3
空色もいよいよ濃くなり、黒にも近い。低く降りた雲からぱらりと大粒の雨滴が零れた。
神殿の中では鳴り出した雷に怯えきって膝を抱えた少女が一人だけ。
未だ鳩は戻らない。
(ビビ、早く帰ってきて)
また一つ雷轟の喚き声にチカは耳を塞ぐ。今のはかなり近かった……
恐怖に煽られて流れそうになる涙をぐっとこらえて、どれほどそうしていただろうか。ふぁさっと軽く舞い降りる羽音に顔を上げれば、彼女が待ち焦がれていた男が広げていた羽を閉じているところだった。そのくちばしには火のともった一本の太枝を銜えている。
きょろりと揺れる瞳に促されて枝を手に取ったチカは、彼のくちばしの端が幾分煤けて、爛れていることに気づいた。
「ビビ、それ!」
「たいしたことはない。それより、火は扱えるね?」
「これ、どうしたの?」
「雷が落ちただろ。さっき?」
それは幸運だった。雷撃に撃たれた古木が燃え上がった瞬間、まだざっと地表を濡らしただけの急雨は薪となるこの太枝の芯までは沁みこんでいなかったのだから。
「ともかく、急いで神殿中の燭台に火を灯して。そうすれば異界を繋ぐ扉は開くらしいから」
「何で! そんなこと……」
震えるくちばしが危急を告げる。
「このままだと、君は殺されるっ!」
男の心は慙愧の思いに引き裂かれんばかりであった。
「俺たち鳥類の間では同族殺しは重罪だ。だからこそ王鳥を斃してその権威を手に入れようとする者などいなかった。だけど、今ここに居る『王鳥の対価』は……同族じゃない。おまけに見るからに弱そうな生き物だ」
「だからって殺される理由が解んない!」
「対価は二つの世界のバランスをとるためのものだ。片方が滅べば異界に居るもう片方も滅びるものらしい」
「王様を殺そうとしている人が居るのね」
「そういうことだ」
「ビビ! ビビはどうなるの、私を逃がしたりしたら!」
「聞いてなかったの? 俺たちは同族を殺したりしない。全くお咎めなしとはいかないだろうが、たいしたことにはならないと思うよ」
彼はきゅるりと瞳孔を引き絞ってチカを促した。強い意思を宿した赤目に抗おうと、彼女はゆっくり首を振る。
「チカ、俺は本当に大丈夫だ。何の心配もいらない」
叶わぬことなど百も承知の恋だ。だからこそただ一つ願うのは……
「無事に、笑って俺の前から消えてくれよ」
「いや! あなたと離れたくない……好きなのに……」
ヴィーヴィはその言葉に胸を穿ち抜かれた。
「好き……か」
「お願い、一緒に来て!」
「そんなこと……」
言葉が淀む。ほろほろと涙をこぼす娘を見ていると両の翼が透き通った雫を求めて疼く。
「ああ、本当に泣き虫だなあ」
羽の先で頬を伝う涙を払えば、それは小さな水滴となって散った。
「心配で一人にしておけないよ」
「!」
「俺は祭壇で待っているから、さっさと火をつけちゃって?」
弾かれたように立ち上がったチカが神殿の中を走り回る。燭台に灯明をかざせばそこを満たす怪しげな油質の液体がぽうっと音を立てて燃え上がった。
ヴィーヴィは祭壇の上で胸の羽をぷわっと膨らませてチカを迎える。
「なにソレ?」
「気にしないで。俺の気持ちだから」
大きく広げた尾羽を石台に擦り付けながら、腰を下ろしたチカの周りをつ、つ、と回る。
「何してるのよ」
「チカ、愛してるよ。俺の心を君にあげる」
風切り羽根も下げてコルコルと喉の奥で声を転がせば、チカが両腕を広げて彼を誘う。
ヴィーヴィはその膝にひょいと飛び乗って、紅くて柔らかい唇にそっとくちばしを突っ込んだ。鳩のオスがメスにするように、愛の証である鳩乳を求める仕草で頬裏の粘膜を軽く掻き吸う。
瞼を閉じて重なり合う異界の恋人達を、ふわっと風に揺れる燭の炎が照らした。祭壇の上の空気が白い光へと変質する。
眩いほどの光に包まれてヴィーヴィが短く囁く。
「永遠に、君のそばに……」
燭台の炎がひときわ大きく、天井を焦がすほどに上がった。
たった一瞬のことではあったが、それは愛する異界の生き物を網膜に焼き付けようとする彼の想いに呼応するように明るい。
「だから……さようなら、チカ」
その言葉は木蓮の花びらに似たあの耳に届いただろうか。
炎が再び普通の大きさに戻ったときには石台の上に少女の姿はなく、一羽だけ残された鳩は求愛のために膨らませていた胸羽を閉じた。
……こうなることは解っていた。
王鳥以外のものが異界に渡った話など聞いたことがない。
「ちょっとは期待したんだけどな」
反魂の風が神殿内を吹きすさぶ。燭台の炎が一つ、また一つと吹き消されてゆく。
……ケツァルコルトルが還る兆しだ。そして、チカを殺すために差し向けられた猛禽の部隊もまもなく着くことだろう。ここは戦場になる。
猛禽のような爪も持たず、王鳥のような巨大な体も持たない彼が生き残ることは無いだろう。だからこそ一か八かの賭けに出たのだが……
「男ってのは本当にずるいな」
こうして彼は取り残された。
だが失望などしていない。彼ら鳥類の伝説では死んだ鳥の魂は、新たに翼を得ると信じられている。世界のどこへでも飛んでゆける大きく美しい翼は愛する番のところへと魂を運んでくれるとも……だから……
「きっと俺の翼は異界まで届くさ」
閃光と共に焼きついた自分の魂の行き先を確かめるように瞼を閉じれば、肉厚な翼の音が神殿に降り立つ乾いた羽擦れの音が耳に響いた。
亡界の果てから滅王たる巨鳥を呼び戻す涅色の風が燭台の灯りを強く揺らす。この一灯が消された瞬間、彼の命の灯火も……
燃え尽きようとしているその炎は、一筋の煙に変わろうとしていた。