3:小さな接触
「あ、みっのる~」
放課後、いつものように教室で少し時間をつぶし自習室へ向かおうと廊下を歩いていると、背後から甘ったるい声が聞こえてきた。稔は心の中で「ちっ」と舌打ちすると、息をするより自然に完璧な爽やか笑顔を貼りつけて、愛想100%で振り返った。
「みのるぅ~。どこ行くのぉ?」
声の主はとなりのクラスのなにがしなんとか。もちろん名前は知ってるけど、稔にとっては、いちいちここに上げるまでもない、どうでもいいサブキャラ。モブ。その他大勢。
「面食い宣言」が功を制し、ほとんどの女子は鏡を見て出直しているのだが、時々、見てくれが少々整っているのをいいことに、空気を読まずにあわよくば、とちょっかいをかけてくる者もいる。この少女がその筆頭だった。
「ねぇ~」
少女はなれなれしくぺたりと稔の腕に手を添えた。
うぜぇ……。
心の中では思いっきりしかめっ面をしながらも、あくまで表情は爽やかに「生徒指導室だよ」とさらっと嘘を付いた。
稔の思惑通り、少女は「うげ」とあからさまに嫌そうな顔で咄嗟に添えていた手を離した。
「そんなところに何しに行くのぉ~」
「権田センセイに呼ばれてるんだ。何か手伝ってほしいことがあるとか」
「……権田」
少女はさらに顔を歪ませた。
権田雄平(38)独身。社会科教師のくせに常にジャージで竹刀を持って校内を闊歩し、生徒から恐れられている生徒指導部の鬼教師。
ちなみに、毎度毎度、自習室の謎の笑い声に怒鳴り声で乱入するも犯人を見つけられず、すごすごと去っていく等、強面のくせにどこか可愛げのある教師でもある。
この教師に可愛げなど感じる人間は、おそらく校内では六原稔ただ一人しかいないであろうが。
「なんなら、一緒に行く?」
稔が笑顔で問うと、少女は案の定、顔を真っ青にして「まさか!」と声を上げた。そして、「がんばってねぇ~ん」と手を振って去っていった。
稔はその後ろ姿を見送ると、爽やか笑顔を貼りつけたまま廊下を進み、生徒指導室を通りすぎると自習室のドアを開いた。
そして、一歩中に入ると後ろ手にドアを閉め、一気に顔を歪ませた。
「ふんっ」
鼻で笑って足を出すと同時に、背中にわずかな風を感じた。
振り返ると、佐倉永遠子が立っていた。
「やぁ」
稔が軽く手を挙げると、永遠子は数秒間じっと立ったまま稔を見つめた。
「はい」
永遠子とこうして会うようになって1ヶ月ほどたったけれど、稔はいまだに永遠子のリズムがつかめない。今の間は一体なんなのだ。
一方、永遠子は、稔と会うようになって1ヶ月たった今も、稔の顔を間近で見るとあまりの美しさに見ほれてしまってすぐに返事が出来ず、そんな自分を恥じらってますます口が重くなっていく、という悪循環を繰り返していた(つもりだった)。
稔は、突っ立ったまま動こうとしない永遠子を不審に思ったが、ふと、自分が立っている場所に思い当たり、自分が教室の入り口にいるせいで永遠子の進路をはばんでいることに気付いた。
慌てて身を引こうとしたけれど、ちょっとした悪戯心――もしこのまま自分が動かなかったら永遠子はどうするだろうか、という考えが頭をよぎり、俄然興味が湧いてきてしまった。
稔はその場に立ったまま、頭1つ分ほど小さい永遠子を見下ろした。
永遠子は、自分を見つめる稔のまっすぐな眼差しに見とれて、自分が突っ立っていることも忘れて身動き一つしなかった。
沈黙。
長い長い沈黙。
つきあい始めて1ヶ月のバカップルであっても苦痛に感じるのでは、というほど長い時間2人は見つめ合っていた。
永遠子にとって、それは至福の時であった。
稔にとっては、もはや意地であった。
ついに沈黙に耐えきれなくなった稔は、永遠子のその艶のある髪にぽんと手をのせた。
永遠子は稔の突然の行動ではっと我に返り、思わず身体が固まらせた。
「小さい頭だなぁ……」
「……」
「ホントにお人形みたいだな」
「あの」
「ん?」
「手をどかして下さい」
稔は、いつになくはっきりした口調の永遠子にひるんで、慌てて手を引っ込めた。
「あ、ごめん、嫌だった?」
「いいえ」
永遠子は、気まずくなって視線を足下に移した。
「恥ずかしいので」
思いがけない永遠子の言葉に、稔は思いっきり目を見開くと、身をかがめて永遠子の顔をのぞき込もうとした。
永遠子は、体中から熱が大量放出されていることを自覚して(実際には相も変わらず涼しげだったのだけれど)、真っ赤になっている顔を見られないように(実際にはほんのわずかに血色がよくなった程度なのだけれど)、顔を背けようとした。
稔は永遠子の動きを先読みして、そっと頬に手を添えて自分の方へ顔を向けさせた。
「佐倉、照れてる?」
「……」
「照れてるんだ?」
「……」
「……照れてるでしょ?」
稔の極上スマイルに根負けして、永遠子は真っ赤(ではないけれどほんのり赤い)顔で「はい」と認めた。
稔ははじめて感じた永遠子の感情の変化に、さらに興味を募らせ永遠子の頬を軽くつまんでみた。
その瞬間、ほんのわずかに永遠子の瞳がゆれたような気がした。
ますます面白くなってつまんだ頬をひぱってみた。
今度は少し眼を見開いた気がした。
稔は調子に乗って、両手で頬を包み込むとゆっくりと顔を近づけてみた。
その瞬間、突然永遠子の瞳から一筋の涙がこぼれ落ちた。
「えぇーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!」
稔は慌てて両手を放して身を引くと、両手をそのまま真上にあげた。
「ごごごめん!え、そんな……えーと、あぁ…ごめんなさいすみません申し訳ありません調子に乗りました許して下さい!」
稔は普段王子様を気取っているけれど、中身はただの高校生男子。例に違わず女の子の涙には弱かった。
一方永遠子は、突然の接触に頭の中はパニック状態。何が何だか分からないまま涙が流れていて、稔の手が離れてようやく冷静になってみると、目の前にはなにやら必死の形相で両手を上げて平謝りをしている王子様。
永遠子は、頬に残る涙を跡をそっと手でぬぐうとぺこりと頭を下げた。
「すみません。混乱しました」
確実に自分が悪いのに、何故か頭を下げられている現状が理解できず、稔は困惑しながら両手をゆっくり下げた。
「いや、俺が100%悪いから」
「いえ、びっくりしてしまっただけです」
「泣くほどびっくりさせちゃったってことだろ?」
「いえ、びっくりしたくらいで泣く方が悪いです」
「いや、でも俺が……」
「……分かりました」
「ん?」
「六原さんが悪いです」
「あ、うん」
「そして私も悪いです」
「ああ」
「はい」
永遠子の眼にはもうすっかり乾いていた。
さっきの涙は、顔に水しぶきが飛んだだけだったのではないかというくらい、いつも通りの無表情だった。
稔はその無表情で無感情なはずの永遠子の顔を見て、なんだか胸がむずがゆいようなほんわか温かいような奇妙な感覚を覚え、思わずふっと噴き出した。
そして、いつものようにこみ上げてくる笑いに身を任し、しばらく楽しげにでも少し苦しげに、稔は笑い続けた。
*
そして、例によって例の如く、生徒指導室からの来襲をやり込め稔は永遠子に親しげに眼を向けた。
「佐倉は優しいね」
「六原さんも」
「そんなことないよ」
「そんなことあります」
小さな接触が生んだ小さな感情。
その感情につける名前は――まだない。