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永緑に沈む神殿に置かれた石台は、果たして憐れに屠られる贄を横たえるためのものだろうか。それとも……
石台に向かって並べられた、これまた石造りの燭台に何の前触れも無く灯がともった。
一つ、またひとつ。全ての燭が灯ったとき、明るく照らされた台の上に、いつの間に、いつからそこにいたのであろう、一人の少女が座っていた。
万物の霊長が人類だなどという常識が揺ぎ無い普遍のものだなどと思ってはいけない。
彼女が落とされた世界の生物の頂にいたのは『鳥類』であった。人間などという生き物はもとよりこの世界に存在すらしない。
では、彼女は……?
「この神殿はあんた達の世界と、こっちの世界を繋ぐものなんだ」
そのハトは最大限の礼と情愛を込めた声音のつもりだったのだが、人間は「ひっ」と小さく悲鳴を上げて顔を背ける。
(無礼なヤツだ。サルのクセに)
異界から来た『チカ』という名の少女は、見れば見るほどに奇態な生き物。
サルの亜種であるくせに毛は頭にしかなく、体の保護のために『服』を身につけている。後ろ脚はみっともなく長く真っ直ぐで、前足の先は細く五股に分かれてわさわさと動く様が不気味だ。つるんと白い顔は鳥類の感覚的な美醜の枠を超えて違和感しかない。
おまけに話しかけるたびに恐怖で顔を歪めるから、その醜女ぶりに拍車がかかる。
(仕事じゃなきゃあ、とっくの昔に見捨ててる)
鳥類が小さなくちばしで建てた家は、彼女が言うにはニンゲンのそれと造りは変わりないらしい。ただいかんせんサイズが小さい。ニンゲンが雨風をしのげるほどの建物といえばこの神殿しかないのだから、その世話はどうしても神職である彼の責となる。
「すまじきものは宮仕えってか?」
はき捨てるような自嘲の言葉に、チカはびくりと胴から震え上がった。
「その反応! いい加減にしてくんない? 毎日メシの世話してやってさあ、この世界の知識を色々教えてやってるのは俺よ? 懐いてくれとは言わないけど、もう少し違う態度ってモンがあるだろう?」
白地に黒という、色気のかけらも無い眼からぽたりと雫が落ちる。
それは彼にとって衝撃だった。
感情豊かな鳥類の女ならいざ知らず、ただの動物が泣くなど聞いたことが無い。言葉がわかるだけの小賢しいサルだと思っていたのだが……
(泣いている?)
もし本当に感情があるとしたら今までどれほどの我慢をしていたのだろう。
普通なら『異国』ですら心細いというのに、彼女にとってここは『異界』だ。同族すらおらず、ここに来た理由さえわからず、そしてこの先の運命の標すら与えられない暮らしに一週間も耐えてきたのか。
「泣きたいなら、さっさと泣きゃあいいんだ。そうすれば俺だって……優しくしてやりようってのがあるじゃん?」
羽の先でそっと涙滴を掬えば、わさっと温かな羽擦れの音がした。チカが真っ直ぐに顔を上げる。はじめて……このとき初めて彼は『ニンゲン』の顔を間近に見た。
羽毛も表情もないと思っていたのは恐怖と不安で強張っていたからなのだろうか、今は涙に濡れた眼を大きく見開いて驚きを顔いっぱいで表現している。柔らかく頼りなさげな唇はぽかんとだらしなく、顎を落としたままだ。
「何を間抜けた顔してンの。毛繕いするよ」
他愛ない一言だったのだが、チカの顔は恐怖に歪む。
「ああああ! ごめん。冗談だからそんなに怖がらないで! 俺だって異生物に求愛するほど無節操じゃないからっ!」
ほうっと安堵に緩んだ目元から再び涙がこぼれる。
「百面相だな」
差し出された羽の先にチカは大人しく瞼を預けた。小さなハトを頼るように頭を落として涙を拭ってもらう大きなニンゲンの姿は、異様ではあるが心温まる風情でもある。
「ありがとう……」
「ちゃんと礼も言えるのか。まるっきり鳥類だ」
ははん、と笑息混じりに言う彼の体をチカがそっと抱きあげた。
「いやん、えっち」
敵意は感じられない……彼は大きな掌に捕まえる恐怖を軽口で逸らして、背中の羽に擦り付けられる涙を受け止める。
「……馬鹿だな。そんなになるまで我慢しなくても、泣いて暴れればいいじゃん? あんたの体格なら俺を絞め殺すぐらいは簡単だろ」
「そんなこと出来ないよ!」
「なんで? あんた達ニンゲンは鳥を食うらしいじゃん」
「食べるのはニワトリだし、それにお店でパックに入ったのを買って来るんだし!」
「ああ、ニンゲンの世界にも『虫屋』があるのか」
「鳥の世界にもお肉屋さんがあるの? 八百屋さんやパン屋さんは?」
「野菜を売る店はあるけど、パンヤサン? なにソレ」
「パンって言うのは小麦粉をこねて焼いた食べ物で……」
「ちょいまち。焼くって言うのは、火を使うってことか?」
「そうよ?」
「それは無理だね、俺たち鳥類は火を使えない。争いしか生まぬ邪悪なものってことで神様から禁じられているんだ」
「じゃあ、この神殿に火をともしたのは誰なの?」
今は火の気の一つもないこの神殿の燭台には、彼女が界の隙間を潜り抜けたあのとき、確かに炎がともった。
「あれはニンゲンの世界でつけられた火だよ。ついでに言うと、この神殿も君らの世界の側から開けられたものだ」
「何のために?」
「王鳥であり、君らの世界では神と呼ばれているケツァルコアトルを呼び出すために、じゃん?」
「けつぁるこるとる?」
「俺も小さいころ絵本で見ただけだからさぁ、よく知らないんだけどね? 『アステカ』という種類のサル……ニンゲンは羽蛇を神と信じているらしい。まあ、いつから生きているか解らないし? 俺たちにとっても王だから偉大ではあるけど?」
彼が鳥であるため、それはニンゲン側の認識と多少の食い違いがある。ケツァルコアトルは確かにアステカの民があがめていた農耕を司る風の神だ。羽毛をたくわえた蛇とも呼ばれるその正体は太古よりたった一羽生き残った『始祖鳥』である。
そして、意識的に彼女に伝えていないことが……この世界の人類を食らいつくし、絶滅に追いやったのは、そのたった一羽の鳥だということを。
その後、王鳥は幾度か召還を受けた。『神』としての誓約を果たす見返りとして贄を喰らう権利を手にしたのだ。人間の味を覚えたその鳥にとってこれは願ってもないことだった。
「まあ、あんたには関係ないよ。『対価』としてこっちの世界に寄越されただけだからね。むしろ大切な客人としてもてなすように言われている」
異界より異質な生命を呼び出せば必ずどこかに歪みが生じる。その帳尻を合わせるために魂を持つもの同士が二つの世界の間で交換されるのが道理というものらしい。もちろん二つの存在は界の境を越えて表裏一体。どちらかが異界で倒れるようなことがあれば対となる者も消えてしまう。それゆえに王鳥は『対価』の庇護を第一と命じていた。
ハトは自分を抱きしめている娘を見上げる。
ニンゲンの年齢などよくは解らないが、学生だと言っていたことを考えると成人すらしていないのだろう。郷里に残した妹と同い年くらいかもしれない。
そう思えば、この異質な娘が憐れにも思えてきた。
「王がこの世界に戻るとき、君も向こうの世界に戻れるはずだ。それまでは俺が傍にいてやるからさぁ、泣きたくなったら遠慮しないでいいよ?」
その言葉にまた幾雫かの涙が羽の表面を転がる。
「全くニンゲンってのは……いや、女ってのは泣き虫で困るよな」
そのハトは……いや、ヴィーヴィは喉を震わせてぽるぽると柔らかな音を奏でた。