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ガールズトーク

 浴衣の帯をするすると緩め、衿香はほおっと息をついた。

 いくら上手に着付けてもらったとはいえ、久々の浴衣は肩がこる。

 浴槽に体を沈め、衿香はせっせと足のマッサージを始めた。

 楽しくて気がつかなかったが、慣れない下駄で沢山歩いたからか、ふくらはぎがパンパンに張っていた。

 お兄さまももう少し気を使う事を覚えてもらいたいわ。

 未だ、宴席から解放されていない先輩たちも、きっと疲れているだろうに。


 夏祭りから帰ってきた衿香は、エントランスでくつろぐ兄とその友人たちの姿を見て盛大に眉をしかめた。

 彼らの前のテーブルに並べられた彩りも美しい料理の数々。

 その量と椅子の数を見れば、それらが衿香たちのために用意されていたのは一目瞭然。

 せめてエントランスではなく客間に用意してくれれば、気付かない振りをする事もできただろうが。

 とりあえず着替えたいからと、雅を誘って衿香は自室に引き上げたのだ。


 先にお湯を使った雅は、衿香の部屋の中央に立ちすくんでいた。

 衿香に案内された部屋は二階の角部屋。

 さぞや女の子らしい部屋なのだろうと勝手に想像していた雅は目を見張った。

 居間として使われているらしい広い部屋の壁は、窓と隣室へ続く扉を除き、全てが本で覆い尽くされていたのだ。

 衿香と初めて会った時、本の趣味が似ているな、とは思っていたが、これほどの読書家とは思わなかった。

 ただただ、ずらりと並ぶ本の多さに圧倒されていると、浴室に繋がるドアが開いて衿香が入ってきた。


「あら、雅先輩。お座りになって自由に読んでくださっていてもよかったのに」


 衿香は微笑み、机に用意された冷たい水をグラスに注ぐ。

 

「ええ。ありがとう。それにしても凄い量ね。図書室みたい」


 衿香の差し出すグラスを受け取り、雅はため息をついた。

 衿香は水を一口飲んで、意外な言葉を口にした。


「本が友達だったんです」


 え?と雅は隣で微笑む美少女の顔をまじまじと見つめた。

 雅の知っている衿香は、本が友達だというような孤独な少女ではない。

 彼女はいつも人の中心で艶やかに笑っていた。

 雅の視線に、衿香は苦笑を返す。


「小学生の頃の話ですけど」

「小学生が、これを?」


 本の背表紙を目で追い、雅は言葉を失う。

 ジャンルは様々だ。

 小説、歴史書、童話にビジネス本。

 だが、どれをとっても小学生の読むものとは思えない。


「雅先輩に言った事があったかしら。私が小さい頃から父のお伴をしていたという事」


 雅が晴可との婚約解消を望んだ時。

 幼い頃から社交界に身を置く自分と比較するのは意味のない事だと、衿香は雅に言った。


「私の母は、体が弱くて、社交どころかほとんど自室から出る事もありません。結婚以来、社交は父一人でこなしていたそうですが、女性に言い寄られる事に辟易とした父は、兄を同伴するようになりました。でも兄は、大人しく父の隣にいるような子供ではなかったようで」


 衿香は苦笑を浮かべる。


「兄が出入り禁止を言い渡された頃に私が生まれたので、父はまだ乳飲み子だった私を連れ歩くようになったそうです」

「乳飲み子……」

「自身の虫除けと、母への批判を避けるために」

「……」


 何ともいえない顔になった雅をなだめるように、衿香は微笑む。


「社交界は私にとって、それほど悪い場所ではありませんでした。おじ様やおば様はこぞって私の面倒を見てくれましたし、彼らは色々な事を私に教えてくれました。でも、残念ながら、そんな風に育った私はおよそ子供らしくない子供だったんです」


 幼稚園には在籍していたが、通った事はなかった。

 さすがに小学校には行ったが、同級生たちの無法ぶりに付いていけなかった。

 大人の、それも政財界を代表する一流人の中で育った衿香にとって、同級生はおむつをつけた赤ちゃんのように思えて仕方なかったのだ。

 なんなの、この子達。

 そう思ったのは衿香だけではなかった。

 同級生たちも、子供らしからぬ落ち着きを備えた衿香を、異質なものとして扱った。

 

「自然と学校には行かなくなりました。行っても日常会話にさえ、ついていけなくて。だからこんなに本を読む時間があったんです。私は本から色んな事を学びました。友情、愛情、嫉妬、悪意」


 雅のまぶたの裏に、この部屋で一人静かに本を読む、天使のような子供の姿が浮かび上がる。

 それは孤独な光景だった。


「あら、そんな顔をなさらないで。中学で女子校の寮に入ってからは、ちゃんと人間の友人もできましたから」


 中学で全寮制のお嬢様学校へ進んだ衿香は、毎日の社交から解放されることになった。

 よく似た環境の者が多かったという事もある。

 その中で衿香はカリスマ性を発揮し、女子校史に名を残すカリスマ生徒会長となるのだが、それはまた別の話である。

 しばらく、ずらりと並ぶ本の背表紙を黙って眺めていた衿香が、おもむろに口を開いた。


「雅先輩は、貴島さんに初めて会った時、運命を感じましたか?」

「え?」


 衿香の突然の質問に、雅は目を瞬かせる。

 初めて晴可に会った時の印象は、確か最悪だったような記憶がある。

 けれどそれを正直に言っていいものやら雅は逡巡した。


「あれだけ溺愛されてるんですもの。やっぱり、出会いからちがうんでしょうね」


 雅の沈黙をどう捉えたのか、衿香は納得したように頷いた。


「私にはまだ恋という感情が分からないんです」


 衿香はほんの少し困ったように微笑んだ。


「本では色々読みました。でもどんな感情が恋なのか、さっぱり分かりません。本の知識なんてそんなものなんですよね」

「えっとね」

「いいんです。ごめんなさい。現役ラブラブカップルの雅先輩ならって思って、不躾な質問をしてしまいました。こんなこと、誰にも聞けなくて、つい。本当にごめんなさい」


 雅には、恥ずかしそうに下を向いて謝る衿香が、なぜかとても幼く見えた。

 さっきの話から察するに、衿香と母親はあまり交流がないのだろう。

 あとの家族は男性だし、衿香が友達に恋の相談をする図は想像できない。

 きっとその時が来るまで、自分だけの心の中で自問自答を繰り返すだけ。

 華やかな世界で華やかに生きている衿香も、たった一人で戦っている。

 そんな衿香が昔の自分に重なった。

 望まない環境の中、誰にも助けを求めず一人で生きていたあの頃の自分。

 雅は手に持ったグラスをそっとテーブルに置くと、何の躊躇もなく衿香を抱きしめていた。


「雅先輩?」


 この頃何かと抱き寄せられる事が多いけど、女の人に抱き寄せられたのは久しぶりだと、大人しく雅の腕の中に収まった衿香は考えていた。

 睦月のように華奢な体格でも、男は男だ。

 骨格のちがい、大きさのちがい、柔らかさのちがい。

 衿香に母の思い出は少ない。

 存命なのに、思い出が少ないというのもおかしな話ではあるが、年に数回顔を見るか見ないかという間柄の母に、衿香は抱かれた記憶などない。

 もし、母との関係が普通だったら。

 兄ではなく姉がいたなら。

 衿香は黙って雅の肩に頬を寄せ、考える。

 自分の感情に行き詰った時には、こうやって抱きしめてもらえたのだろうか。

 ただ黙って、抱きしめられるという行為に、無上の慰めを感じるのはなぜだろう。


「私だって同じだよ。恋どころか、自分の感情が分からなくなるなんてこと、普通だよ」


 雅がつぶやくように言う。


「晴可先輩に会うまで、私は人と関わる事を避けて生きてきた。だから、晴可先輩への思いに気付くまで、本当に長い時間がかかった。でも、必ず、自分の気持ちが分かる時が来る。大丈夫。みんな迷いながら生きてるんだから」


 静かな空気の中、衿香は黙って目を閉じた。

 


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