6:変化のとき
三日間の定期テストも終了し、佐倉永遠子は浮き立つ気持ちを抑えながら心持ち早足で生徒指導室横の自習室へ向かった。そして、そっとドアを開いて様子を探るように静かに足を踏み入れ、そこに誰もいないことを知ると一気に肩を落として落胆した。
テスト期間中、自習室のもう一人の利用者、六原稔は一度も姿を現さなかった。
どこにいてもそこだけ光がさしたように目立つ稔。遠目に見かけることはあっても、いつも大勢の人に囲まれている稔に自ら近寄ることなど、引っ込み思案(※あくまで本人の主観です)な永遠子にできるわけがなかった。
自習室だけが2人をつなぐ場所。稔が自習室に来てくれないと、永遠子は稔に近づくことさえできない。
永遠子はしょんぼりとしたまま一番後ろの席に座ってぼんやりと窓の外を眺めた。稔がいないと大好きな本を開く気力すら生まれてこない。
はあ……
永遠子が大きなため息をついたその時、自習室のドアがさっと開いた。慌てて顔を向けると、待ち望んでいた人物が大きな紙袋を二つも両腕にさげて自習室に入ってくるところだった。
永遠子と目があった稔が、うれしそうに顔をほころばせ挨拶をしようと口を開くと同時に、永遠子が「こんにちは!」と声を出した。
永遠子の口からは聞いたこともないような大きな声にひるんだ稔は、一瞬うしろにのけぞった。
「や、やあ。久し振り!」
「お久しぶりです」
「どうした?今日は元気いいね。佐倉の方から挨拶してきたの初めてじゃない?」
「はい」
永遠子はうれしさのあまり思わず自分の顔がだらしなくにやけていると感じ、慌てて真顔に戻した。もちろん稔には、ほんの一瞬目元がわずかに細められたようにしか見えなったのだが。
「ほんとは昨日一昨日も来たかったんだけど、うちの母親の教育方針で、中学んときからテスト期間中は寄り道できないんだ」
稔は両腕の紙袋を床にどんと下ろすと、肩をぐるっとまわして「よっこいせ」とじじくさい言葉を吐きながら永遠子の前の席に座った。
「大きな荷物ですね」
「ん?ああこれ?お菓子。佐倉も食べる?」
稔は紙袋から一目で手作りとわかるラッピングのカップケーキ、チョコレート、クッキー、その他多種多様なお菓子を永遠子の机に並べてみせた。
「今日、俺、誕生日だったんだ」
「えっ」
「プレゼント何がいいか聞かれてさ、ものだとかさばるし、食い物なら佐倉と一緒に食えるかなーと思ってお菓子がいいって言ったら、この通り、店開けるくらいもらっちゃって。どうぞ、好きなのとって」
にこにこと笑いながら促す稔を、永遠子は茫然と見つめた。
「あれ?もしかして、甘いもの好きじゃなかった?」
「…………特別、好きではないです」
「なんだ……。じゃ、いいや。帰って姉さんにでもやるかな」
すごすごと紙袋にお菓子を詰め込んでいく稔を見ながら、自分は稔のことを知ったような気になっていたけど、実はほとんどなんにも知らないのだと気づき、それが永遠子を落ち込ませた。
お菓子をすべて紙袋に戻した稔は、あらためて永遠子に向き直るとさっと両手を差し出した。考え込んでいた永遠子は無反応で机を見つめ続けた。
「……佐倉~?」
呼び声にはっとして顔をあげると、思った以上に近い位置に稔の顔があることに驚いて、肩をびくっとふるわせた。
「俺、今日誕生日なんだけど」
「おめでとうございます」
「うん。だから」
稔はにこにこ笑いながら手を差し出す。
永遠子は無表情で手を見つめる。
「何かちょうだい?」
稔はにへらと笑う。
永遠子は真顔で見つめる。
「あいにくお菓子はもってません」
「別になんでもいいよ」
「人様にあげられるようなものは持ち合わせてないです」
「別にものじゃなくてもいいよ」
「ものじゃなくても……?」
「うん、たとえば、ほっぺにチューとかでも」
稔はにやっと笑った。
永遠子は驚きのあまり、口をぽかんと開けた(つもりだったが、実際には軽く隙間が開いた程度だった)。
稔は永遠子の反応を一瞬でも見逃すものかと、愉快な気持ちで観察し続けた。
もちろん、からかっただけで、本気で永遠子がそんなことをすると思っていたわけではない。ほんのわずかでも感情の変化が見れればいいな、という軽い気持ちからの発言だった。
それゆえに、永遠子がとった行動は稔の呼吸を一瞬止めることになった。
何を思ったのか、永遠子は稔の右手をそっと引き寄せるとそのまま自分の口元へ導いて、その指先に唇を寄せ小さくちゅっと音をたてて、キスをした。
永遠子は稔の指先から唇を静かに離すと、恥ずかしそうに(※しつこいですが、あくまで本人の主観です)目をそらした。そして、消え入りそうな小さな声でつぶやいた。
「頬は無理なので、これで許してください」
その言葉に我に返った稔は「うわっ!」と大声をあげると顔を真っ赤にして右手を振り上げ、その勢いで椅子に座ったまま後ろに退いた。
がたたた!ごと!がん!がしゃん!
椅子が後ろの机に激突し、その衝撃で体が浮き上がり踏ん張ろうと腕を振り回した結果、近くの机が横倒しになった。
「どうしたーーーーーー!?何の音だ!!?何があったーーーーーー!!!?」
例によって例の如く、空気を読む気がない生徒指導部の鬼教師が乱入してきたとき、稔は腰が砕けた状態で床に座り込んでいた。
「どうした!?六原!」
「なんでもありません!ゴキブリです!」
「北海道にゴキブリが!?」
「だと思ったらセミでした!」
「北海道にセミが!?」
「だと思ったら、でっかいハエでした!すみません、お騒がせしました!」
しばらくの押し問答の果てに、なんとか教師を教室の外に押し出した稔は、混乱する頭を落ち着かせようと大きく何度も深呼吸した。
永遠子の手はびっくりするほど白くて、少しひんやりしていた。
蝋人形のように整ったうつむき加減の顔。長い睫毛。指先に感じたわずかな感触。
触れていたのは1秒にも満たないというのに、下手に頬にされるよりもよっぽど扇情的で官能的で……
そこまで考えて稔ははっと我に返り、再び湯気が出るほど赤面して頭を大きく振り回して邪念を払おうとした。
「あの……」
不安げで心配そうな声に慌てて振り替えると、永遠子が相変わらずの無表情でさっきまで座っていた席の横に立ち尽くしていた。
「……もしかして六原さん、わたしのこと、からかっただけ……でしたか?」
「あ……」
思わず言葉に詰まった稔の様子に、永遠子は恥ずかしさととんでもないことをしてしまったという後悔から真っ青になってうつむいた。
「ごめんなさい。もし、不快にさせたんだとしたら、わたし……」
「違う!」
稔は永遠子の言葉をさえぎって永遠子のもとへ足を急がせた。
「不快とか、そういうんじゃなくて、ただちょっと驚いたっていうか」
稔は永遠子のすぐ前に立って、小さな体を見おろした。
「本当ですか?」
「ホント、ホント!」
「そうですか……」
永遠子の声に少しだけ元気が戻ってきたように感じて、稔はほっと胸をなで下ろした。
「すみません、わたし……、あんまり人と話したことがないので、言葉通りにとることしかできなくて……ついあんな行動に」
「言葉通りに…?」
稔は、永遠子の言葉に、唐突に言い知れぬ苛立ちを感じた。
「佐倉は……お願いされたら、誰にでもあんなことするの?」
「え?」
永遠子ははじかれたように、稔の顔を見上げた。
稔は、まるでいつもの永遠子の顔をうつしたように、無表情で見おろしていた。
永遠子はいつもと違う様子の稔に戸惑いながらも、即答しなければならないと本能で悟った。
「いいえ!誰にでもなんて、しません!絶対」
「俺だから?」
「はい」
「俺は特別?」
「はい」
「それってどういう特別?」
「どういう?」
「顔見知りとして?友だちとして?それとも」
稔はたたみ掛けるように問いかけた。
「男として?」
また、からかわれているのだろうか?
頭の片隅でそんな疑問が浮かんだけれど、稔の顔は真剣そのものだった。
「……顔見知りとして、とか、友だちとして、ではない、と思います」
永遠子にとって、考え得るかぎりギリギリの返答だった。
「男としては?」
しかし、稔は逃がそうとはしなかった。
永遠子は、言葉に詰まりながらも真剣に稔を見つめ返した。
「分からない…です。わたし、本当に分からないんです」
「そっか」
そっけない返答に、永遠子は焦った。
「ごめんなさい。でも……」
「でも?」
「……この3日間、六原さんに会えなくて、毎日物足りなかった、です」
稔は返事をしなかった。
「今日、会えて嬉しかったです」
永遠子は、口下手な自分を呪いながら、必死で語りかけた。
「こういうのは……男の人として”特別”、なんでしょうか?」
相変わらず無表情な永遠子だけれど、その声はいまだかつてないほど感情が滲み出ていた。
稔は、黙って永遠子に手を伸ばすとぎゅっと握り締めていた永遠子の小さな手をとった。
「俺さ、割と身近に反面教師みたいな人がいてさ、ずっと恋愛不信っていうか、そういうのよく分からないんだ。中学のときは好奇心から告られた子と付き合ったりとかもしたんだけど、やっぱりあんまりよく分からなかった。それ以来、なんか面倒くさくなって当たり障りない関係しか築いてこなかったんだ。爽やかな王子様を装って、そのくせ自分のテリトリーに入ってきてほしくなくて”面食いだ”とか嘘付いたりして」
稔は無意識に、握った手に力を込めた。
「でもさ、佐倉といるとわけもなく楽しくて、毎日佐倉に会うのが楽しみで、新鮮で飽きることないっていうか、会うたびに興味が募っていく。もっと知りたい、もっと一緒にいたいって」
稔は体をかがめて永遠子に視線をあわせて、複雑そうな顔で笑った。
「”恋愛感情”って、正直どういうものなのか今でもよく分からない。でもさっき佐倉に指にキスされた時は本気でどきどきしたし、他のヤツにも同じ事をするかもしれないって思ったらすっげえいらいらした。今の佐倉の言葉がなんか言葉にならないくらい嬉しかった。こういう気持ちを”恋”って言うんだとしたら、多分俺は佐倉のことすごく、好きなんだと思う」
永遠子はぽかんとした顔(※あくまで以下略)で稔を見つめた。
稔は永遠子の無表情にふっと顔をほころばした。
「佐倉は俺が特別なんだよね?」
「はい」
「俺と会えなくて淋しかったんだよね?」
「はい」
「俺と会えて嬉しいんだよね?」
「はい」
「俺も佐倉が特別だし、会えないと淋しいし、会えると嬉しい」
「はい」
「てことは、佐倉と俺の気持ちは一緒だよね?」
「は、い……?」
流されるままに返事をしていた永遠子に、稔はにやりと意地悪そうに微笑んだ。
「俺はどうやら佐倉が好きらしい」
「はい」
「その俺と、佐倉はおんなじ気持ちでいた」
「……はい」
「つまり、佐倉も俺のことが好きってことだよね?」
「はい……いえ、そうなんですか!?」
ようやく誘導尋問に引っかかっていることに気づいた永遠子は慌てて声を上げた。
「いいんじゃない?そういうことで」
稔は満面の笑みを浮かべたままさらっと言いのけた。
「何か、問題ある?」
永遠子は黙って考え込んだ。
初めは顔だった。綺麗な顔の人が同じ学年にいることを知り、実はこっそり教室をのぞきに行ったこともあったのだ。
その時はただ顔が好きなだけだった。稔の顔を見られた日は得した気分になった。それは、街中で綺麗な女の人を見かけたり、なんとなくつけたテレビでお気に入りの女優や俳優が出ていた時、美術館で美しい絵を見た時、他人の庭先に綺麗な花が咲いているのを見た時、それらとなんら変わらないもののはずだった。
でもいつの間にか、それとはまったく別の感情が生まれていたらしい。何かを見られなかったからといって気落ちするほど残念がることはなかったし、見かけたからといって体が浮き上がらんばかりに気分が上昇するといったこともなかった。そんな気持ちになるのは稔だけ。これが”恋”なんだとしたら――。
永遠子はまっすぐ稔を見つめ返した。
「問題ありません」
その真面目な受け答えに、稔は「ははっ」と声を出して笑った。
「じゃあ、両想いってことで」
「はい」
稔は握り締めていた永遠子の手を一瞬ゆるめると、両手で永遠子の右手をそっとすくい上げた。そしてそのまま自分の唇に運ぶと指先に軽くキスをした。
口を離してそっと永遠子の顔をうかがうと、その瞳が稔にもはっきりと分かるくらい大きく見開いてみるみるうちに頬が赤くなっていった。
目が合うと、永遠子は稔の手を振り切り出来る限るの素早い動きで後退して壁際のロッカーにぶつかった。
その追い詰められた小動物のような動きに、稔は口元を覆ってくっくっくと笑いを噛み締めた。
永遠子は恨めしい思いで稔を睨みつけた。
稔は、永遠子の無言の訴えを察知して、込み上がる笑いをおさめると意地悪そうに微笑んだ。
「仕返し」
「………」
「そんなにびっくりした?」
「……心臓がとまるかと」
「それは申し訳ない」
にこやかに笑う稔。
唇に触れた指を左手で包み込んで動こうとしない永遠子。
「戻っておいで」
稔の優しげな呼び声にも、永遠子は動こうとしなかった。
その頑なな様子に稔は苦笑した。
「大丈夫。もう何もしないよ」
永遠子は、稔の言葉におずおずとゆっくりと元の位置へと足を進めた。
戻ってきた永遠子に向かって稔は身をかがめ、爽やかな笑顔でささやいた。
「今日はね」
*
急激に訪れた変化のとき。
2人の関係は、これからさらに複雑に変化していく……のでしょうか?
それはまだ誰もしらない。