みじめな夜
目を開けると心配そうに自分を見下ろす晴可の顔がぼんやりと見えた。
ここはどこだろう。
雅は何気なく辺りを見回そうと顔を動かした。
途端に左の頬がびりびりと痛んだ。
「雅ちゃん、気ぃついた?」
「は、るかさん」
つぶやいた途端、口の中にも違和感を覚える。
そしてようやく雅は何が起こったのか、思い出した。
婚約を交して、初めてのパーティーだった。
貴島総合病院の百周年を祝う席で、晴可の婚約者としてお披露目をするという話は雅の意思とは関係なく決められていた。
気は進まなかったが、正式なお披露目をしないと今後ややこしい事になるからと晴可に説き伏せられて出席を承諾した。
確かに、大学生になった晴可の元には縁談が降るようにやってくる。
婚約者がいるからと断っても、正式な発表はまだだからと聞く耳すら持ってもらえない。
挙句の果てには雅を誘拐する者さえ現れた。
それ以来体調不良の続く雅には、婚約発表を断り続ける気力もなかった。
一回だけだと自分に言い聞かせ、慣れないドレスを着せられ飾り立てられるのも我慢した。
パーティーの出席者は雅が普段テレビで姿を見るような有名人ばかりだった。
政界の重鎮から、経済界のドン、芸能界のご意見番からスポーツ界のヒーローまで。
あまりにも現実離れした状況に、緊張すらしなかった。
まるで夢の中の出来事のように時間だけが過ぎていった。
彼らへの挨拶を済ませ、体調の思わしくない雅のために二階に作られた若い者だけの席に移る。
そこには睦月や信也の姿もあり、ほっと一息ついた雅だったが、晴可は主催者側の人間である。
雅ばかりに気を配っている訳にもいかない。
大学で交流のある招待客との会話で盛り上がる晴可と反対に雅のテンションはどんどん下がるばかりだった。
学園でのパーティーなら、会話もそこそこに美味しい料理を堪能したりできるのだが、今回は雅も主催者側の関係者である。
もちろん晴可から離れて、立食コーナーにたむろする女の子たちに加わる事も出来るのだが、残念ながら雅が声をかけられそうな女の子はそこにはいなかった。
話に加わる事も、かと言ってここから立ち去る事も出来ず、雅はひたすら時間が過ぎていくのを待つしかなかった。
睦月は隣に座る雅の顔色がどんどん悪くなっていくことに気が付いた。
疲れているんだろう。
今日の雅の守り役を晴可に任されている睦月は、彼女を休ませることにした。
こういう時のために休息用の部屋が用意されているのだ。
晴可に目で合図をして雅を廊下に連れ出す。
間もなく晴可があとを追うように廊下に出てきた。
「大丈夫?雅ちゃん」
雅を気遣う晴可は、それでも招待客を放っておく訳にはいかず部屋に戻ろうとしてふと振り返った。
「あ、睦月に言うん忘れてた。あんまり衿香ちゃんに近づきすぎたらあかんで」
「は?なに?なんで晴可が?」
晴可の口から出てきた意外な人物の名前に睦月の眉間にしわが寄る。
「またあとで説明する」
そう言って晴可の姿は部屋の中に消えていった。
「なんで晴可が」
もう一度繰り返した睦月は自分の気持ちに一杯一杯で、元々顔色の悪かった雅の顔色が更に色を失ったことに気がつかなかった。
睦月が部屋を出ていき、入れ替わりに主治医である祥子が現れた。
祥子に言われるまま雅はドレスを簡単なワンピースに着替えベッドに入る。
場違いだ。
何もかもが場違いすぎる。
雅は目を閉じ、眠ろうとして眠れず目を開ける。
ふとベッドサイドの上に見慣れない携帯が置いてあるのに気が付いた。
祥子のものかも知れない。
まだ近くにいるかもと思い、雅は携帯を手に廊下に出た。
だが祥子の姿はどこにもなかった。
諦めて部屋に戻ろうとした時、ざわめいていた空気が一瞬しんとなった。
不思議に思って階下を見下ろした雅の目に映ったのは、会場の視線を一身に浴びて堂々と歩いてくる可憐な少女の姿だった。
神田衿香。
晴可さんは彼女が来ることを知っていた?
雅の心に得体の知れない黒いものがじわじわと広がる。
雅の後輩である少女は、雅が挨拶すら碌に出来なかった政財界の大物たちに、にこやかな笑顔を向け言葉を交していく。
少しも臆することなく歩いていく彼女は、まるで今夜の主役のようだった。
きっと彼女にとっては何でもない事なのだろう。
今日一日虚ろな人形のように、晴可の隣に立っていた自分とのちがいが痛いほど雅の心に突き刺さる。
ふわりと揺れる菫色のドレス。
可憐な彼女が今日の晴可と並べば、誰一人文句のつけようがないはずだ。
衿香ちゃんに近づきすぎたらあかんで。
不意に晴可の言葉が雅の頭の中にリフレインする。
なぜ、晴可さんが、彼女のことを気にする?
いや。それは今日だけのことではない。
神田さんが現れた時から、晴可さんにとって神田さんは特別だった。
それは、つまり。
混乱した頭で雅はふらふらと廊下を歩いた。
息が苦しい。
外の空気が吸いたい。
廊下の先に見えるベランダに通じる扉に向かって雅は歩いた。




