第六章
〔闇〕
鬼の鬼術により月明かりが遮られた校舎。孤独のみが支配する闇。温もりの抜け落ちた教室。暗い闇が支配する外に半透明な内側を反射する窓ガラス。主を待つ机。先の見えない廊下。
まるで世界が死んだような静けさが、九条学園を覆い尽くしていた。
〔だからこそ〕
だからこそ、彼女はなぜここにいるのだろう。一切の光を身につけず、一切の声を上げず、ただただ、この死界の中を歩く女子生徒。
迷うことなく、立ち止まることもなく、ただただ、歩く。
― ―ただ一つ。信頼という絆だけを信じて。
〔影〕
その数は二つ。女子生徒と付かず離れず動く影。息を殺し。存在を殺し。音を殺し。闇にまぎれて動く影。
何秒 何十秒 何分 何十分
女子生徒と共に影は行く。
〔来た〕
女子生徒が止まる。眼鏡の奥の双眸を細め、前方の一点を凝視する。
そこは一片の光のない漆黒の闇。
だが彼女には、すべてを見通す眼鏡の封具、《千里鏡》を掛けた霧葉には、確かに闇の中に這いつくばる、長い髪に顔を覆う人影が視えた。
「なんで……?」
霧葉が驚愕に呟くと同時に、対峙した人影が霧葉に向って動き出した。
四つん這い姿で滑るように床を動く姿はまるで人間大のトカゲのようで、不気味な上に捉えにくい。 そして、早い。霧葉が迎撃態勢を取る前に、その人影はすでに霧葉の懐に潜り込んでいた。下から救いあげるようにしなやかな腕と爪が霧葉の双房に伸びる。が、その霧葉の命を狙った者の動きは、見えない糸に絡められたかのようにピタッと止まった。
爪先は霧葉の柔らかな双房に微かに刺さったところで、何者かにその手首を掴まれた。
「やっと、見つけたぞ」
思った以上に細い手首をギリギリとへし折らんばかりに握りながら燐夜が、会心の笑みを浮かべた。
生徒たちを全員寮へ避難させたあと、燐夜たちは一度集まって、ある作戦を立てていた。作戦の内容はいたって単純。
その作戦とは、封鬼委員自らが囮となり鬼を引きずり出すこと。
正直、燐夜自身は乗り気ではなかったが、このままでは後手に回る一方。危険はあったが燐夜は堂穀にこの作戦の許可を取り、藍夏達と共に四手に分かれ夜の学園内に待ち伏せていたのだ。
そして囮作戦は見事に上手くいった。
辺りは暗闇、だがこれだけ近ければ目の慣れてきた燐夜にも、手首を掴んで人姿がぼんやりと見えた。頭をだらんと下げ、長い髪で顔は見えないが体つきからしておそらく女性。
「さあ。面、拝ませてもらおうか」
燐夜が大人しくなった人影へと手を伸ばす。
「燐夜、ちょっと待って」
その横で霧葉が声を上げたのと、それまで動きを止めていた人影が、霧葉を襲った時のように俊敏に動きだしたのはほぼ同時だった。燐夜に掴まれていた手と逆の手が、弾丸を思わせる速度で突き出される。狙いは燐夜の左目。燐夜は咄嗟に首を傾げたが、伸ばされた爪に、ほほの皮と肉が浅く抉り取られ、赤い鮮血が迸る。
次の瞬間、人影が燐夜に掴まれた手首を軸にして、体を側転させるように跳んだ。
「くそっ」
傷を負ったことにではなく、鬼の取った離脱方法に燐夜が舌打ちして、握っていた手を放す。もし、そのまま腕を握っていたなら、骨が崩壊し、鬼の操っている一般人の手首は使い物にならなくなっていただろう。
人影は大きく飛び退き、燐夜から間合いを取る。
だが、そのまま闇の中へと逃げるようなことはしなかった。
今度はしっかりと二本の足で立ち上がり、腕と首を力なく体の前に下げた状態で、力なく燐夜たちに向き合った。
その姿に、燐夜は、いつ、どんな動きにでも対処できるように、十分に体を緊張させる。その状態を維持しつつ、燐夜は背後に位置取りした霧葉に目を走らせ、疑問に口を開いた。
「なんで止めた?」
「わかったのよ」
「わかった、って。何がだ?」
「なんで三神さんが何の抵抗もできないまま魂を奪われたのか、が」
霧葉がそう言うと、まるでタイミングを計ったかのように廊下の電気がつき、人影の姿がはっきりと浮かび上がる。顔こそ髪に隠れて見ることができなかったが、その人影の着ている服に、燐夜は見覚えがあった。
「明美さん!?」
燐夜が目を丸くする。
ぶらりと下げた腕の先から燐夜の血を流している人影は、紛れもなく封鬼学園の売店「アサガオ」の店主、喜原明美その人だった。
「魂は……、無事か。ってことは、あの後、三神と一緒に鬼に攫われて、今は操られているだけってことか?」
燐夜が探るように明美を睨む。
「たぶん違うわ」
「違う? 何が?」
明美の動きを警戒しつつ、燐夜が霧葉に尋ね返した。
その問いに、霧葉は自分の推測の確信を得るように、明美の様子を観察しながら答えた。
「順序よ」
「順序?」
「そう。明美さんは三神さんと共に襲われた、のではなく。明美さんはずっと前、おそらく今回の事件の最初の犠牲者だった、ということよ」
霧葉の見解に燐夜は、動揺はしなかったものの頬をピクリと引きつらせた。
「どうして、そう思う?」
「どうしても腑に落ちなかったことが二つあるの。まずは今回の鬼の犯行。事件が起きてから私たちと生徒会は学園内を常に巡回していたわ。いくら鬼気で学園を覆った状態での犯行といえ隠れるのが上手すぎる。次に三神さんの件。生徒会からの報告によると、三神さんは髪の毛が切り取られていた以外に目立った外傷はなし。いくら三神さんが戦闘に不向きでも、抵抗した痕跡すら見られないのは変でしょ。―でも、これで合点がいったわ」
霧葉は自分の考えを確かめるように、眼鏡の奥の鋭い瞳で明美の姿を捉えながら言った。
「明美さんは鬼に操られているだけ。たぶん、三神さんを襲わせる前までは、犯行のときだけ、何らかの方法で明美さんを操ったのよ。そして、この鬼の恐ろしいところは、『魂噛』あくまで明美さんの魂を残したまま操っていたということ」
「…‥なるほど、そういうことか」
霧葉の言わんとしていることを悟った燐夜が、今鬼の狡猾さにギリギリと奥歯を噛み締めた。
「単に操っているだけなら、鬼気を感じることはできねぇ。いや、もし残留していたとしても、これだけ学園を鬼気で満たされたら分からない、か」
「そうよ。そして、これなら三神さんのことも説明できる。さすがに守っていると思っていた人に突然襲われたら、抵抗する暇なんてないでしょう」
霧葉の言葉を聞いて、燐夜が考える。
明美に、信じた者に襲われたとき、三神はどんなことを考えたのだろうか? どんな気持ちだったのだろうか?
「クソったれ」
燐夜の中で、鬼に対する怒りが一層膨れ上がる。
だが激昂は一瞬。
次の瞬間にはすでに、燐夜は目の前にいる明美を救う方法を考えていた。
現状を素早く判断。分析。明美が操られていると分かった以上、無駄に傷つけるわけにはいかない。取るべき行動は自ずと絞られる。
「霧葉」
「分かってるわ。【解鬼離縁】、ね」
燐夜の呼びかけに、霧葉が頷く。
【解鬼離縁】とは鬼の憑依、または支配された人から鬼気を弾き出す、氣道の上級技だ。
「ああ、頼んだぞ。自慢じゃないが俺は氣術のスキルを持ってねぇからな」
「本当に自慢にならないわよ、それ」
その言葉に、燐夜と霧葉が互いに微笑んだ。
「明美さんは俺が止める。そっちは頼んだぞ」
「ええ、任せて」
燐夜の呼びかけに応え、霧葉が明美を開放するために氣を練る。
その気配を背中越しに感じながら、燐夜は改めて目の焦点を明美へと定めた。
燐夜が明美を視る。
燐夜の血が乾き、黒ずんだ指先。だらんと力なく垂れる首と腕。肩幅に開かれた両足。その姿は隙だらけだ。燐夜ならば容易に先手を取ることができる。
だが――――
「……さて。どうすっか?」
燐夜は動けなかった。
純粋な肉弾戦の誘惑を押し殺し、深く息を吐きながら腰を落とし、掌を軽く開いた右腕を胸の前で構える。
燐夜が自分から攻めない理由は二つ。
一つは明美に殺気や闘気と言った戦闘の感情がないということ。特に相手の殺気から次の手を推測することに長けた燐夜に取って、操られているだけで殺気がないというのは戦い難いことこの上ない。
二つ目の理由は明美が、あまりに隙だらけであるということだ。攻撃を誘うための隙ならば燐夜は構わない。それが罠であっても突き進み、その策略ごと破壊する。
だが、今の明美の隙は単に保身を考えていないためにできる隙。それは、明美は燐夜と相討ちで構わないという鬼の罠であり警告。鬼にとって明美は単なる捨て石ということに他ならない。
だからこそ、燐夜は待った。
そしてチャンスは意外にも早く訪れた。
突然、明美が動きだす。力なく下げた腕を振り子のように揺らし、銃弾を思わせる速度で蛇行しながら燐夜へと突っ込む。その速度に髪が後に流れ、黒いガラス玉のように無機質な瞳が露わとなる。その眼に迷いはなく、鞭のようにしならせた右腕の先を燐夜へと突き出した。
だが、この瞬間こそ燐夜が待っていた好機。
元来、魂の残る身体を操る場合、その動きはどうしても直線的となる。燐夜が動いたのは、明美の指先が自分の身体に触れる0コンマ数センチ前。
それでも、燐夜の初動は明美の全速よりも早かった。
自分の身体へ伸びる腕の手首を体の前に構えておいた右手で掴み、自分は右腕の左側を滑らせるように前進。明美とすれ違う瞬間に、素早く明美の背中の方へ身体を反転。手首を握る右手はそのままに、左腕を明美の細い腰に回す。
作戦は成功、燐夜は見事に明美を捕縛した。
燐夜が狙ったのは、意識無き者に現れる戦闘においては致命的な隙。すなわち、攻撃にあるいは咄嗟の防御を決めるための、戦闘における『勘』だ。目に見えるものだけが戦いではない。死角からの攻撃もあれば、敵を貶めるための策略を張られることもある。それらに対して行動を決定する最後の砦が、理性などよりももっと深い所にある本能。『勘』なのだ。
「霧葉、今だっ!」
必死に逃れようともがく明美を抑えながら、燐夜が霧葉に向けて叫んだ。
「わかってるわ」
燐夜の声に霧葉は答え、すでに氣の充填を終え眩しく光る掌を、明美の胸に押しつけた。
「彼の者を悪しき呪縛より解き放て
氣道参拾壱が一つ 【解鬼離縁】」
霧葉の手に帯びていた氣が明美の中へと流れ込む。その氣に応じて明美の身体が燃えるように輝き出した。発光現象はものの数秒で収まり、自らを支えられなくなった明美の身体が燐夜の腕の中でズンと重くなる。
作戦は成功。燐夜と霧葉は柄にもなく微笑みあった。
――――だが、その笑みはすぐに凍りついた。
「きゃっ!」
霧葉が悲鳴を上げ、身体を九の字に曲げて吹き飛んだ。それまで、力なく崩れていた明美が突然力を取り戻したかのように立ち上がり、霧葉の腹部を蹴り飛ばしたのだ。
「霧……、グァッ!」
霧葉の名を叫ぼうとした燐夜の声が詰まる。その喉元には、初めの戦闘で燐夜の血に濡れた明美の手が、器用に関節を曲げ伸びていた。万力のように首を絞められ、苦しげに呻く燐夜。燐夜の喉へ徐々に食い込む、白百合のように細い明美の指。脳への酸素が枯渇し、燐夜の視界が明滅する。霧葉は未だ腹部の痛みに動けない。燐夜の限界が迫る。
そのとき、
「燐夜さーんっ!」
廊下から燐夜の名を呼ぶ声と共に数枚の札が飛来し明美の腕に張り付き、氣の込められた札は明美の身体を傷つけない程度にバチバチと衝撃を与えた。
「あぁぁぁぁぁぁ!」
腕に走る衝撃に、傷つくことも厭わない明美も堪らず燐夜の首を押し潰す指の力を弱める。
その隙に乗じ、燐夜は身体ごと首を捻り呪縛から脱出した。
「はぁ、はぁ、はぁ。白都か。悪りぃ、助かった」
「ぎりぎりセーフでしたね。燐夜さん、大丈夫ですか?」
「ああ、まぁな」
「それはよかったです」
廊下の電気を付け、辺り一帯に鬼が逃げられぬように結界を張っていた白都が、肩で大きく息をする燐夜に微笑んだ。
だが、その笑みは一瞬。白都はすぐに崩れた表情を正す。
「これは一体どういうことですか?」
眼を細めながら明美の姿を観察しつつ、燐夜に現状説明を求めた。
「明美さんが操られている。以上」
燐夜は重要点を最小点にまとめて答える。
白都はすぐに燐夜の意思を悟り小さく頷いた。
明美と燐夜たちの距離は5メートル強。明美の動きに注意し、燐夜は前を向いたまま少しずつ後ろに後退。ようやく息の落ち着いた霧葉に声をかけた。
「大丈夫か」
「ええ。でも、これはどういうことかしら?」
腹部を抑えながら、霧葉が未だ自分たちに敵対する明美を、観察するように睨む。
「どういうことって、なにがあったんですか?」
霧葉の言葉に、白都が説明を求め燐夜に訊いた。
「【解鬼離縁】が効かねぇんだよ」
燐夜の言葉に白都は戸惑うことなく、冷静にその事実を受け止め、眉を寄せる。
「白都。お前はどう思う?」
燐夜の疑念に、白都は燐夜の言葉を吟味し、自分なりの見解を導き出した。
「【解鬼離縁】で被害者が解放されない理由として、憑依した鬼の力・鬼気が強すぎる場合。鬼気などを使用せず、単なる催眠術を掛けている場合の二通りが考えられますね」
「――なるほど。っで、白都ならこの状況をどうする?」
「燐夜。後輩ばかりに頼ってないで、あなたも少しは考えなさい」
「うるせぇ。俺は肉体労働派なんだよ」
先輩達の姿に苦笑しながら、白都は「そうですねぇ」と、もう一度よく明美を観察した。
「一番手っ取り早い手が、明美さんの身体を戦闘不能状態まで追い込むこと、ですかね」
「却下。心にもないこと言ってんじゃないぞ」
燐夜が白都の頭をコツンと小突く。
「こら、燐夜。後輩に手を上げるな」
今度は霧葉が、ドカンと燐夜を蹴飛ばした。
仲間からの奇襲に、燐夜がバランスを崩し前方へ倒れ込む。燐夜はすぐさま跳び起きたが、よほど強くけられたのか、背中を押さえながら大きく咳きこんだ。
これを好機とみた明美が燐夜へ突っ込む。
それを見た白都は、咄嗟に2種類の氣札を明美と燐夜の間に放った。
「千景を閉ざせ
滝牙式護符術 【断界】」
言葉と共に白都が素早く手で印を練る。すると投げ込まれた札が白都の氣に呼応し、燐夜の前方に二重の結界を構成した。
結界に構うことなく腕を突き立てる明美。その爪先は外郭の結界をすり抜けたものの、内郭の結界に阻まれた。攻撃が通らないと分かるや否や、明美は腕を引き戻し、再び燐夜たちと距離を取る。
「燐夜さん。遊びすぎですよ」
「文句は霧葉に言え」
そう吐き捨てながら燐夜は跳び退き、再び白都の隣に並ぶ。
すると白都が小さな笑みを漏らした。
「でも、一つ分かったことがあります」
「分かった?」
白都の言葉に、燐夜が明美を警戒しながら聞き返した。
「今、燐夜さんを守った結界は、外郭は鬼気を、内郭は物理攻撃を止めるように構成したんですよ。そして、明美さんの腕は外郭では止められなかった。つまり、明美さんを縛っているのは、鬼気を用いていない催眠術の類だと思います」
「ん? だがよぉ、鬼が鬼気を使わずに何かしらの術を使うことなんてできるのか?」
「さぁ。それに関しては、僕からは何とも……。とりあえず、洗脳さえ解ければ明美さんは元に戻ると思いますよ」
「とりあえずって、おまえな……。ん?」
『――――』
突然、無機質な光の満ちる廊下に、何か小さな音が響いた。
その音に、燐夜が不自然に言葉を切り何かを探るように眉間に皺を寄せる。
「どうしましたか? 燐夜さん」。
「あ、い「燐夜っ。避けて」
白都の問いに曖昧に返事をする燐夜の声と、切羽詰まった霧葉の声が重なった。
「んなっ!」
霧葉の叫びに、燐夜は咄嗟に身をよじる。同時に、燐夜の胸部分の制服が引き裂かれ、真っ赤な鮮血が迸った。突然聞こえた奇妙な音に気を取られていた燐夜にも非があるが、今の明美が放った攻撃は、先ほどまでとは比べ物にならないほど早い。
燐夜が明美の腕を掴もうと手を伸ばし、隣にいた白都が氣札を飛ばす。しかし、2人の攻撃は空を切った。明美の身体は慣性の法則を無視して、2人に捕まる前に急後退。再び燐夜たちと距離を取る。
それは、例え戦闘における勘を持たずとも、ある程度の攻守を行うことのできる絶妙な間合いだった。
燐夜が目線だけを下げ、自分の胸を見下ろす。横にクッパリと裂かれた制服と肉。滲みだす血液は、ベージュ色の制服の布地を瞬く間に赤黒く染め上げる。
だが、
「へぇー。じゃあ、とりあえずやってみるか」
自分の傷を見る燐夜は笑っていた。
指で血を掬いペロッと舐めて声色落ち着ける。普段血の気が多いだけに、少しくらい血が抜けた方が冷静になれるというものだ。
『――――――』
再び燐夜の耳が、再び何かを捉えた。
同時に、明美がさらに速度を上げ、床や壁を無視し、両足のバネをフルに使って、まるでゴムボールのように縦横無尽に廊下の中を飛び回る。だが、冷静になった燐夜から見ればその動きはやはり直線的。燐夜が動く。目は完璧に飛び回る明美の姿を捉えており、伸ばした腕は今度こそ確実に明美の手首を掴んだ。
『――――――』
またもや廊下に響く異音。燐夜の勘が身体を司る理性を追い越し、自分自身に回避の命令を送る。今度は燐夜の脇腹の制服がパックリと斬れた。
跳び退く燐夜の瞳は、明美が掴まれた逆の手に握る包丁をしっかりと捉えていた。本来なら、燐夜も《断理》で応戦したいところなのだが、相手が相手なだけに刀を抜くわけにはいかない。
『――――――――』
再び耳に届く音。
そのたびに変わる明美の動き。
燐夜の脳裏に先日の明美の言葉が蘇る。
――「声、いや、音かしら。何か聞こえたような気がしたんだけど」――
燐夜の中で、点と点が繋がった
「なるほど、そういう事か」
燐夜が不敵に笑う。そして、それまで抜くことを我慢していた《断理》の柄を力強く掴むと、刀身を鞘から一気に引き抜いた。
『斬る』という一点のみを追求し、より斬り易くするために僅かに歪曲した刀身が、蛍光灯の光を受けてより冷たく光る。燐夜は刀身を前方へ傾け、その切っ先を先ほどの音が聞こえてから大きく間合いを取った明美に定めた。
「ちょっ、ちょっと。燐夜。何をする気なの?」
「五月蠅い。黙って見てろ」
困惑する霧葉を、燐夜は迷いのない言葉で黙らせる。白都はといえば燐夜が何をするのか興味深々といった様子で、一切の口を挟まず次の燐夜と明美の一手に備えていた。
廊下を後退し、十分な距離を取った明美が、操られるままに攻撃態勢を取る。四肢全てを床につけ、体勢はとにかく低く。その両手両足の筋肉が、爆発的な推進力を生み出すために、限界を超えて緊張する。
両者が動いたのは全くの同時だった。
明美の狙いはあくまで突進。潜在能力を開放し、燐夜に風穴を開けるべく、限界を超えた速度で突き進む。
「おい、白都。霧葉。耳塞げ」
対する燐夜の取った行動は、腰から《断理》の鞘を引き抜くこと。
助走を十分に付けるために明美が広い間合いを取ったことは、燐夜に氣を溜めるための多大な時間を与えるということに繋がった。
一度抜いた《断理》の切っ先を、燐夜は鯉口に当て、一気に納刀した。
「鳴き狂え 歳鳥
封鬼戦刀流 肆の太刀 【鵠鳴】」
眩い光と甲高い音が辺り一面に響き渡る。
だが、それはほんの一瞬のこと。
光の奔流はあっという間にその勢力を弱める。遠巻きに見守っていた霧葉たちが、収まりゆく光の中に見たのは、力ない明美を支える燐夜の姿だった。
急いで明美に駆け寄る霧葉が、呼吸・脈拍を測り異常がないのを確認して、肩を撫で下ろす。
その後ろ、何があったのか理解できなかった白都が、燐夜に駆け寄った。
「燐夜さん。一体、何したんですか?」
燐夜は「フゥ」と大きく息を吐き、明美の身体を霧葉に預けて答えた。
「音、っつーか声だな」
燐夜の返事に、ますます疑念を重ねる白都。
その白都の悩む姿に、燐夜はもう一度笑ってから、事の真相を語り始めた。
「おそらく、だが。今回の鬼は音波を利用して聴覚から明美さんを操っていたんだろう。白都、お前はさっき、何か変な音が聞こえなかったか?」
「そう言えば……、あれは空耳じゃなかったんですね」
「ああ。んで、それがわかれば、こっちのもんだ。【鵠鳴】は音の属性を持つ技だから、可能な限り手加減して発動すれば音をかき消すこともできる。その後は、まぁ、運次第だ」
「なるほど。――って、最後の最後は運次第だったんですか?」
「ああ、何か問題あるのか?」
驚く白都に、燐夜は悪びれるわけでもなく、あっけらかんと答える。
その隣、無理な戦闘でひどく衰弱した明美に《手当て》を施す霧葉が、呆れ顔と渋面を足して二で割ったような顔をしながら燐夜に言った。
「問題あるに決ってるでしょ。もし失敗したときはどうする気だったの?」
「そのときはその時で、また考える。それに。限界まで氣を制御していたから万に一つも明美さんが傷を負うことはなかったと思うぞ」
燐夜の返答に、霧葉が呆れ顔の割合を高くしながら返す。
「あのねぇ……、失敗したときの危険性はそれだけじゃないでしょう。【鵠鳴】は発動したあとほんの数コンマの間だけだけど術者が無防備になる技で、それは、技の規模に関係なく必然的に出来る隙でしょ。もし、失敗していたら無事では済まなかったのは燐夜、あなたの方よ」
霧葉は何時になく目を厳しく細め、言葉の語尾を厳しくした。
それは、霧葉の優しさだった。
霧葉はそれ以上何も語らず、微かに、本当に微かにだけ潤んだ双眸で燐夜に向け、無言で追求する。
ピン張られた戦闘とは別物の緊張の糸が、辺りの時間を繋ぎ留める。
その糸を切ったのは、ポカーンと口を開けた燐夜の間抜け顔と、気の抜けた答えだった。
「あ~。それは考えてなかったな」
「考えていなかった、ですって?」
燐夜の回答が不真面目に聞こえた霧葉が、端正な顔に怒りを浮かべながら声を荒げる。
だが、その怒りを受けた燐夜は「何を、怒ってんだ」と首を傾げ、再び霧葉に答えた。
「失敗する気なんてサラサラなかったし、それに」
そこで一旦言葉を切った燐夜が、妙な自信を浮かべた眼で霧葉と白都を見て、そして、
「お前たちがいたからな。俺がヘマをしても白都が何とかしてくれただろうし、怪我をしても霧葉がいただろ。何か問題があったか?」
眼に宿した自信を言葉に変え、二人に言い放った。
燐夜の言葉に、霧葉と白都は一瞬呆けた後、一転して照れ笑いを浮かべた。
「なんていうか、燐夜さんらしいですね」
「ん? どういうことだ?」
「言葉の通りよ。つ・ま・り、燐夜がバカだったってこと」
霧葉の言葉に、燐夜が渋面を作る。その顔を見て霧葉と白都がまた大きく笑った。
「おい。いい加減にしろよ」
あまりに二人が笑うので、燐夜が仕切り直しとばかりに厳しい声を出す。
「明美さんも解放されたことだし、『魂噛』の方はこれで収まるだろう。他の連中に連絡するぞ」
ぶっきらぼうに吐き捨てて、燐夜がポケットから携帯を取り出した。その子供のような姿に苦笑を洩らしながら、霧葉と白都も自分の携帯を取り出し電話を掛ける。
燐夜が掛けたのは四季・夏姫班。素早く短縮ダイヤルを押し、携帯電話を耳に当てる。
その最中、霧葉と白都には見えないように燐夜は微笑を洩らし、小さくガッツポーズをした。初めの『魂噛』が起きてから今まですべて後手に回っていたのが、ここにきてやっと鬼を出し抜くことに成功したのだ。
明美が鬼に操られていたことは予想外だったが、これで鬼の本体は手駒を一つ失ったことになる。これはかなり大きな収穫だ。
『魂噛』の被害者たち以外、この学園の一般の生徒及び関係者は、全員結界を張った寮内に誘導済み。新たに鬼の洗脳を受ける者はいないだろう。となれば、黒幕自身が出てくるしかなくなる。
もうすぐ訪れるであろう決戦を前に、燐夜が見る者が思わず息を呑みそうなほど好戦的な笑みを浮かべた。
その笑みに気付き、すでに電話をかけ終えた霧葉が燐夜を諌めるように少し厳しめな口調で言った。
「燐夜。あんまり機を焦ると足元を掬われるわよ」
その言葉に燐夜は肩をすくめ「へいへい」と軽く返した。鳴り続ける発信音。白都の方もすでに連絡がとれたらしく、今はより暗さが増す窓の外を眺めている。
電話を耳に押し付けたまま、燐夜が首を持ち上げる。天井にあるのは暗闇を退けてくれる蛍光灯。完全な人工物。その光は暖かな月光に比べればひどく無機質だが、人の心に安心感をもたらすには十分だ。再び首を下げれば、霧葉が明美の《手当て》を再開している。
耳に流れ込むコール音を聞き流しながら、燐夜がそれをぼんやりと見ていると、白都が首を傾けて自分を見ているのに気がついた。
「なんだ? 白都」
「い、いえ。ずいぶん遅いですね」
初めはその言葉の意味がわからなかった燐夜だったが、すぐに白都が何を言いたいか気が付いた。
燐夜の掛けている電話がいつまで経っても繋がらないのだ。
「確かに……な」
「燐夜さんは、四季さんに掛けているんですよね?」
「ああ。四季は封鬼委員用にもう一つ携帯を持ってるからな。そっちに掛けてるんだが」
確かに、白都の言う通り電話の通じるのが遅すぎる。普段の四季ならほんの2・3コールで出るはずなのに。
そう思った瞬間。燐夜の背筋に嫌な悪寒が走った。
そして思い出す。
なぜこれまで慎重に行動していた鬼が、こうも容易く罠にかかったのだろうか?
なぜ明美は燐夜たちに遭遇したとき、すぐに逃げなかったのだろうか?
なぜ明美はまるで時間を稼ぐように闘っていたのだろうか?
そして、鬼の本体は今どこにいて何をしているのか?
これらの状況から成立したある予測に、燐夜が血相を変えて霧葉に叫んだ。
「霧葉。四季と夏姫は今どこにいる?」
燐夜の質問に、燐夜と同じ結論に達していた霧葉が腕時計を確認して答える。
「二人は遊撃だったでしょ。でもこの時間帯は……」
腕時計の差す時刻は午後十一時二十三分。本来なら燐夜たちのもとに四季と夏輝が遊撃に来ている時刻だった。自らも時刻を確認する燐夜が「っち」と舌打ち、叫ぶ。
「白都っ。すぐに【探氣遠世】を」
「やってます」
白都を中心として氣の波動が四季と夏輝を求め、学園内を走った。意外にも近くにあった四季の氣を探知した白都が叫ぶ。
「居ました」
「どこだ?」
「僕たちの居るこの校舎の屋上です」
その言葉に燐夜が己の体を疾風に変え、脇目も振らず屋上に向けて廊下を駆け抜けた。階段を5段飛ばしで駆け上がり、暗雲に最も近くなる屋上の扉を壊れんばかりに蹴り開けた燐夜は、声の限り叫びながら屋上へと出た。
「四季ーっ! 夏姫ーっ!」
春にも関らずどんよりとした風が吹き抜ける屋上に、燐夜の声が響き渡る。だが、その叫びに返る応えはない。
燐夜の目に飛び込んできたのは、冷たいコンクリートの床に血まみれで倒れ伏す四季と、魂を抜かれぐったりとした夏姫。そして、夏姫を抱える、顔をフードで覆い隠し、陰々とした鬼気を撒き散らす男の姿だった。
この状況に説明など要らない。燐夜が激昂に口を開く。
その叫びを止めたのは、フードから微かに除く口元に嘲りの笑みを浮かべた男が、四季に向け持ち上げた腕から放つ、どす黒い負の感情が詰まった鬼弾だった。
「っ!」
喉まで飛び出た激昂を押し留め、燐夜は咄嗟に《断理》を引き抜き、気弾と四季の間に割って入る。
「こんのぉっ!」
燐夜が凄まじい気合いの一太刀で、男が放った鬼弾を切り裂いた。
術の結合を断ち切られ霧散する気弾。だが、男は腕を下げず、さらに鬼弾を乱射。燐夜の視界を、暗き鬼弾の飛礫が覆い尽くす。
「なめんなぁっ!」
だが、鬼の攻撃にも、そこに込められた殺意にも、燐夜は一歩も引かなかった。神速で《断理》を振い、銀の軌跡を残す斬撃が飛来する鬼弾をすべて切り伏せる。
そして、燐夜は前進。鬼弾の濁流の中、手に持った《断理》と鍛えた身体だけを頼りに、一歩、また一歩とその足を前へと踏み出す。
その眼が見つめるのはただ一点、男が抱える夏姫のみ。
「んのっ!」
燐夜が苛立ちを吐きだす。
その身体を鬼の鬼弾が掠った。
男との距離は確実に迫っているが、その距離が短くなるにつれ鬼弾の威力と弾数が増加する。強力な一撃で一気に勝負を決めたい燐夜だが、氣を溜める時間がない上、夏姫が盾にされてしまう可能性が高い。
「グガッ!」
再び鬼弾が身体に食いつき、燐夜が苦鳴を漏らす。
初めは全て叩き切っていた燐夜だったが、次第に増えてゆく斬撃の結界を犯す鬼弾により、いつの間にかその身体は血に塗れ、凄惨な姿になっている。
それでも燐夜は突き進む。
ただ前へ。ひたすらに前へ。
「どちくしょう!」
顔面に飛んできた鬼弾をかろうじて避けた燐夜が唸る。
一瞬でいい。
その一瞬さえあれば燐夜は男に一撃を与えることができる。
だが、底なしに飛び出る鬼弾は、その一瞬の隙さえ燐夜に与えてはくれなかった。
その時、背後から響いた一発の銃声が、その一瞬の隙を燐夜にもたらした。
「【貪狼】」
傷ついた体を酷使し、何とか立ち上がった四季が鬼に向けて引き金を引いた。
その銃口から、式神として召喚された銀狼が、鬼弾を飲み込みながら男に向かって疾走する。
「四季っ!」
「燐夜ー。乗れーっ!」
四季の叫びに、燐夜は躊躇することなく、銀狼に飛び乗った。
なおも飛来する鬼気の飛礫は、大きく開かれた銀狼の顎に吸い込まれ、燐夜と男の距離が見る見る無くなってゆく。
銀狼の楯の前に、数に任せる鬼弾では歯が立たないと悟った男は、前に突き出していた腕を大きく曲げ、水平に鋭く腕を薙ぐ。その軌道に沿って生まれた鬼気の斬撃が銀狼を引き裂いた。
身体を引き裂かれ、崩れ落ちる銀狼。
その背に、燐夜の姿はない。
男が鬼気の刃を放った瞬間に一瞬の隙を見出した燐夜は、銀狼の背を蹴り大きく跳躍。着地した場所は男の背後だ。
燐夜は振り向きざまの一撃を男の首筋に放った。
ガシャンというガラスが割れるような音。燐夜の放った一撃は男を取り囲むように張られた結界に阻まれ、フードを少し切り裂くだけに終わる。
その時、燐夜は確かに見た。
切り裂かれたフードから覗く、男の首筋に刻まれた傷跡を。
「お、おまえは……」
「燐夜っ。避けろっ」
驚きの言葉は、四季の叫びと燐夜を横手から襲った光輝く竜に掻き消された。
「ガハッ」
強力に練られた氣の光竜の牙に肩を食われ、光熱に身を焼かれ、燐夜は横手に吹き飛ばされた。かろうじて《断理》を振い、竜を切り裂いた燐夜はコンクリートに叩きつけられる前に受け身を取り、すぐに体勢を立て直す。
今、自分を襲った攻撃を燐夜は知っていた。
自身の“氣”と大気に満ちる“気”を融合し竜の形に構築、そして爆発的な破壊力を伴わせ敵に放ち殲滅する。氣道参拾壱の一つ【光竜旋】。
けれど、いったい誰が?
燐夜が額から血滴る顔を上げ、自分に攻撃を加えた人物を見て、絶句した。
「み、三神……?」
燐夜がそれ以上の言葉を失う。
暗黒の満ちる屋上の端。バッサリと切られた髪を夜風に靡かせ、焦点の定まっていない眼で自分を見つめる少女。
それは間違いなく、魂を抜かれ生徒会に救護されているはずの三神真衣だった。
だが、混沌とする精神とは裏腹に、燐夜の脳細胞は数日前の霧葉との会話を引き出した。
―『調査班によると被害にあった浅岡さんに、二重の術式が施されていたらしいのよ』―
その後の報告で、他の被害者たちも同様の術式が施されている、と霧葉は言っていた。
燐夜が、鬼の策略に気付くことのできなかった自分に対する怒りに歯を食いしばる。
術式の用途は、おそらく『魂噛』の被害者たちを支配するもの。鬼に対しての抵抗力が人一倍強い三神が操られているところから視て、他の被害者たちもすでに鬼の手中。
燐夜が痛みに震える身体を、怒りに任せて立ち上がらせる。
その姿を嘲笑うかのように、首に傷を持つ男はゆっくりと三神に近づき、まるで配下を可愛がるようにその頭を撫ぜる。
そして、その体を抱き寄せると、屋上の縁へと歩を進めた。
「ま、待て」
男の後ろ姿に手を伸ばし、燐夜が足を踏み出す。しかし、三神の放った【光竜旋】のダメージは思いのほか深く、燐夜は顔面から屋上の床に倒れこんだ。
「待ち……やがれ」
「夏姫……、三神さん」
それでも、男を止めようと燐夜は悲鳴を上げる身体を無視して這い進む。それは、体中に裂傷を受けた四季も同様だった。
その二人の声にフード男が一度だけ振り向く。苦しげに息をしながらも、なお向かってこようとする二人の若き封鬼師に向けたのは、心の底から二人を見下した、大気をも凍りつかせてしまいそうな冷たい氷の冷笑だった。
男は屋上に這いつくばる燐夜と四季を見て、嗤ったのだ。
その笑みは男の目論みどおり、燐夜と四季の心を容赦なく踏みにじった。
男の笑みが語っていた。
それは鬼たちが人間に向けるもっとも根本的な感情。
――――矮小な者よ――――
男が放ったのは最強の一撃でもなければ、高等な鬼術でもない。
だが、その一撃は間違いなく二人を完膚なきまでに打ちのめした。
怒りと羞恥と屈辱に、拳を握りしめる燐夜と四季。
その二人を見て満足したのか、男は無言のまま身体を底なしの闇が広がる前方に向け、三神を伴い屋上から飛び降りた。
燐夜と四季の自らに対する怒りの慟哭は、霧葉たちが駆け付けるまで屋上に木霊した。
準備は整った。
生と死の狭間。魂の抜かれた躰と、邪気を蓄えた代替物より流れ出す気は、九浄のうち八浄を穢し、この地の龍脈は黒く染まる。
混沌が世界を包み、世界の秩序の鎖は綻び、世界と世界が繋がり始める。
あと一つ、この地を穢れが侵したとき、地獄の蓋が開かれる。
だがこの地を穢すには並みの器では足りない。
だからこそ生かしておいた。
もうすぐ現われる、綻びが生み出した小さな穴。
時は満ちた。手駒は揃えた。あとは丑の刻を待つのみ。
だが、やはり計画に誤算はつきものだ。
「まさか、こんなことになるとは思ってもいませんでしたね」
その腕に氣の焔を纏い、首に聖痕を刻む男。
我の魂が、四十年来の復讐に燃え上がった。




