俺様登場
あれは、人?
衿香はじっと目を凝らす。
彼がソファーのようにゆったりと背を預ける木の枝は、どう見ても校舎の三階以上、屋上よりも高いように見える。
幻覚?
衿香はごしごしと目をこする。
「ダメだろ?目が赤くなっちまう」
こすっていた手がぎゅっと誰かに引っぱられ、衿香はあ然とした。
目の前に立っているのは、つい先程木の上に寝そべっていた男ではないだろうか。
ぽかんと口を開いたまま、自分をまじまじと見つめる衿香のほっぺを、男は軽くつまむ。
「そんな目で男を見るんじゃねえ。誘ってるのか」
「は、はああああああ!?」
男の言葉に一気に覚醒した衿香は、凄まじい勢いで男の手を振りほどいた。
「何言ってるんですか!?っていうか、あなた、誰!?」
手を取り戻した衿香は素早く男との距離をとる。
攻略者リストとして、学園の全ての男子生徒の顔は頭に入っている。
だが、衿香の前に立つこの男。
すらりとした痩躯に茶色がかった長めの髪、そして一度見たら忘れられないほどの自信に満ち満ちた美貌。
こんな男が学園にいたら衿香が気付かない訳ない。
「俺は出雲だ」
「出雲?」
警戒を強める衿香に満足そうに微笑み、出雲はすいっと彼女の髪に手を伸ばす。
衿香が身を引くが、構わずその絹のような髪をひと房すくう。
「上等だ。衿香」
名を呼ばれ、衿香の顔が強張る。
それを気にも留めずに、出雲は指から零れ落ちるさらさらとした髪の感触を楽しむ。
「どうして、名前を知っているのかって?」
出雲の形の良いくちびるがすうっと弧を描く。
「俺はお前を知っている。ずっと前から。お前が赤ん坊の頃から、知っているんだ」
衿香の髪をもてあそんでいた出雲の手がするりと彼女の後頭部にかかる。
まるで金縛りにあったかのように、衿香はただ呆然と出雲の端正な顔を見つめていた。
出雲の笑みが深くなる。
「ずっと、この時を待っていた」
出雲の手にすうっと力が込められ、衿香の体が引き寄せられる。
何の抵抗もなく、腕の中に収められた少女の髪に顔を埋め、出雲は顔をしかめた。
「マーキング」
出雲の低いつぶやきに衿香の体がピクリと反応する。
なぜなんだろう。
こんな、名前も知らない、顔も知らない男に、何の抵抗も出来ず、抱き寄せられて。
この状況を許している自分も信じられなかったが、もっと信じられなかったのは己の感情だった。
嫌悪感で一杯になるはずだった衿香の心の中にあるもの。
それは、嫌悪感とは真逆にある感情だった。
「こんな印、消さなきゃな」
出雲のつぶやきに、衿香の全身の毛細血管がぶわりと広がった。
なんか、まずい。
とにかく逃げないと。
一瞬熱くなった体が、すうっと一気に冷えていく。
ようやく逃げようと頭が働きかけた時には、衿香の体はがっちりと出雲の腕にホールドされていた。
「こら、暴れるんじゃねえ」
じたばたと腕の中でもがく衿香の頭の天辺に、出雲は軽くくちびるを落とす。
ふわりと感じる未経験の熱と柔らかさに、衿香の顔が引きつった。
「は……なして!!!」
思ったより毅然とした自分の声に衿香は勇気づけられる。
「出雲だか何だが知らないけど、初対面の人間にどういうつもりなの!?離しなさい!!」
出雲の手がふいっと緩められる。
助かる!?
喜んだのもつかの間、出雲は衿香のくちびるを上下まとめてムギュッとつまんだ。
「んむっ!?んんんんんん(いたいいたい)!!!」
「ん~?教育的指導が必要なのはどの口だ~?」
「んんんんんんんん(はなしてはなして)!!!!」
「二度と俺にそんな口を利かねえって約束するか?」
「ふんふん(うんうん)」
「まあ、初めてだし、仕方ねえな。特別だぞ」
やっとくちびるから出雲の手が離れ、衿香は涙目で口を押さえる。
今鏡を見たら、きっとたらこくちびるになっているだろう。
なんなんだ、この男。
楽しそうに目を細める出雲を前に、衿香は逃げる手段を必死で探していた。
その時。
「神田さん!?」
思いもかけない人の声が後ろから近づいてきた。
出雲の目が細められる。
その目はまるで獲物を前にした肉食獣のようだった。
出雲に腰を拘束されたままの衿香はとっさに体を捻って叫んだ。
「来ちゃダメ!!逃げて!!雅先輩!!」




