イケメン嫌いの理由2
衿香のイケメン嫌いの理由を書く上で、子供に対する恋愛表現があります。
不快に思われる方は回避をお願いいたします。
綾人から見えなくなる所まで走った衿香は、大きく迂回して邸の中に入った。
まったくあの事を軽々しく口にしようとするなんて、やっぱりお兄様もあいつと同じ忌むべき男だ。
あいつ。
今から六年前まで、兄にも負けないくらい大好きだった存在。
今でも甦る、優しい笑顔と差し伸べられる大きな手。
それを全て滅茶苦茶にしたのはあいつだ。
稲垣陽介。
兄の親友だったイケメン。
衿香をイケメン嫌いにした張本人の名。
「俺には幼稚園時代からずっと一緒につるんでた親友がいたんだ。俺は見ての通り、ちびの頃から粗野で暴れん坊の餓鬼大将だったんだが、奴、稲垣陽介は俺と真逆の性格で、弱い者には優しくそれでいて一本芯の通った男だった。衿香も俺なんかよりも奴の方に懐いてた。陽介は私のものなんだからなんて言って、よく俺に泣かされてたもんだ」
目当ての本を手に、車に乗り込んだ綾人は晴可に運転を任せて助手席の窓から流れる風景にぼんやりと視線を彷徨わせる。
これまで誰にも語られる事のなかった兄妹の秘密を、なぜ今語ろうとしているのか。
それは、晴可のやんわりとした物言いのせいなのだろうか。
綾人にもはっきりとは分からない。
「あれは、俺たちが高校一年の頃だった。衿香は多分小学四年生だったか。半年ほど前から様子がおかしいと思ってはいたんだ。衿香を見る陽介の目がなんとなく気になっていた」
衿香が物ごころついた時には陽介は傍にいた。
一人っ子の彼は衿香の事を妹同然に可愛がっていた。
赤ん坊だった衿香のおんぶや抱っこ、果てはおむつ代えまでしていたのだ。
だから衿香は陽介にキスをされるのもキスをするのも全く抵抗がなかった。
ほっぺへのキス、まぶたへのキス、おでこへのキス。
とにかく陽介は所かまわず色んな所へキスをして、しょっちゅう衿香を抱きしめていた。
小学四年の夏。
だからそれがくちびるを掠めた時も、衿香は多少不審に思っただけだった。
触れたか触れないか判然としないくちびるに、衿香はこれってファーストキスになるのかなとぼんやりと考えた。
特に嫌ではなかった。
陽介はやっぱり大好きな存在で、陽介も衿香を大事にしてくれているのが分かっていたから。
だが、秋が来て冬の気配のする頃、陽介のキスは触れるだけのものではなくなっていった。
息が苦しくなるほどの長いくちづけに、まだ十才になったばかりの衿香は激しく混乱していた。
なにこれ?
なんでこんなことするの?
これはいけない事だと、本能が告げる。
兄には言えなかった。
もちろん父にも母にも。
言えば衿香は陽介から引き離されるだろう。
兄の前では陽介は何一つ昔と変わらない。
優しくて、楽しくて、穏やかな笑顔の兄の親友。
その彼を失いたくなかった。
いつか彼がこんな事に飽きてくれたら。
衿香はただそう願い続けていた。
「知らない間に陽介は小学生の衿香を女として見る様になっていた。衿香の様子がおかしかったのに俺は気が付いていた。だが、真実を知るのが怖かったんだ。陽介は俺の無二の親友だと思っていたから。まさか奴が俺の大事な妹を、まだ幼い妹をそんな目で見ているなんて、思いたくなかった。」
「……衿香ちゃんは?」
「衿香は誰にも言わなかった。言えなかったんだろう」
衿香ちゃん、衿香。
キスを重ねる陽介の囁く声が耳に残っている。
苦しいのは衿香なのに、その声はとても苦しげで、ならやめればいいじゃないと衿香は思ったものだ。
いつか、陽介もこんな遊びに飽きるだろう。
そうしたら前のような優しい陽介に戻ってくれるはずだ。
終焉は突然訪れた。
クリスマスの歌が流れていた。
毎年自宅で盛大に開かれるクリスマスパーティーの夜だった。
衿香は陽介に手を引かれ、誰もいない部屋に連れ出された。
いつものように衿香を抱きしめ、くちびるを重ねる陽介。
突然開けられるドア。
兄の小さく呻くような声。
衿香を抱きしめる陽介の手に力が籠もる。
だが、大股で近付いてきた兄が強引に二人を引き離し、衿香はぺたんと床に投げ出される。
衿香が最後に見たのは、兄に殴り倒される陽介の姿だった。
結果的に言えばキス以上の事は何もなかった。
陽介は衿香の嫌がる事は絶対しなかったのだから。
「陽介の肩を持つ訳じゃないんだが、奴は本気で衿香の事を愛していたようだ。やり方はまずかったが」
「タガが外れちゃったんですかね。それでも小学生相手に発情は許されへん。そこまで愛しいと思うならあと数年、衿香ちゃんを待つべきやった」
「そうだな。その通りだ」
「衿香ちゃんは傷ついたやろね。兄とも慕う奴に年不相応の扱いを受けて」
「陽介はもちろん家への出入りを禁止にした。しばらく学校を休んでいたが海外に留学したと聞く。衿香もしばらく学校を休んで精神科に通った。俺の顔を見ても奴の事を思い出すようで不安定になるからと言って女子校の寮に入ったし、俺もしばらくしてから家を出て一人暮らしを始めたから衿香の様子は人づてに聞くしか出来ないが、筋金入りの男嫌いになったようだ」
「そりゃなるやろね~」
その夜以来、陽介が衿香の前に姿を見せる事はなかった。
衿香に謝罪の一言も残さず、彼は日本を出ていったのだ。
彼女から逃げるように。
罪から逃げるように。
それを聞いた時、茫然と日々を過ごしていた衿香の心に奇妙な怒りが宿った。
陽介は、私を好きだったんじゃなかったの?
あの二人で過ごした時間は、陽介にとっては遊びだったの?
好きだから、抱きしめるんだと思っていたのに。
好きだから、キスするんだと思っていたのに。
好きだから、我慢してたのに。
……ちょっと優しくて、ちょっと顔が良ければ、何をしても許されると思ってる男なんか、地獄に堕ちてしまえ。
好きだったからこそ、憎んだ。
なぜ、大切にしてくれなかったのか。
なぜ、待っていてくれなかったのか。
……なぜ、迎えにきてくれなかったのか。
「なら、今の状況は衿香ちゃんにとって、きっついと思いますわ」
車のステアリングを握りながら、晴可がつぶやく。
「そうだな。何とかしないと」
眉間に深くしわを刻み、綾人は思考の海に深く沈みこんだ。
「睦月にも言っとかんと」
最後のつぶやきは深く思考する綾人の耳には届かなかった。




