が開いてしまいますが、皆さまの楽しんでいただけるお話が書けるようにがんばりますので、よろしくお願いいたします(^^)




