呼び出し
婚約破棄を承諾する。
晴可の手紙が雅の元に届いた時も冷たい雨が降っていた。
自分が望んだ事なのに、その手紙を読んだ時、雅の全身からすうっと血の気が引いていった。
手紙には色々な事が書き連ねてあったが、溢れる涙で何も見えなかった。
雅はくしゃりと手紙を丸め、ゴミ箱に放り込む。
言い訳や謝罪はいらない。
婚約を解消するという事実だけで雅には充分だった。
そもそも最初から無理だらけの二人だったのだ。
日本を代表する貴島総合病院の息子と、天涯孤独の雅ではどう考えても不釣り合いだった。
なぜか自分に執着する晴可にほだされる様に交際を始めた雅だが、交際と婚約ではあまりに重みがちがいすぎた。
これで良かったのだ。
この頃大学で経営の勉強をしている晴可は、きっと日本を代表するような経営者になるのだろう。
その妻が私では、きっといつか晴可の足を引っ張る事になる。
彼のような人の隣に立つのは、衿香や玉紀のような人なのだ。
窓の外。
静かに雨が降る。
この雨が上がる頃には、私の涙も枯れているのだろうか。
あとからあとからこみ上げてくる涙を止める事も出来ず、一人雅は泣き続けた。
「ちょっといいかな、衿香ちゃん」
ようやく鬱陶しい梅雨が明け、夏休みを目前に控えたある放課後。
カメラ片手に廊下を歩いていた衿香の前に、いつになく厳しい顔の信也が現れた。
「はい?」
衿香は微かに首をかしげ、微笑んだ。
「聞きたい事があって、少し時間をもらえるかな」
固い表情を崩すことなく信也が続ける。
にっこりと衿香は頷いた。
生徒会室には雅を覗く全員と木田が顔を揃えていた。
一様に難しいような、困ったような表情の彼らに、日頃の気安い雰囲気はない。
という事は。
「あらまあ、皆さんお揃いで。木田先輩もいらっしゃるという事はお話は雅先輩の事でしょうか?」
部屋に一歩踏み込んだ衿香は少しも臆することなく、あっけらかんと言い放った。
「ってぇ事は、やっぱりお前が雅と貴島の仲を引き裂いた張本人って訳か」
窓際に立っていた木田が、低く唸るような声を出す。
返事次第では今すぐにでも衿香に飛びかかりそうな、獰猛な空気を纏っていた。
男でも足がすくんでしまいそうな気配に、ちっとも動揺することなく衿香はつんと顎を上げる。
「あら、それは誤解ですわ。お二人は、と言うか雅先輩は貴島さんから離れたがっていましたから。引き裂くという事にはなりません。どちらかと言えば雅先輩に協力した、と言う事でしょうか」
「お前、よくものうのうと……」
「まあまあ。祐真も熱くならないで。衿香ちゃんの言ってる事は間違ってないよ。だけど衿香ちゃん?」
間に入った睦月が衿香を諭すように話しかける。
「あの二人はああやって互いの距離を埋めてきたんだ。だから朝霧ちゃんが婚約破棄を望んだとしてもそれは彼女の本心じゃない」
「?じゃあ雅先輩はただ貴島さんの愛情を量りたくて駄々をこねていただけだと?」
「いや、朝霧ちゃんはそんな子じゃないけど」
「私には皆さんが何を怒ってらっしゃるのかよくわかりません。雅先輩は貴島さんの婚約者という立場から逃げたかったんですよね?よくわかります。誰だって、慣れない世界は怖い物ですもの。おまけに表舞台に立ったら、隠れようがありません。貴島さんは雅先輩を守るために必要だったと言ってらしたけど、こんなの愚策ですわ。雅先輩が婚約破棄を望んだのは当たり前の事です」
「じゃあ、聞くけど」
黙って腕組みをしていた信也が口を開いた。
「雅ちゃんの今の状況、知ってる?」
「今の状況?」
衿香は首をかしげる。
「貴島さんの拘束から解放されて、自由を満喫してらっしゃるんじゃないかしら」
微笑む衿香に信也の冷笑が返される。
「君は何も分かってないんだ。あの二人は離れて生きてはいけない。そういう二人なんだ」
「お話になりませんね。では雅先輩をここに連れてきてください。彼女の気持ちをぜひ、お聞きしたいわ」
衿香の言葉に信也が頷き、敦志が部屋を出ていった。
冷え冷えとした空気の中、衿香はまるでこの部屋の主人のようにソファーの真ん中に腰を下ろした。
「長くなりそうですから、皆さんもお座りになりませんか?夏目くん。お茶の用意もお願いね」
衿香の発言に冷えた空気が一層冷えたのは、言うまでもない事だった。




