ヒーローは誰?
睦月は衿香が扉の前に立つもっと前、彼女がこの邸を訪れた時から彼女の存在を感知していた。
自分がここにいると気が付いたら、衿香はどんな反応をするだろう。
にこやかに談笑に加わりながら、睦月は考えを巡らせた。
彼女にいつものように接して驚かせてはいけない。
ここは学園ではない。
衿香のテリトリーでもある、社交界だ。
そこで妙な噂が立てば、衿香の評判を落とすことにもなりかねない。
衿香を傷つけるのは睦月の本意ではない。
今日は見るだけで満足しなくちゃな。
睦月は逸る心を押さえつけ、愛しい彼女が現れるのを今か今かと待ちかねていたのである。
「ん?」
思わず睦月が顔を上げた。
扉の向こうにあった衿香の気配が薄れていく。
どうしたんだろう。
まさか、逃げた?
「睦月?」
隣に座る信也が不思議そうな顔をしたが、構わず睦月は廊下に飛び出した。
灯りを抑えた廊下の向こうに、菫色のふわふわしたドレスを着た少女がいた。
衿香だ。
彼女は廊下の先のベランダを覗きこんで何かをしていた。
そしてベランダへと出ていってしまったのだ。
「どうかした?睦月」
不審に思って追いかけてきた信也が睦月の隣に立つ。
その温和な顔がみるみる険しくなった。
「この匂い!」
駆けだしたのは信也の方が先だった。
一拍遅れて睦月もその後を追う。
愛しい少女の匂いに紛れて分からなかったその匂いに睦月も気がついたのだ。
アルコールの匂いと嗅ぎ慣れた少女の匂い、そして微かに混じる血の匂いに。
「何してるの」
衿香がベランダを覗くと、女をベランダの柵に押し付けていた男が振り向いた。
一般的にイケメンと言われるだろう顔立ち。
でもその顔に浮かんでいるのは醜悪な欲。
「なんだ、餓鬼。取り込み中だ。よそへ行け」
「あなた、どこのどなた?その方が誰だか分かって乱暴を働いているの?」
あくまで冷静に衿香は声をかける。
「ああ?どこの誰かだって?こんな地味な女、知らないな。誰も相手にしないような女が私に相手してもらえるんだ。礼を言ってもらいたいくらいだな」
ぎりりと怒りで歯を食いしばりながら、衿香はベランダへと足を踏み出した。
ぼんやりとしか見えなかった光景がはっきりと衿香の目に映る。
「……殴ったの?」
男の大きな手に顎を掴まれ、半分気を失っているように見える雅の頬は赤く腫れ、口元に微かに血が滲んでいた。
急激に衿香の頭に血が昇る。
「殴った?ああ。この女、見目の悪いくせに我儘だからちょっとした躾だ」
「女に手を上げるなんて最低」
「ああ?お前も殴られたいのか?」
低い声で衿香を威嚇する男を気にも留めず、衿香は男との距離を一気に詰めた。
「なんだ、お前……!」
「衿香ちゃん!!」
一瞬だった。
衿香のスカートがふわりと落下傘のように広がる。
ベランダに飛び込んでくる睦月と信也。
衿香の回し蹴りが見事に男の顎先を捕える。
「うがっ!!」
男は思わず雅から手を離し、数歩後ずさった。
すかさず衿香が手を伸ばし、雅の手を引っぱる。
「……か…んださん?」
「雅先輩。大丈夫ですか」
朦朧としている雅の体は華奢な衿香には支えきれない。
二人してもつれ合うようにその場に崩れてしまう。
「こ…の餓鬼!!」
後ろの男が復活してしまったようだ。
体重が軽く筋力も少ない衿香の攻撃は、あくまでも逃げるためのものでしかない。
とにかく雅だけでも守らなくては!!
衿香は崩れ落ちたままの雅の前にすっくと立ちはだかった。
どこっ。
「ぐぎゃっ!!」
べちゃ。
「へ?」
一陣の風が衿香の真横を通り過ぎたと思った時、男の姿はなくなっていた。
代わりに衿香の前に立っていたのは。
「大丈夫?ケガはない?」
いつもと変わらず、爽やかな笑顔で振り返ったのは信也だった。




