13:2人の世界
日曜日、AM10:55
六原稔は地下鉄札幌駅の改札をくぐっていた。
稔は基本的には待ち合わせには5分前に着くよう心がけているが、今日に限ってはあえて時間ぴったりに待ち合わせ場所に着くように計算して行動していた。
今日の待ち合わせ相手は佐倉永遠子。
極度のポーカーフェイスのせいで一見堅物そうに見えるが、その実は大の少女漫画好き。少女漫画でおきまりの初デートシーンと言えば、
男「ごめん、待った?」
女「ううん、今来たとこ」
というやりとりであろう。
正直、こんなのは今となっては都市伝説でしかないのだが、永遠子がこれに憧れていないとは言い切れない。(というより、これを普通だと思っている可能性が高い)
彼女の願望を先回りで叶えてあげようと考えたのだ。
稔は時計を確かめると、ゆっくりした足取りで地上に向かうエスカレーターに乗った。
永遠子はどんな服を着てくるだろうか?
知らず知らずのうちに想像力が膨らむ。制服姿しか見たことがない稔としては、それが今日の楽しみの一つでもあった。
夏だからやっぱりワンピースかな。
いや、ボトムパンツにキャミソールとかでも可愛いかもしれないな。
そんなことを考えながら、自然と顔がにやけているのだけれど、さすがは年季の入った猫かぶり。その顔さえも爽やかに見えるのだから得な人間である。
鼻歌でも歌い出したい気分でエスカレーターの終わりにさしかかった時、稔の目に小柄な少女の姿が飛び込んできた。待ち合わせ場所の中央に大きな穴があいた白いドーナツ型の石のオブジェ。稔はその姿に思わず絶句してエスカレーターの降り口で躓きそうになった。
別におかしな格好というわけではない。世間一般的に見ても、とても健全でまっとうな格好である。何も間違ってはいない。
――ただし、今日のデートの目的が山でキャンプか川で魚釣りなのだとしたら。
永遠子は足首までしっかり隠れるジーンズに、丸首のTシャツ、さらにその上にパーカーを羽織って、頭にはキャスケットの帽子、いつもはポニーテイルの長い髪の毛を左側の耳の下で一つに結んでいる。背には小ぶりのリュックを背負っている。
紫外線は親の敵です!
とでも言いたいのかと思いたくなるくらい徹底して肌を隠している。
本当は山か川に行きたかったという無言の訴えだろうか?いや、それとも、
――もしかしてこの前のキスで警戒心を与えてしまったのだろうか?
稔は思わず空を仰ぎたくなった。
しかし、気を取り直してよくよく考えてみるとスカート姿は制服で見ているし、スポーティでアウトドアな格好も新鮮かもしれない。と言うか、稔は中身が永遠子であれば結局はどんな格好であろうが「可愛いなぁ」という結論にしか辿り着かないようだ。まさに恋は盲目である。
稔はふうと息を吐くと時計に目を走らせた。
AM11:00
永遠子は緊張した面持ち(おそらく)で、じっと足下を見つめており、いまだ地下から上がってきた稔の姿には気づいていない。稔はふわりと笑顔を浮かべると優雅な足取りで永遠子に近寄った。
近づいてくる人の気配に気づいたのか、永遠子がふと顔を上げた。相変わらず表情はないけれど、瞳はまっすぐ稔の目をとらえている。稔は極上の笑顔のまま永遠子の前に立つとお決まりの台詞を言おうとした。
「ごめんね、まっ」
その時だった。
「た。」まで言い切る前に、背後の白いオブジェの両脇から何やら大きくて黒い人影が二つにゅっと現れた。
*
「「永遠子」」
驚き絶句する稔には一瞥もくれずに永遠子の両脇を固めた大きな人影は、2人そろって脳髄に響くような低い美声で囁いた。涼しい顔をしているが、実はこの2人、JRを降りた後ここまで全力疾走で駅構内をすっ飛ばして来たのだけれど、日ごろの鍛錬のたまものか息は少しも乱れていない。
「永くん、久くん。どうしたんですか?」
バリトンの美声にも影響を受けた様子もまったくない永遠子は、純粋に驚いた声で問いかけた。
「映画を観に来た」
「永遠子も友だちと映画だろ?」
「その友だちはまだなのか?」
「待ち合わせ時間をもう30秒はすぎているぞ」
「永遠子の友だちを悪く言いたくはないが、時間にルーズな人間は信用できないぞ」
「なんなら俺が友だちが来るのを一緒に待っていてやろう」
「いや、俺が一緒に待っていてやる」
「永は映画を観るんだろ。さっさと行け」
「俺が観るのは永遠子と同じ映画だ。問題ない」
「お前、永遠子の邪魔をする気か!」
「邪魔じゃない!護衛だ!」
「それが邪魔なんだ!永遠子、永は邪魔だろう?」
「何を言ってるんだ!邪魔なのは久だ!」
「あの……わたしは大丈夫なので、2人は映画に行って下さい」
永遠子を挟んで言い争いを始めた2人に、永遠子が控えめに断り文句を告げると、2人は顔を蒼白させ永遠子に掴みかからん勢いで主張を始めた。
「何度も言ってるだろ。永遠子はいつもぼんやりしていて隙がありすぎる!」
「そうだぞ!永遠子みたいのが一人で立っていたらキャッチセールスとかナンパとか宗教の勧誘だとかナンパとかにすぐ声をかけられるぞ!」
「そうだ!怪しげなスカウトとかナンパとか風俗の勧誘だとかナンパとかに目を付けられたらどうする!」
「キャッチセールスとかナンパとか宗教とかナンパとかスカウトとかナンパとか風俗とかナンパとかはしつこいんだぞ!」
「永遠子一人でキャッチセールスとかナンパとか宗教とかナンパとかスカウトとかナンパとか風俗とかナンパとかを対処できるのか!?」
「俺がついてれば安心だぞ」
「そうだ、俺がついてるぞ」
「俺は久より握力が0.5kg上だ!俺の方が頼りになるぞ」
「俺は永より100m走が0.1秒速いぞ!俺の方が頼りになる!」
「お前、敵前逃亡する気か!?情けない!」
「お前こそ、永遠子の前で暴力を振るう気か?この野蛮人め!」
「戦う前に逃げ出そうとする腰抜けが!」
「戦うことしか能のない筋肉脳が!」
目の前で、稔のことなど視界にも入ってない様子でどっちもどっちの言い合いを続ける2人。稔は、ここに来てようやく衝撃から立ち直り冷静に今の状況を分析できるようになった。
おそらく、いや間違いなくこの2人は永遠子の兄であろう。永遠子から聞いていた話(兄はシスコンではなくブラコン)とは大分違う…というよりむしろ180度正反対な気がしないでもないが、とりあえずなんとか永遠子を2人から引き離さなければ映画に遅れてしまう。肝心の永遠子は争う2人をただただ見つめているばかりで一言も口を挟めないでいる。
稔は意を決して2人に声をかけた。
「あの……」
「「うるさい!ナンパはお断りだ!」」
「いえ、ナンパじゃ……」
「じゃあキャッチセールスか?宗教か?」
「まさかスカウトや風俗じゃないだろうな!」
「ち、違います!」
「「じゃあ、ナンパだ!」」
「いえ、だから……」
「お前の顔なら他にいくらでもついてくる女はいる。余所を探せ」
「違うんです!」
「「黙れ!永遠子に近寄る男は俺以外は全員ナンパか犯罪者だ!」」
「そんな無茶苦茶な!!」
理不尽で非情な言葉に思わず叫んだ稔を無視して、2人は永遠子に向き直ると優しげな笑顔を見せた。
「ああ、永遠子、永が大きな声を出してごめんな。怖かっただろう?」
「ごめんな、久のバカが怖い顔で怖い声を出すから怖かっただろう?」
「なんだと!先に大声を出したのはお前だろう」
「最後まで怒鳴ってたのはお前だ!」
「永遠子、もう友だちは来ないみたいだから帰ろう」
「何言ってるんだ!永遠子は映画が観たいんだよな?よし、俺が一緒に行ってやろう」
「それなら俺が行く!」
「久は帰りたいんだろう。無理に付き合うことはない。さあ行こう永遠子」
「帰りたいとは言ってない!永遠子が帰りたいんじゃないかと思っただけだ。永遠子が映画を観たいなら俺も一緒に行く!」
「真似するな!俺が行く!」
「俺が行く!」
「兄に譲るのが筋ってもんだろう!」
「兄は俺だ!」
「俺の方が先に生まれたんだ!俺が兄だろう!」
「昔の風習では後から生まれた方が兄だ!」
「今は平成だ!」
もう、どこをどう突っ込んだらいいのか……いやむしろ突っ込んでいいのかすら疑問な、ツッコミどころしか存在しない兄たちに、すっかり尻込みしてしまった稔は、突然聞こえてきた「六原さん」という永遠子の声に思わずびくっと体がはねた。
いつの間に抜け出してきたのか、永遠子が稔のすぐ横に立っていた。
「行きましょう。映画に遅れます」
永遠子は稔の服のすそを軽く引っ張ると、いつの間にか遠巻きにギャラリーが増えてきているオブジェ前に背を向け駅ビルの方へ歩き出した。
稔は大声で言い争いを続けている兄たちを振り返りながら小走りで永遠子に追いつくと横に並んで永遠子の手を取った。
「いいの?あれ、お兄さんだろ?置いて来ちゃったけど」
心配そうな稔とは対照的に、永遠子はしらっとした声で「大丈夫ですよ」と請け負った。
「いつものことですから。あの状態になった兄は自分たちしか見えていないので、少なくともあと30分は2人だけの世界から帰ってきません」
「はぁ」
「本当に、呆れるくらい仲が良いんですよ」
「仲、いいの?どちらかと言えば悪そうに見えたけど」
「いいですよ。先ほどの2人のやりとりを見ていても思いませんでしたか?2人とも初めはわたしのことを話しているのに、いつのまにか話題はお互いのことになっていて、終いにはああしてわたしを置いてきぼりにして取っ組み合いになってしまうんです。幼いころは必死で話について行こうとした時期もあったのですが、兄たちの話のペースはめまぐるしく変わっていくのでとてもついて行けず……最近では適当に聞き流してそっと席を外すようにしているんです」
兄たちが聞いたら「それは誤解だ!」と言って泣いてすがりついてきそうなことを淡々と語る永遠子。兄たちの想いは妹にはこれっぽちも届いていないようである。
永遠子はエレベーター前にさしかかり歩幅を少し落として体をそちらへ向けようとした。映画館は駅ビルの7階にあるので、エレベーターかエスカレータで上らなければならない。
稔は永遠子の手を引いてエレベーター前を通り過ぎるとエスカレータの方へ連れて行った。映画館行きのエレベータはいつも満員でぎゅうぎゅう詰め状態になる。小柄な永遠子では押しつぶされかねない。というか、永遠子の横に男が立って彼女に触れられるのがなんとなく嫌だった。
稔は一旦手を離すと先に永遠子をエスカレーターに乗せるとすぐ後ろの段に乗り込んだ。
「それにしても、似てないね……お兄さんたち身長いくつ?」
「たしか……180cmくらいだと思います」
「顔も格好いいしモテるんじゃない?」
「そうなんでしょうか……?あんまりそう言う話は聞きませんが。それに兄は顔も綺麗ですけど、体がとりわけ綺麗なんですよ」
「……体?」
「はい。肉体美と言うのでしょうか。兄は2人とも武道を嗜んでいまして、子どものころ見ていた戦隊物のヒーローにあこがれて柔道だったか合気道だったか空手だったか……もしかして全部かもしれないんですけど始めまして、今は段持ちなんです。お風呂上がりに裸で闊歩している姿は金剛力士像かギリシャ彫刻みたいで惚れ惚れします」
実際は戦隊物のヒーローにあこがれていたのは永遠子の方で、永遠子が夢中になっているのを見て、兄たちは武道を始めたのだとは当の永遠子は知るよしもない。さらには、永遠子があこがれていたのは変身前のイケメン俳優であって、特別強い男が好きだというわけではないことも兄たちは当然想像すらしていない。
2階につき、エスカレーターを降り永遠子が次の階へ進もうとした時だった。急に後ろから手を引かれた。
驚いて振り返ってみると、ひどく真剣な顔をした稔がじっと永遠子を見つめており、訝しがる永遠子にかまわずそのままその階の脇まで連れて行かれてしまった。
「六原さん?どうしたんですか」
「永遠子ちゃん」
稔は真剣な顔で永遠子の両肩をぐっとつかんだ。
「もしかして永遠子ちゃんはお兄さんたちみたいにマッチョな方が好きだったりする!?」
「マッチョ……ですか?」
「俺、見た目は華奢そうに見えるかもしれないけど、実はそれなりに鍛えてるんだよ!」
「そうなのですか?」
「そう!毎朝ジョギングしてるし、寝る前には腹筋とか腕立て伏せとか柔軟とか欠かさずしてるし!」
「それは……よい心がけですね」
「お、お兄さんたちには全然敵わないけど、俺だって着痩せしてるだけで脱いだら凄いから!なんなら見せてもいいし、触ってもいいよ!?」
「触って……」
目を丸くしてわずかに目を泳がせた後わずかに赤みが差した永遠子の顔を見て、稔はようやく自分の失言に気づいた。 稔は慌てて両手を離した。
「ああ!ち、違う!いやあの変な意味じゃなくて別にやましいこともやらしいことも考えてないから!」
「やらしいこと……」
「ああ~なんでそこに食いつくの!?違うから本当!ただ……」
稔は焦りと羞恥心にまみれた顔で髪をかきあげると、肩を落として小さく縮こまってつぶやいた。
「もし、永遠子ちゃんがもっと筋肉つけろって言うなら俺ジムに通ってもいいしボクシングのプロテストを受けたっていい」
詰まるところが単に、稔は永遠子に肉体を賛美された兄に嫉妬しただけだったのだが、永遠子はなぜ稔がそんなに筋肉にこだわったのか全く理解できなかった。
それゆえ、永遠子の発想は脳内であちこちと飛び回り挙げ句の果てにとんでもないところに着地した。
「わたしも、鍛えた方がいいですか?」
「は?!」
「六原さんがそんなに筋肉にこだわりを持っているとは知りませんでした。確かに兄の筋肉は身内のわたしから見ても惚れ惚れするので、六原さんが憧れるのも無理ありません。わたしは女ですので、兄のようになるのは無理かもしれないですけど、頑張れば少しくらいは近づけるかもしれな」
「うわーーー!やめて!しなくていいから!」
「そうですか?でも父にはよく『痩せすぎだ』と言われますし。鍛えたらちょっとは体重も」
「いやいやいや!確かに細いけど、別に病的に痩せてるわけでもなし、俺にはちょうどいいから!ジャストサイズだから!そのままの永遠子ちゃんが好きだから!」
「そうですか?」
稔は首がはずれるほど何度も激しく縦に振った。
「だったら」
永遠子は稔をじっと真っ直ぐな瞳で見上げた。
「わたしも今の六原さんが好きですよ。六原さんが鍛えたいのでしたら応援しますけど」
「本当?」
「はい」
「そっか」
稔は安堵の息を漏らすとにっこり極上の微笑みを浮かべた。永遠子はそんな稔の表情に息をのんでうっとりと見とれた。
「行こうか」
稔は永遠子の手をとってエスカレーターに向かって歩き出した。そして、先ほどと同じように永遠子を先に乗せ一段したの乗った稔は後ろから永遠子の腰に手を回して抱き込んだ。永遠子は驚いてびくっと体を震わせると前を向いたまま困った声を上げた。
「六原さん……」
その情けない声に稔はくすりと声を漏らした。
「確かに、もう少しだけ太ってもいいかも」
「え?」
振り返った永遠子に、稔はにやっと意地悪そうに微笑んだ。
「その方が抱き心地よさそう」
永遠子は絶句したまま固まって、あやうく降り口で躓きそうになった。
*
ところかまわず2人の世界。
そんな彼らの世界に乱入しようとしている者たちがいることを、彼らは忘れてはならなかった。




