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「ビビ!」
「何度言ったら解るんだ、ヴィーヴィだってば」
「だって、言いにくいし……」
チカが来てから既に二週間が経つ。彼女はすっかりハトに懐いて少しでも姿が見えないとこうして彼を探す。最も彼以外に頼るものなどいないという寂寥と不安によるものだろうが。
「『ビビ』は女の名前なんだよ。チカのところじゃどうか知らないけどね?」
王鳥の対価である彼女のもとを訪れる者といえば、ニンゲンのための食事を調達してくる数羽の丹頂と、国の重鎮であるというハゲワシだけ。他にはチカの存在すら知られてはいない。
有り余る二人っきりの時間をお互いの世界を教えあって過ごすうち、異質な存在同士であるはずの彼らは妙な親近感を感じ始めていた。
「びーびー、どこかお出かけ?」
「ああ、もう……ビビでいいよ」
小さなくちばしに似合わないほど大きなため息をついて、そのハトは少女の肩にばさりと飛び乗る。
「むしろチカを探してたんだけどね」
「何か用事だった?」
「お風呂、入りたくない?」
チカの顔がぱあっと花咲くようにほころんだ。
(この表情は好きだ)
鳥類の審美ではチカの外見が美しいのか、それとも醜女なのかすら解りはしない。それでも時折見せる喜びの表情はヴィーヴィの心を甘く絡めとる。
その笑顔が見たい一心で彼はチカがいた世界の情報を聞き逃さず、少しでも叶えられる限りはもといた世界に近い生活をさせようとしていた。
「少し歩くけど、温かい泉があるんだ」
「温泉!」
「全くニンゲンってのは面倒くさい生き物だよな。鳥類なら水浴びで良いのに」
そんなことは少しも思ってはいない。水を弾く分厚い羽毛を持たぬ生き物では、冷たい泉の水は体の毒であろう。少し首を傾げて赤い眼をくりっとまわしたのは照れ隠しだ。
彼の予想通り、羽毛に覆われた体は柔らかく細い腕に抱え込まれた。
「ありがとう」
この声も好きだ。ここから聞けば肺腑を震わせて直接体中を巡る。
「あのさあ、チカ?」
「なあに?」
「向こうの世界に好きな男とか、居る?」
妙な間が空いた。
「チカ?」
「……いいなって思っている人は……居るけど……」
「そいつとこっ! 交尾とか、したり……?」
聞いてどうしようというのだろう。
……解らない……
もうすぐ王鳥は還る。入れ替わりにこの娘は異界へと消えるのだ。
「ニンゲンもやっぱり、好きな相手とつっ! 番になったっ、り……」
「ビビこそ!」
チカが言葉を呑むように大きく叫ぶ。その頬が紅潮しているのは辱められた怒りだろうか、それとも……
「ツガイ……になりたい相手が居るんじゃないのっ?」
今一度おのれの気持ちを問う。
……この娘は異質な生き物だ、もうすぐもとの世界へと還る身でもある。それでも、なのか?
「俺もいいな、ぐらいに思っている女は居る。赦されるなら番になりたい」
「片思いなの?」
「ああ、未来永劫、天地がひっくり返ったって手に入らない女だ」
ばさりと乾いた羽音を立ててヴィーヴィは温かい腕の中を抜け出した。床に着地すれば石材の冷たさがつま先に沁みる。
「告白しないの?」
「男ってのはずるい生き物だからね。交尾も出来ない相手に求愛ダンスなんてしないよ」
自分を落ち着かせようと風切り羽をくちばしで強めに扱く。少し痛いくらいに……
「っていうかさあ、俺が誰を好きでも関係ないじゃん? 自分こそ、その気になる男ってのに告白、しないの?」
……本当にずるい生き物だ、男ってのは。
彼は自分が彼女の心を『試している』ことに気づいていた。
言の葉はいずれ殺さなくてはならない異界の少女からの愛を確かめる試金石。そしてそのまま墓標にもなるのだろう……
だが、彼女はヴィーヴィから目を逸らすことなくポツリと
「私も片思いだから。絶対に、叶わない……」
愚かな男は全身の毛をぷわっと逆立てた。
(落ち着け。だからってこの想いが受け入れられる訳じゃないんだぞ)
それでも今すぐにこの思いを沈める必要はなさそうだ。彼女がこの世界に居る間は恋を手に入れようと苦闘するただの男として、せいぜいに優しくしてやろう。
向こうの世界に帰った彼女の中でこの世界の出来事が思い出に変わっても、『親切な男が居た』というひと欠片の想いとしてその心の片隅にとどまるように……
「ともかく、風呂だ。ついておいでよ」
振り向いた彼の鳩眼は妙に晴れ晴れと澄み切っていた。
空はあいにくの曇天。それでも彼が出かけなくてはならないのは、この神殿を管理している偉い人に呼び出されたかららしい。
「気をつけてね」
チカの見送りの言葉に、彼の瞳がくるっと回る。
ここに来た日は鳥など表情すらない生き物だと思っていたのに……チカは今では彼の小さな黄味を帯びた赤い眼の動きさえ、その心象を映す鏡だと解っている。
落ち着かないほどの喜びにくる、くるっと幾度か瞳を回して、彼は小さなくちばしを開いた。
「心配ないよ、すぐ帰ってくるからさ」
恋人同士ならこんなとき、唇の一つも交わすのだろうが、彼とチカはそんな甘い関係にはない。もっと言えば同族ですらない。ヴィーヴィにとってチカは『交尾できない女』だ。求愛の踊りを捧げられることなど叶わないだろう。
(それでも……)
チカはこのハトを男として愛している自分を既に認めていた。
いずれ異界へ還るその日、この小さく暖かい男への想いを手放さなくてはならない。その寂寥感に涙がこぼれることもある。そんなときは必ず彼が羽毛のすれる音を立てて両羽根で涙を拭ってくれた。
クルクルと柔らかい鳩鳴と共に囁かれるいたわりの言葉がチカは好きだ。
「ホームシックか?」
鳩鳴よりも低く響く少しくぐもった声……勘違いなどしていてくれれば良い。そうすれば伝えることさえないであろう思いを胸に隠したまま、この声に甘えていられる。
ばさりと大きな羽音がチカの感慨を灰色の雲が低く垂れる空へと押し上げた。
「じゃあ、ちょっと行って来るからさ」
曇空色の翼で空気を叩きながら彼の姿が小さくなってゆく。
見送るしかない自分が恨めしい。翼があれば、彼と同じ翼がある体ならこの想いを隠したりはしない。無頼の空であろうと、不毛の地であろうと彼に寄り添ってどこまでも羽ばたいてゆく覚悟さえあるというのに……こうして大地に両足を着けたまま、心だけで彼を追うしかない身が恨めしい。
「早く帰ってきてね」
呟けば瞳に涙が溜まる。その涙をこらえるように空を睨めば、彼が小さな一点となって見えた。
他に捧げるものなどないのなら、せめてあふれる涙は一滴余さず彼の両の羽の内に注いでしまおう。この先どんな男の腕の中に留まることがあろうと、彼以外の何者にも涙は捧げたりしない。
それがどんなに身勝手な想いだとしても、あの鳩の姿をした男への愛の代償として……あの羽色によく似たこの空にすら決して涙を許したりはしない……