そしてスタートライン
これで第二章終了です。
一瞬、ほんの一瞬だけ気を失っていたのだろう。
気がつくと衿香は睦月の腕の中にいた。
ぼんやりと目を開くと、間近に見える白いシャツの襟から見える、女の子のものではない骨ばった首筋に衿香の古い記憶が甦る。
「やだっ!離して!」
とっさに衿香は腕を突っ張ろうとするが、睦月の手がそれを許さなかった。
真っ青になって体を捻る衿香を睦月はより深く抱きこむ。
「大丈夫。僕は君の嫌がる事はしないって、約束しただろ」
もがく衿香の耳に直接吹き込むように、睦月は静かに囁いた。
「やだやだやだっ!!そんな事言ったって信じられない!!」
力で敵わない衿香は体を小さく丸める。
むずかる幼子をあやすように、睦月はその背をぽんぽんと叩く。
なぜだろうか。
その仕草が男というより、庇護者を連想させたからなのか。
大丈夫、と繰り返される言葉と背中を叩く大きな手の温もり。
最初に感じた嫌悪感が徐々に薄れていく。
代わりに感じるのは包み込まれるような安心感。
その手から逃れようともがいていたはずの衿香は、いつの間にかその胸にすがりついて涙をこぼしていた。
「ごめん。いきなりショックだったよね」
久しぶりの号泣だった。
人前で涙を見せたのもそうだが、誰かの胸で泣くなんて物心がついてから初めての経験だった。
泣くって、こんなに疲れるものだったんだ。
何もかもが体の中から抜け落ちてしまったような虚脱感。
抜け殻のような体を睦月に預け、衿香はぼんやりと空を見ていた。
生まれも経歴も虚勢さえない、ただの神田衿香が、十五歳の女の子がそこにいた。
「兄に、聞いたんですか?」
涙に濡れた頬を拭おうともせずに、衿香がぽつりとつぶやく。
「晴可が教えてくれた。僕が衿香ちゃんに不用意に近付くのを見て、衿香ちゃんが傷つくんじゃないかと晴可は懸念したんだ。だから晴可の事は責めないでほしい。衿香ちゃんの気持ちも考えずに君に近付き過ぎた僕が悪かったんだから」
「だから、急にあんな約束、したんですね。私を守ると」
「うん」
「……彼は、陽介は、私から逃げたんです。私はずっと陽介を恨んできた。でも、本当に恨んでいたのは、自分自身。なぜあの時、陽介を拒めなかったのか。陽介が好きだったから?じゃあなぜ、私は、逃げた彼を、追いかけていかなかったの?結局、私は流されていただけ。何の覚悟もなく、恋という言葉に浮かれていた。そんな自分が情けなくて、どうしても許せなかった」
「衿香ちゃん。君はまだ子供だったんだよ。子供が初めての恋に浮かれて、何が悪いの?君は悪くない。もし君が自分自身を許せないと言うなら、僕が君を許すよ。君は全然悪くないんだ」
不思議な感覚だった。
睦月の声は彼の胸に付けた耳から直接、衿香の頭に低く響いた。
その声は衿香を許すと言う。
きつくきつく縛りつけていた心のどこかが、ゆるゆるとほどけていき温かい何かで満たされていく。
誰が衿香を許そうとも、自分は絶対許すつもりはなかった。
あの時の愚かな子供。
でも彼は許すと言う。
許されるのだろうか。
本当に……。
「私は、悪くない?」
ぼんやりと、まだ焦点の合っていない目で衿香は睦月を見上げた。
その視線の先で、睦月は揺るぎない自信に満ちた笑顔で頷く。
「私、本当は分かってた。あの時の陽介と同じ年になって、色々な事が分かるようになって、あの時の陽介にはああするしかなかったって事が」
双方の家族は幼い二人を守るために必死だった。
もしも、あのまま陽介が日本に留まれば、二人はどんな手を使ってでも会おうとしただろう。
それが現実になれば、未来に絶望した二人が何をするか。
家族は最悪の事態を懸念した。
衿香の未来を大切にしてやってほしいと、彼らに説得された陽介は決心したのだ。
愛する衿香の未来のために、彼女との絶対的な距離をとる事を。
手紙さえ残さず。
憎まれる事を承知の上で。
「どうしようもなかった。私は陽介が好きで、陽介も私が好きだった。何度繰り返したとしても、あの時の私は流されてしまうんだと思う。でも、そんな自分が嫌でたまらない。私があの時もっとしっかりしていたら、私たちの未来はどうなっていたんだろうって、どうしても考えてしまう」
「だから、衿香ちゃんが悪いんじゃない。悪いのは待てなかった彼の方だ。それが分かってたから、彼は身を引いたんだろう?」
また溢れだそうとする衿香の涙を、睦月の指がすくいとる。
「綺麗な思い出には出来ないと思う。でもその想いを知っているから、衿香ちゃんは人を救いたいと思うんだろ?過去の自分がいて、今の自分がいるんだ。過去の自分を疎ましいと思うなら、今の自分を誇ればいい。あの時の自分とはちがうんだと、胸を張ればいいんだよ」
睦月の言葉が静かに衿香の心に落ちていく。
「……ありがとうございます」
小さくつぶやく衿香の頭を、睦月はポンポンと叩いた。
「分かればよろしい」
満足げに微笑む睦月の顔を見ていた衿香がぷっと吹き出す。
「なにその反応?」
腕の中でくっくっと体を震わせる愛しい少女は、ぱっと顔を上げる。
これまでで一番破壊力のある笑顔が睦月の目の前にあった。
涙に濡れた晴れ晴れとした笑顔。
「だって、お父さんみたい、睦月先輩」
「なにそれ」
そう不満げな声を出しながらも、睦月は何かが吹っ切れたような衿香の笑顔に満足する。
この笑顔も、怒った顔も、泣き顔も、自分だけに見せてほしい。
この腕が、彼女が感情をさらけ出せる唯一の場所になればいい。
これはスタートラインだ。
鼻の頭を赤くして、どこかあどけない笑みを浮かべる衿香の髪をそっと撫でながら睦月は決意する。
絶対辿りついて見せる。
二人のゴールまで。
どこからともなく吹く一陣の風が、衿香の柔らかい髪をふわりとなびかせる。
ふたりが見上げる空は限りなく青く、一筋の飛行機雲がまっすぐにその青を切り裂いていった。
ここまで読んでくださってありがとうございました。
やっと衿香が泣く事ができました。




