銀の角に花の咲く
テルミア大陸の東の果てに、かつてセールフェンと呼ばれる国があった。有翼族、有角族、獣人族――様々な亜人種の暮らす国であったが、遡ること千年ほど前、内乱と侵略により喪われた。セールフェンの国を成していた数多の氏族はは散り散りとなり、大陸のあちこちに居を移した。ほとんどの氏族は新たな安住の地を見つけ、一族の再興を期そうとした。しかし、その中には定住を拒み流浪を続けるもの達もわずかながら存在していた。
その筆頭がセールフェンの有角族、〈草原の朋友〉イルバディである。彼らは千年の内に西へ西へと旅を続け、現在では沿岸四国の東域――リオニア王国とリュトリザ連邦の近郊を流浪している。彼らはここと決めた場所に短ければ一年、長ければ三年ほど滞在した後、次なる住処へと移る。そんな一所に留まらぬことの代名詞のような〈草原の朋友〉イルバディの中でも、更にとりわけ短い期間で住処を移す集団があった。
護衛や魔物の討伐、時に内乱の鎮圧などに手を貸す傭兵隊――〈銀の角〉ヴィフトル。彼らは仕事を求めて沿岸四国を流浪する、生粋の彷徨い人の群れである。一味の構成員は二十名に満たないが、その誰もが腕利きと名高い。今や沿岸四国においてその名を知らぬものはないとすら謳われるほどだ。ただ、一味に属する人間全てが戦いに長じているのかと言えば、必ずしもそうではない。
〈銀の角〉ヴィフトルにおける、唯一の戦う術を持たない者。彼女はテルミア大陸など存在しない世界からやってきた異邦人であり、まだたったの齢十六を数えたばかりの娘であった。彼女が〈銀の角〉ヴィフトルと行動を共にするようになった切欠、すなわちテルミア大陸にやってきた発端――それはある物好きなリオニア王国の貴族の依頼によって起こったものだった。
リオニア王国の東域には、異世界へと通じる扉を開く奇跡の宝珠が眠っているという遺跡があった。リオニア王国は異世界からやってきた勇者の作り上げた国であると言うから、その貴族も興味を抱かずにはおれなかったのだろう。だが、同時にその遺跡は凶悪な魔物の住処でもあった。そうして幸か不幸か、折り良く件の貴族の所領の近辺を通りがかった〈銀の角〉ヴィフトルに、探索依頼の白羽の矢が立ったのだ。
結果として、依頼はある意味では成功であり、ある意味では失敗であるという奇怪な状態に終わった。異世界への扉を開くという宝珠は、確かに存在した。それは〈銀の角〉ヴィフトルの誰もが認めるところであったのだが、肝心の宝珠は魔物との戦闘中に破壊されてしまったのである。砕け散り、誤作動を起こした宝珠は誰の意図からも離れたところで一人の娘を召喚した。そんな不慮の事故としか言い様のない事態によって異世界からテルミア大陸へと引きずり込まれてしまったのが、今はハートゥリカと呼ばれる彼女、〈草原の朋友〉イルバディの民には発音することの出来ぬ名を持つ娘――高館知花であった。
遺跡で発覚、発生した事実をそのまま伝えては、依頼の失敗を明かすことになる。すなわちそれは契約違反、無償労働を意味し、〈銀の角〉ヴィフトルの誰もが望まぬことである。よって、彼らは何も見なかったことにしたのだ。幸いなことに魔物が隠し持っていた財宝――堂々たるリオノスの意匠が施された古代金貨はかなりの値打ちがあった――を差し出したことで、宝珠が存在しなかったという報告に残念そうにしながらも、依頼主である貴族は満足してくれた。傭兵隊への報酬も滞りなく支払われ、残った問題はただ一つ――誤って召喚されてしまった娘のことだ。
彼女の処遇については、誰もが頭を抱えた。傭兵隊の長であるトーサルークも、御意見番たるソールファンも、即座に最適と思える判断を下すことはできなかった。〈草原の朋友〉イルバディの民は知花の名前を上手く呼ぶことはできなかったが、何故か大陸共通語で会話をする分には何ら支障はなかった。すなわちそれはリオニア王国の住人との意思疎通も可能であるということでもある。先の依頼主である貴族に異世界からの来訪者の存在が露見することを恐れた一味と、行く当てのない知花の利害は一致し、ひとまず知花を伴って流浪は再開された。
一味にとって予想外だったのは、知花の料理の腕が人並み外れて上手かったことだ。〈銀の角〉ヴィフトルにも料理担当はいるが、如何せん武骨な傭兵仕様の出来である。知花の腕によりをかけて作られた料理に敵うべくもない。傭兵達は瞬く間に知花の料理の虜になった。そうなっては、一味の士気を保つ為にも知花の存在を手放すことはできない。かくして、高館知花はハートゥリカなる新たな名を得、傭兵隊〈銀の角〉ヴィフトルの一員となったのだった。
「あ、ノーヴェさん、カーヴェさん知らないすか」
ハートゥリカが〈銀の角〉ヴィフトルの一員となって一月の経過したある日の夕、この日も彼女は己の役目を果たすべくして忙しなく働いていた。二十人近い屈強な傭兵達の食事の量は生半でない。それを一人で作りきるのは極めて困難であり、いつしか一味の中でも年若い何人かが交代で彼女を手伝う決まりになっていた。
ハートゥリカが声を掛けたのはその年若い傭兵の一人、赤みの強い金髪の鮮やかなノーヴェドラークだ。象牙色の一対二本の角を側頭部に備えた彼にはカーヴェドラークという名の弟がおり、今夜の夕食の手伝いは彼の弟の担当であったのだ。
「あー、さっきあっちでおっさん達と騒いでるの見た気がすんぞ」
あっち、とノーヴェドラークが指差したのは、街道の脇に据えられた馬車の一つだ。今日の野営場所は、リオニアからリュトリザへ下る街道の道端である。
どもっす、と手を振ってハートゥリカは示された馬車へと走り出す。長い黒髪を後ろ頭で束ね、くりくりとした黒い目をよく動かすハートゥリカは可愛らしいと言って言えなくもない娘なのだが、如何せん言葉づかいが宜しくない。口を開けば少年そのものである。
始めこそどう接したものか迷っていた傭兵達も、今やすっかり息子や弟を見るような目をするようになっていた。それが良いことであるのか、悪いことであるかは、何とも判断の難しいところであるが――そんな余談はひとまず脇に置くとして、馬車に駆け寄ったハートゥリカが中を覗き込むと、果たして数人の傭兵と共にカーヴェドラークの姿があった。その名前を呼ぼうと口を開いたハートゥリカに気付き、馬車の中の傭兵の一人が「おう」と手を挙げて見せる。
「どうした、リカ。誰に用事だ?」
「カーヴェさんすわ。今日の夕飯準備の手伝い、カーヴェさんなんで」
ハートゥリカがそう言った途端、傭兵達に囲まれていた紺青の髪の青年がぱっと顔を上げた。寸前まで陸に打ち上げられた魚のような顔をしていたのが嘘のように、生気が蘇る。
「あっ、そうだそうだった! そんじゃ、おっさん達俺はこの辺で!」
「おっ、逃げる気か」
にやにやと笑いながら傭兵の一人に言われ、腰上げかけた青年がむっとした顔をになる。その様子を眺めていたハートゥリカは、首をひねりながら問いかけた。
「何すか、何の話してんです?」
その問いは、どうやら地雷であったらしかった。
青年の顔が引きつり、周囲の傭兵達のニヤニヤ顔が一層意地の悪いものになる。ちょっとこっち来い、と手招きされるままにハートゥリカが馬車の中に乗り込むと、最も出入り口に近いところに座っていた禿頭の額に鉛色の一角を生やした傭兵がここに座れとばかりに自分の隣を掌で叩いた。その手振りに従って腰を下ろす。
「んで、カーヴェさんがどしたんです?」
「兄貴との違い、分かるか?」
質問に答えはなく、代わりに質問が返された。首をひねりながらも、ハートゥリカは思い付く事柄を挙げてゆく。
「ノーヴェさんは剣と矢を使うでしょ。カーヴェさんは剣と手斧でしたっけか。後は歳が十違って、ノーヴェさんは赤っぽい金髪だけど、カーヴェさんは深い紺青。目の色は灰色でおんなじでしたっけ?」
指折り数えながら言うも、禿頭の傭兵ハールマールは大仰な素振りで首を横に振った。
「リカ、一番大事なことが抜けてるぜ」
「何すか、それ」
「角だよ、角!」
立てた人差し指を左右に振りながら言ったのは、ハールマールの隣に座る傭兵だ。鳶色の長髪を緩く編み、耳の上から湾曲して伸びる砂色の二本の角を持つ彼の名をヌーイフォードと言う。彼も一味の中では年若い部類に入るが、それでもノーヴェドラークより年上だ。カーヴェドラークはハートゥリカを除いた一味の中で最も若年であり、唯一の未成年なのである。
「カーヴェはまだ角も伸びきらねえ雛だってお話」
「そんなじゃ女に見向きもされねえよなー」
「雛も雛、ケツに殻のくっついてるようなもんだからな!」
「もう四十も過ぎたのになあ」
がははと豪放磊落そのものに笑う傭兵達の中、カーヴェドラークはがっくりと俯く。
有角族である〈草原の朋友〉イルバディの民は人間の倍以上の寿命を持ち――二十歳前後と見えるカーヴェドラークも、実年齢は四十半ばだ――、その頭部に掲げる角が伸びきったことをもって成人とみなす風習があった。兄と異なり、まだ角の短いカーヴェドラークは、なにかと年長の傭兵達に話の種にされるのである。
未だかつて見たことのないほど気落ちした風のカーヴェドラークを目の前にして、ハートゥリカはさすがに同情の念を覚えた。
「まあまあ、カーヴェさんは角生えてなくてもかっこいいすよ」
そう口にしたのは、あくまでも慰めのつもりであった。彼女の故郷で言うところの気遣い的フォローであり、身も蓋もない言い方をするのならば、世辞の一環である。
――だというのに、だ。何故にカーヴェドラークはそれほどまでに感極まった顔で自分を見つめているのか。ハートゥリカは訳が分からなかった。否、分かりたくなかったのかもしれない。
「リカ!」
彼女の愛称を叫んで、カーヴェドラークが突進してくる。全力で逃げ出したかったが、料理番の娘と傭兵の青年では俊敏さも何もかもに差がありすぎた。哀れハートゥリカは捕獲され、両腕でぎゅうぎゅうと抱き締められた。締め付けられる身体も痛いが、頬に擦りつけられる無精髭も痛い。ちくちくする。
「お前って奴は本当にいい奴だな!」
「そりゃどうも。何でもいいんで、放して下さい。髭いてーです」
「あ、悪い」
ようやっと解放されたハートゥリカは深々と溜息を吐く。年嵩の傭兵達がまた一層嫌な顔でニヤニヤしているのが視界に入ったが、この際無視を決め込んだ。
「とにかく、もう夕飯の準備なんで。行きますよ。ハールさん達も若者いじりはほどほどに。夕飯食えなくなりますよ」
「そりゃ駄目だ。とっとと行けカーヴェ」
「そうだ行け」
「それ行け」
「ほれ行け」
「今すぐ行け」
「さっさと行け」
「何だよもうその掌返し! 俺はとっくに行こうとしたじゃねーかよ! ちょっと待てよ!」
身勝手な言葉の嵐にぎゃんぎゃんと叫び返し、カーヴェドラークはハートゥリカに向き直る。その表情は妙に真剣であり、ひどく嫌な予感がした。
「あ、急がないと夕飯の時間押すんで。そんじゃお先に」
「待った!」
逃げようと腰上げたら、やはり逃げる前に捕まえられた。両肩を掴まれて、強制的に座り直させられる。
「リカ、俺と」
「あ、カーヴェさんは種族的には成人してなくても、人間的物差しから言うと中年なので守備範囲外すわ」
皆まで言わせてしまったら取り返しのつかないことになる。誰に言われるまでもなく、ハートゥリカは察していた。表面上は平静を装い、告げられようとする言葉を遮って言うと、カーヴェドラークはぎくりとしたように息を呑んだ。一瞬行動が停止した隙を狙い、更に言い立てる。
「後、四十のおっさんが十六の娘をどーこーしよーとすんのは私の故郷だと立派な犯罪なんで」
そう告げた瞬間、カーヴェドラークは脳天を殴打されたかのように愕然とした風で硬直した。その手から力が抜けたのをこれ幸いと、ハートゥリカは馬車から逃げ出す。
「一時の衝動に身を任せて突っ走ると、それこそ雛だって言われんじゃねーですかね。頭冷やした方が良いすよ。夕飯の準備はノーヴェさんに手伝ってもらうんでお構いなく。そんじゃ!」
軽快に手を振ったハートゥリカの去った後の場所に満ちていたのは、堪えようもない笑いの気配であった。数拍の間の後に弾けたのはカーヴェドラークをからかい笑う声、我に返った青年のいくつかの叫び――自分が中年ではないことや、決して諦めない旨を叫んでいた気がした――が聞こえたが、とりあえずハートゥリカはその全てを聞こえなかったことにして、先に言葉を交わしたばかりの青年を探すことにした。
ぐるりと野営地を見渡す。赤みの強い金髪の頭は、すぐに見つかった。ノーヴェドラークは焚火の傍で愛用の弓の手入れをしていた。大急ぎで駆け寄る。
「ノーヴェさんノーヴェさん」
「お? どしたよリカ、カーヴェみっかんなかったか?」
かくり、と振り返って首を傾げて見せるノーヴェドラークの見掛けは、どれだけ年上に見積もっても二十半ばが精々だ。だというのに、実年齢は五十を超えて六十近いと言うのだから信じられない。
「や、見付かったんすけど、おっさん方と話し込んでてアレだったんで帰ってきました。なんで、夕飯作んの手伝ってもらえねすか」
「そっか、暇だし別にいいぜ。……って、リカ、ちょい待ち。何かお前頬っぺた赤くね?」
「髭面に頬擦りされたんで」
「ああん? 誰だ抜けが……おっとと、あー、その、なんだ、つまり、そりゃ誰にだ? 皆髭生えてんだろ。もっと詳しく! つーか具体的個人名!」
「……ノーヴェさんの弟さんすよ」
「へ? カーヴェ? そりゃまたなんでよ」
「そんなの、私が知るかってんですわ。おっさん方に雛雛ってからかわれてがっくりしてるのが可哀想だったんで、角なくてもかっこいいすよ、て慰めただけすよ。そしたら、いきなり」
唇を尖らせて不満たっぷりに言うハートゥリカとは逆に、ノーヴェドラークは天を仰いで目元を掌で覆った。ああ、と零れた吐息には嘆きとも呆れともつかない響きが濃い。
「リカ、そりゃー駄目だ」
「何ですか」
「最強の殺し文句って奴よ」
「マジすか」
「マジだ。もー駄目だな、そりゃーカーヴェ本気だぞ」
「マジすか」
「マジだ。どーする、カーヴェが駄目なら俺にしとくか? 優しいぞ俺は」
「いや、優しいのは知ってますけど。ノーヴェさん六十近いじゃないすか。それおっさん通り越してじいさんすよ。人間だと」
「俺は人間じゃねーもん」
「私ゃ人間すよ。いーから、馬鹿なこと言ってないで夕飯作るの手伝って下さいよ」
全くもう、と溜息を吐きながらハートゥリカは食料を積んだ馬車へと向かって行く。その背中をごく短い間眺め、苦笑を浮かべてからノーヴェドラークはその後を追った。
〈草原の朋友〉イルバディの民にとって、男女の区別なく角は最重要視されるものだ。だからこそ、成人の物差しにされるのであり、結婚相手の比較にも相手の角が立派かどうかが必ず話題に上る。それを全く気にしないという言葉は、文字通りの規格外だ。年老いた〈草原の朋友〉イルバディの民ならば侮辱と取るのやもしれないが、ノーヴェドラーク自身は素晴らしいことではないかと思う。おそらく、弟も同じ感銘を受けたのだろう。角など関係なく自分自身の人となりを評価してくれる――そんな相手がいるということは、とても喜ばしいことだと思うのだ。
ハートゥリカは〈草原の朋友〉イルバディの風習を知らない。異種族たる人間であることだけでなく、異世界からやってきた立場、そして何より一味に加入して日の浅い状況では無理もない。ほろりと零される衒いのない言葉がその為であるとしても、さらりと「優しいことは知っている」などと言われてしまっては、そもそも気に入らないでいる方が無理というものだ。
「困ったなー、兄弟で取り合いかー」
「はいはい、寝言は寝てから頼みますよ」
「あ、じゃあ一緒に寝るか? ……うん、すまんかった、嘘だ。冗談だから、その冷たい目止めて。俺泣いちゃう」
「泣いてもいいすけど、慰めませんぜ」
「ひどい!」
「何もかんも弟さんの所為すけどね」
「マジか。シメるわ、あいつ」
「見えないとこでお願いします」
冗句を交わしながら、ようやっと夕食の準備が始まる。
その暫く後、年嵩の傭兵達からやっと解放されたカーヴェドラークがやってきて一悶着起き、ハートゥリカが死んだ魚のような目をすることになるのだが、それはまた別のお話である。