第五章
それは燐夜が駆け付ける数十分前のこと。【鬼門】を閉じた直後にかかってきた霧葉からの電話だった。
『燐夜、大変よっ。三神さんの氣が消えたわ』
尋常でない霧葉の焦り声。燐夜が詳しく説明を求めたところによると、先の電話で燐夜が初等部に向かった直後から、学園内で三神の氣が確認できなくなったらしい。その連絡を聞いた燐夜は藍夏たちに事の次第を説明し、すぐさま三神と別れた場所へと駈け出した。
「くそったれっ!」
燐夜は走りながら自分自身の軽率さを叱咤した。今回の鬼はおそらく自身は動かずに使い魔か洗脳した下僕を用いて魂を狩るタイプの鬼。また、使い魔が必ずしも生物であるとは限らない。三神と別れたあのとき。確かに周りには生物の反応はなかった。だが、もしも鬼の使い魔が命や気配のない傀儡だとすれば……
「どこだー、三神ーっ?」
燐夜が三神と別れた通路への角を曲がる。そこに三神と明美の姿はない。自分への怒りに、燐夜はコンクリートの校舎を殴りつける。氣を纏っていない拳が跳ね返った衝撃と激痛に痛んだ。燐夜は再び走り出す。手がかりはない。ただただ、がむしゃらに走るだけ。焦る気持ちを噛み千切り、全速力で駆け巡る。先ほど鬼は生徒から迎撃を受けている。人眼に着く所は考えにくい。燐夜の眼に十字架を屋根に取り付けた礼拝堂が映る。今の時間は無人のはずの礼拝堂の中から人の気配が二つ。
燐夜は迷うことなくその扉を開けた。
「三神……」
燐夜は駆け付けた礼拝堂の扉の中を見て愕然とした。
コンクリートを殴りつけた拳の痛みも、【鬼門】を閉じる際に受けた左腕の呪印の苦しみも、今の燐夜には関係なかった。
「三神っ!」
今度は強く三神の名を呼んだ。
いつもならば少し顔を赤らめながらはにかむように三神だったが、今は全く反応を返さない。荒々しく響く燐夜の声だけが礼拝堂に木霊した。
「早かったな」
燐夜と異なる、異様なほどに落ち着いた声が礼拝堂に響く。
燐夜はそこで初めて、三神の隣に立つ八雲の存在を認めた。
2人の視線が絡み合う。
「なぜ……てめぇがここにいる?」
燐夜が静かに問う。
「……」
しかし、八雲は答えない。
「なぜ……三神の魂が抜かれてる?」
燐夜が怒気交じりに問う。
「…………」
しかし、八雲は答えない。
「なぜっ、被害者が出るたびにその現場にお前の気配が残ってる」
燐夜が殺気交じりに問う。
「………………」
それでも、八雲は答えない。
沈黙に徹する八雲に、鬼気の呪印が左手に残る燐夜がキレた。
「てめぇが、てめぇがやったのかーっ」
八雲、なおも沈黙。その態度に、右利きだった燐夜の左手が《断理》を引き抜いた。
身体に残る呪印が燐夜の心に生まれた闇に共鳴し、凄まじい速さで燐夜を黒い氣が蝕む。
「殺してやる」
燐夜が血走った眼で八雲を睨む。
燐夜の身体から漏れ出す、明確な殺意。
「くたばれっ!」
燐夜の姿が霞み、そのあまりの速度に大気が押し潰され、風圧で机と椅子が粉々に砕け散った。燐夜と八雲。祭壇から扉まではかなり距離があったが、燐夜の神速の突進はその距離をたちまち零にする。そして、その神速すらも超越した燐夜の暗い左腕が繰り出した斬撃は、八雲の首へと確実にその凶刃を走らせた。
燐夜は容赦なく《断理》を振り抜いた。
手ごたえは……ない?
「なっ!」
狂気に身を焦がす燐夜が、目を丸くする。
間違いなく目の前にいたはずの八雲の身体は、本当に一瞬のうちに消えていた。
「愚か者」
背後からの冷たい声。
燐夜が背後に映った気配へ刃を走らせる――、だが。
「がっ……」
《断理》の刃よりも早く、八雲は燐夜の首筋に容赦ない手刀を叩き込んだ。その的確な一撃は綺麗に燐夜の意識を遮断。力なく倒れ込む燐夜の服を、首に一筋の朱い線を残した八雲が掴む。
そして、燐夜の身体を床に寝かせると、呪印に侵された左腕を掴み上げた。
「呪印に心を食われるとは。精神面はまだガキということか。……だが」
八雲が自身の首筋を指先でそっと触る。
ヌルッとした血の触感。
八雲はそれを確かめると、顔を我が子の成長を楽しむ父親のように綻ばせた。
「この身体の私に傷を負わせるとは、さすがは燐夜君ですね」
驚くほど優しい声で呟いた八雲は、燐夜の腕を蝕む呪印の治療を始めたのだった。
「つ……、いつぅ……」
「あ、燐夜。目が覚めた?」
燐夜が薄眼を開けると、そこには自分を見下ろしている四季の顔があった。
「ああ、う……ぅ」
不透明な思考。後の首筋に走る鈍い痛み。
燐夜は首の後ろを擦りながら上体を起こした。ぐるりと辺りを見渡してここが封鬼委員室であることを確認。部屋の中には封鬼委員のメンバー以外に、藍夏、桃乃、一色がいた。
そこで初め、燐夜の中で記憶が繋がり、鬼気迫る勢いで四季の腕を掴んだ。
「三神はっ?」
燐夜が、荒々しく四季を問いただす。対する四季は唇を噛みながらも、自分に向けられた燐夜の双眸を真正面から受け止め、答えた。
「三神さんは今、第一霊護室で他の被害者と一緒に生徒会の医療チームが看てもらってるよ」
四季の言葉が意味するところを、燐夜は歯を食いしばり受け止める。そして、燐夜の腕から手を放し、藍夏が座る対面、今まで自分が眠っていたソファーに腰を落とし、指を組んだ手に自身の額を押し付けた。
燐夜は目を固く瞑り、歯を喰いしばる。
“守れなかった”
その思いが燐夜に重くのしかかる。燐夜は誰にともなく、イヤ、自分自身に呟いた。
「オレは、弱いのか……」
その呟きに、込められた悔恨の深さに、ここに居合わせた者だけでなく、部屋の中に満ちる大気までもが重く沈む。あまりにも痛々しい背中。あまりにも重々しい悲観。幾千の鬼を屠り、幾百の戦場を生き抜いた燐夜だからこその言葉の重み。
だが、彼を受け入れ共に歩む者たちは、その言葉を真っ向から否定した。
開口の言葉は夏姫からだった。
「馬鹿言わないで。燐夜。あんたは十分に強いでしょ」
「夏姫」
顔を上げ後ろを振り向く燐夜。封鬼委員のメンバー全員が夏姫の言葉に鷹揚と頷いた。
「だけど、三神は」
それでも暗い表情を浮かべる燐夜に、今度は四季が口を開く。
「三神さんの件は燐夜の責任じゃないよ。あの場合、燐夜が駆けつけてなかったら初等部は壊滅していたし。それに、封鬼委員に入った以上、三神さんにも覚悟はある。三神さんのことを悔やむっていうことは彼女の覚悟を侮辱することになるよ」
「四季」
燐夜が四季を見る。眼鏡の奥の双眸は責めることも、同情することもなく、ありのままに燐夜を見つめていた。
微かに笑みを取り戻す燐夜の頭を、今度は近づいてきた絶磨がその鉄拳でボカっと殴り、燐夜が文句を言おうとすると、一緒に近づいてきた楓がペチンと頬を打った。
「いってーっ。なにを?」
「はっはっはー!」
鋭く睨みつける燐夜の視線を受けた絶磨が大きく笑う。
「そうだ。その眼だ。それがお前だ。辛気臭い顔で何ムカつくこと言ってくれてんだ。てめぇが弱えぇだと、ふざけんな。じゃあなんだ、お前の下に就く俺はミジンコか?」
絶磨はその太い腕で燐夜の胸をドンと小突き、さらに口の端を吊り上げて続けた。
「燐夜、お前は強い。この俺様がそれだけは保証してやる。まあ、美しさで言えば俺の方が十億光年上だがな」
さらに豪快に笑う絶磨を燐夜はフンと笑い「勝手に言ってろ」と呟いた。
続いていつもなら自分の時間を生き、あまり他人に干渉しない楓が、その半開きの双眸を燐夜に向けて口を開いた。
「燐夜……弱くない!」
楓はたった一言だけ言うと振り返って行ってしまった。
だが、楓の言葉には嘘もお世辞もないことをよく知っている燐夜にとって、その一言は十分すぎた。
豪傑二人の後に、封鬼委員の頭脳、白都と霧葉の2人が続く。
「紅月先輩が弱いなんて、天地が引っくり返ってもあり得ませんよ。自信持ってください。あなたは封鬼委員の委員長なんですから」
「燐夜。三神さんのことを悔やむなら、私のことを恨みなさい。今回のことは私の判断ミスでもあるのだから」
利発ながらも幼さが残る笑みで、爽やかに笑う白都に対し、霧葉は凛とした顔に微かな苦渋を滲ませながら言った。その肩を隣にいた四季が軽く叩く。その肩が微かに震え出し、「ううう……」と嗚咽を漏らして、眼鏡の奥の鋭い人眼を潤ませて泣き始めた。
「ちょ、ちょっとまて。霧葉」
常に気丈に振る舞う霧葉の涙に、燐夜が目を丸くして慌てだす。
「いや。お前のせいなんかじゃないぞ。お、おい。泣くな」
「ほら。燐夜がだらしないから。霧葉ちゃんが泣いちゃったじゃない」
霧葉の背を擦る四季が、冷たい視線で燐夜を見る。
しかし、その視線の端では舌を出して笑う霧葉の顔をしっかりと収めていた。
「悪かった。俺が悪かった」
突き刺さるメンバーの視線。すっかり調子を狂わされた燐夜は、燐夜の背後で「作戦成功」と、利発的な顔に少女のような笑みを浮かべた霧葉に気付かず、頭を掻きながらもう一度「悪かった」と叫び、逃げるようにメンバーに背を向けてソファーに座りこんだ。
そんなバツが悪そうに再びソファーに座り込んだ燐夜を待ち構えていたのは、視界いっぱいに広がる桃乃の胸だった。燐夜の顔が桃乃の胸と腕にガッチリとロックされる。しかし、それはいつものような力任せの抱擁でなく、優しく包み込む温かさに満ちていた。
「りんちゃんは強いよ。あたしが保証してあげる」
「ああ、――――ありがとう」
その二人を見守る一色が「っち、馬鹿もの」と呟いた。
「燐夜っ!」
「な、何だよ」
燐夜と桃乃に近付いた一色は強引に2人を引き離す。
「わぁっ。ちょっといっちゃん、何すんの」
猛抗議する桃乃を無視して、一色は燐夜の胸倉を掴み、鼻が付きそうなくらいまで顔を近づけて言った。
「燐夜。お前は馬鹿で、傲慢で、痴れ者で、無法者で、どーしようもない男だが」
「メチャクチャ言うな」
「だが、お前の剣の腕と、この学園を想う気持ちは本物だろう」
「一色。――やさしいこと言ってくれるじゃねぇか」
「っっっな、ななななな」
燐夜の言葉に一色の顔が面白いように真っ赤になった。
「この、バカモノが~~~~」
「痛って」
そう言って掴んでいた燐夜を力の限りソファーに叩きた一色は、荒々しい足音を響かせながら敬愛する藍夏の後に回り込んだ。
「本当に、いい仲間をお持ちですね。燐夜さん」
燐夜たちのじゃれ合いを微笑ましげに見つめていた藍夏が、改めて燐夜と向かい合った。
「彼らの言うとおり、あなたは決して弱くありません。三神さんは我々が責任を持って御守ります。我々は、彼女の魂を救うことに尽力を尽くすべきではないでしょうか?」
「確かに……その通りだな」
藍夏のまっすぐな瞳を真っ向から受け止めた燐夜は力強く頷いた。その瞳には再び烈火の如き強い意志が宿り、体に滾る覇気は鬼に対する怒りに轟々と燃え盛る。
「よし。じゃあまずは、現状整理から始めるぞ」
頼もしい燐夜の声に、藍夏は全幅の信頼を寄せて柔らかく微笑みながら「はい」と頷いた。その頬笑みにさらに冷静さを取り戻した燐夜が突然「あっ!」と叫ぶ。
燐夜の叫び声に、部屋の中にいた全員が何事かと目を丸くして燐夜を見た。
「八雲。あいつはどこ行った?」
燐夜の突然の質問に、対面にいた藍夏は首をかしげながら答える。
「秋間先生なら、礼拝堂で燐夜さんと三神さんを任せられたあと、調べたいことがあると言って第五中等校舎に向かわれました。そう言えば。先生から燐夜さんに言伝が……」
「言伝?」
燐夜がグイッと顔を藍夏に寄せる。
「なっ!」
「コラッ。燐夜!」
その行動に激しく反応した一色と夏姫が素早く燐夜と藍夏の間に割って入った。そして、
ボッカ ドコッ
「つあぁああぁぁぁぁぁー」
燐夜の腹と顔を力の限りぶん殴って、強引にソファーに座らせた。
その様子に微笑を洩らす藍夏が「大丈夫ですか?」燐夜に尋ねる。
「ああ、大丈夫だ。それより、言伝って何だ?」
「はい。『呪印は消した。だが、自身の狂気すら支配できぬ者が粋がるな』だそうです」
「なになに。あの嫌味教師がどうかしたの?」
藍夏のあとに、八雲のことを心底毛嫌いする夏姫が続く。
「いや。……なんでもない、忘れてくれ」
――あの速さ。何者なんだ?――
礼拝堂での一戦を思い出し燐夜の中に八雲への疑問が生まれる。しかし、呪印の消えた左腕を見て、燐夜は軽く頭を振り疑念を払拭した。心の中に微かな苛立ちが残るが、八雲が自分を助けたことは間違いないらしい。燐夜は大きく息を吐き、自分自身の中である程度の現状を整理しようとした、その時。すっかり忘れていた重要なことを思い出した。
「あぁぁぁぁー!」
「「五月蠅い」」
もう一度大声を上げた燐夜を、再び夏輝と一色が殴りつける。しかし、今度の燐夜はその打撃を気にも留めずに、焦りを孕んだ声で続けた。
「明美さん? なあ、藍夏。明美さんはどうなった」
「明美……喜原さんのことですか? 喜原さんがどうかなされたんですか?」
「ああ。あのとき、俺が三神と別れたのは明美さんが倒れていたからだ」
三神の件で失念していた明美のことを、燐夜はようやく思い出した。今度は落ち込まなかったものの自分の脳の未熟さに、荒々しく舌を打つ。
「藍夏。教会に明美さんの姿は?」
「いえ、ございませんでした。すぐに他の者に探させます。一色。桃乃」
「はっ」
「はい」
藍夏の命を受けた一色と桃乃は携帯を取り出し、次々と生徒会の仲間へ連絡をし始めた。
「由恵、私だ。緊急連絡なんだが……」
「あ、ケイちゃん。緊急連絡なんだけど……」
入れ替わり入れ替わり電話をかけること十数分。
「……そうか、了解した。では引き続き捜索を頼む」
「……うん、わかった。ありがとう、そっちも頑張ってね」
会員に電話をかけ終えた二人の暗い顔が、口に出すまでもなくその結果を物語っていた。
「見つからなかったようですね」
藍夏の質問に、一色が俯きながら携帯電話を悔しそうに握りしめ「はい」と短く答えた。ある程度予測していた結果を受け、藍夏は何かを思案するように一度浅く眼を閉じてから燐夜に向き直り。背後に立つ2人に声をかける。
「今までの犯行から推測しますと、喜原さんの御身はこの学園のどこかにあると思われます。すぐに全員に伝達を。何としてでも探し出すのです」
藍夏の言葉に一色と桃乃が頷き、再び携帯電話を操作し始める。
燐夜は、頼もしいなぁ、と心の中で思いながら、「さてと」と藍夏に切り出した。
「明美さんは任せるとして。俺たちは現状を整理するぞ」
「そうですね」
燐夜の言葉に、藍夏だけでなく封鬼委員一同も頷いた。
「ではまず、被害者の確認からまいりましょう。被害者の数はハッキリしているもので一般生徒4人と、封鬼委員三神さん。おそらく喜原さんもでしょうが、現時点では保留といたします」
「そうだな。可能性としては低いが、あの場には三神もいた。三神なら何らかの方法で明美さんを逃がしているかもしれない」
「はい。それと一般生徒についてですが、三番目に被害に遭われた双子のご姉妹以外に、これといった関連性は見受けられませんでした」
「まあ、そんなとこだろうな」
燐夜はそう言うと、難しい顔をして腕を組み「うーん」と唸り出した。
「どうかなさいましたか?」
「あ、ああ。今度の鬼の目的は何なんだろう、と思ってな」
「目的……。確かに、我々の常識が通じない相手とはいえ、今回の鬼には腑に落ちない点がいくつかありますね」
藍夏は頭の中で今回の事件を思い出す。わざわざ鬼には不利な聖気の満ち封鬼師のいる学園内での犯行。大勢ではなく少しずつ出る被害者。突然出現した【鬼門】。
「今回の事件。何か裏がありそうですね」
藍夏の言葉に、燐夜が浅く頷いた。同様に頷く他のメンバー。そして、全員がもう一度事件のあらましを考察し始めた、まさにその瞬間。
一人ノートパソコンに向かい合っていた霧葉が「これだわ」叫んでと立ち上がった。
「どうした、霧葉。何か分かったのか」
「ええ、コレを見てくれる」
全員の視線が霧葉に集中した。霧葉は眼鏡を少し持ち上げ、パソコンの液晶をメンバーに向けて口を開く。画面には《山明学園・鬼1958‐6・9》と書かれた見出しと共に、鬼が起こした事件についての詳細が書かれた記事が映し出されていた。
「何だ、これは?」
燐夜が霧葉に質問する。他の面々も無言のまま霧葉の説明を待った。
「見て分かるように。これは過去にある学園で起こった事件の資料よ。残念ながらネットワークが遮断されているせいでこの学園に配布された資料しか見つからなかったけど。この事件、今のこの学園の状況と非常に酷似しているわ」
「……確かに」
霧葉が画面をスクロールさせながら、簡単に事件のあらましを伝えた。事件が起きたのは今から50年前。外界から隔離した上で学園内に『魂噛』が発生。その被害者は封鬼師にも及ぶ。しかし、首謀者の鬼は当時の封鬼委員の手により封印とある。
確かにその内容は驚くほどにこの学園と似通っていた。だが、その事実以上に記事に載せられていた 最後の一節はメンバーを驚かせた。
「なるほど。そういうことか」
「ええ。たぶん今回の鬼が行きつく先もたぶんこれよ」
その一節の文に燐夜や霧葉だけでなく、この場に居合わせた全員が戦慄した。最後の文に記されていたのは、その時の鬼の目的。すなわち、
――学園を炉、生徒を贄とし、かつてない巨大な【鬼門】を開くこと――
「【鬼門】……かぁ。さっき初等部にできたヤツのこと、じゃあねえよな」
「でしょうね。先に出来た門は本命を作り出す過程に出来たオマケでしょう。時に燐夜。あなた、この学園が何故『九浄学園』と呼ばれるかもちろん知っているわよね?」
霧葉の質問に、燐夜は爽やかなくらいきっぱりと「知らん」と答えた。
「そんなこと、今は関係なぇだろう」
「いいえ、関係あるわ。いい、燐夜。私たちの学園の九浄とは、その昔、九神と呼ばれた九人の封鬼師のことを指すのよ」
「だから、それがどうかしたのか」
「待って、あせらないで」
落ち込んでいるときとは一転して強気な燐夜を、霧葉が宥める。
「ここからが重要よ。この学園はもともと土地柄的に霊力が強いけれど、この地に満ちる鬼玉を浄化するための清浄な氣は、学園内各所に祀られた九神によるものよ。でも、校内で『魂噛』が起こってからというもの、学園内の清浄な氣は減少の一途を辿っているわ」
「どうしてだ」
霧葉の説明に燐夜が眉間に皺を寄せ、重々しく訊いた。
「理由は単純明快よ。九神の氣が乱され、穢されたから。――今度はこれを見てくれる?」
霧葉が再びパソコンを操作して、スクリーンに二枚の写真を映し出した。
燐夜たち一同は画面に映し出された二枚の写真を無言のまま見比べる。どちらも九浄学園の写真だったが、片方は五つの黒い点が記された現代の、もう片方は学園建設当時の写真に九つの赤い点が記されているものだった。
霧葉はマウスを操作し、赤い点を指しながら言った。
「学園当時の写真にあるこの赤い点は、九神の骸が収められている地点を指すわ。そして、現代の写真の黒い点は今回の事件で『魂噛』の被害者が発見された場所よ。見てて」
霧葉が現代の写真を学園当時の写真に重ねた。
「おい、こりゃ?」
燐夜が目を丸くする。重ねられた二つの写真に記されて点のうち、五つが完全に合致した。
霧葉の言いたいことを察し、それを確認するように四季が口を開らく。
「なるほど。『魂噛』はただ力を得るためではなく、《聖霊点》の氣を乱すための儀式だったってわけだね」
「そう。魂は肉体が生み出す氣や気の制御装置だから、『魂噛』で残された肉体はそれだけで周囲に影響を及ぼすわ。それが氣の強い九浄学園の生徒なら文句なしでしょう。そして、《聖霊点》の気が乱れれば、学園に満ちる清浄な氣は弱まる。そうなれば龍脈により強い気場である学園は、鬼にとっても絶好の土地。【鬼門】を作る上でもこの上ないわ」
「ああ。だが、これで今後の俺たちが取るべき策の見通しも立ったわけだ」
燐夜の顔に久しぶりの笑みが灯る。今までは鬼の目的も分からず後手に回っていたが、鬼の目的がはっきりした以上、打つ手はある。
「敵さんが《聖霊点》に狙いを絞っているんだったら、俺たちはソコを守ればいい。霧葉はこのままここで、鬼に関する情報を探ってくれ」
「了解よ」
「藍夏たちは先生に連絡して、今日の授業を強制中断。許可は今から俺が校長に取ってくる。その上で、生徒を寮に誘導し鬼と生徒たちの両方が寮を出入りできないように結界を張っておいてくれ。とにかくこれ以上の被害者を出すな」
「ええ、分かっています」
「他の奴らは単独行動を避け、残りの《聖霊点》で待機。――さぁ、行くぞっ!」
燐夜の号令に頷き、全員がそれぞれの持ち場へと動き出す。
燐夜もそれに続き部屋から出ようとしたが、寸前で霧葉に呼び止められ、振り返った。
「何だ? 霧葉」
「今回の鬼についてなんだけれど。もしかしたら、校長先生なら鬼の正体について何か知っているかもしれないわ」
「どういうことだ?」
霧葉の言葉に、燐夜は低い声で訊き返す。
「山明学園は校長先生がご卒業された学校よ。それに先生の卒業は確か……」
霧葉の言いたいことを悟った燐夜は、その言葉を最後まで聞かずに校長室へ駈け出した。
「はぁはぁ、はぁ……。校長、いるかっ?」
校長室の扉を荒々しく開ける。途中で鬼……ではなく、広報部の生徒たちから襲撃を受けた燐夜は肩で息をしながら校長室へ飛び込み、後ろに追いかけてくる報道部の生徒を押し出しながら扉を閉めた。
「お疲れでしたね。燐夜君」
「何のんびりと構えてるんだ、校長」
燐夜が疲れた面を上げる。堂穀はいつものように机に座り柔和な顔に笑みを浮かべながら自分を見ていた。その態度に、燐夜は拳を強く握り校長に歩み寄る。そして、校長の座る机を平手でバシンと叩いた。その衝撃に机の上の湯呑みが倒れ鶯色の液体が流れ出す。
「校長、五人だ」
燐夜が己の奥底に沈めた感情を呼び覚まし、低い声で言った。
「校長が俺たちのことを信頼してくれているのは分かる。だが、そうやって悠長に構えてる場合でもないだろ」
怒鳴る燐夜に対し、堂穀は柔らかな表情を崩すことなく応じた。
「それはできない」
「何でだ?」
「『老兵は去るのみ』と言うでしょう。それに……」
「それに?」
「“君たちを信じている”その言葉を覆す気はないよ。君たちなら、できる」
堂穀はまっすぐな瞳で燐夜を見ながら言い切った。
「なんだそりゃ」
堂穀の眼から燐夜は僅かながら赤らめた顔をそむけ、ぶっきらぼうに呟いた。
「……わかった。鬼の件は俺たちで片を付ける。その代わり教えてくれ。50年前、校長の母校、山明学園で起こった事件のことを」
「何っ!」
燐夜が山明学園の名を出した瞬間、堂穀の眼の色が変わった。温厚だった眼が憤怒に塗りつぶされ、体からわき上がる憎気は、燐夜を後ずらせるほど燃えたぎっている。
しかし、そこは第一線から身を引いたとはいえ近代最高と讃えられた封鬼師。一瞬にして体を覆う激情を押し殺した堂穀は、机の上で指を組み再び穏やかな笑顔で面を覆った。
「どうして、そのことが知りたいんですか?」
その口調は丁寧だ。だが、燐夜はそれがいつも通りの堂穀とは思えなかった。堂穀の異変を感じながら、燐夜は答え、さらに問う。
「霧葉が調べた。50年前、山明学園でも、今の九浄学園と同じような事件が起こっていたんだろ。――なあ、第7代、山明学園封鬼委員会長だった黄浜堂穀なら、今回の鬼について何か知ってんじゃないのか?」
燐夜の問いにまず堂穀が取った行動は沈黙。そして、何かを思い出すように浅く眼を閉じたかと思うと、再び表に現れた憎しみを咀嚼するように、ゆっくりと語り出した。
「あれは、確かに君が言うとおり、今からちょうど50年前のことだったよ。自慢になるが、当時私は全国屈指の封鬼師だった。鬼なんて恐るるに足らない存在だと思っていた」
自嘲の笑みを浮かべ、堂穀はさらに言葉を噤む。
「そんな時だったよ。私たちの学園で『魂噛』の事件が起こったのは。鬼に散々振り回された私たちだったが最後にはその鬼を封じることに成功した。一人の犠牲と引き換えに」
「犠牲?」
「そう、犠牲だ」
堂穀が再び浅く眼を閉じる、自分の奥底にある闇の記憶。抑えられない感情に堂穀の組む手が震えた。蘇る怨嗟、自身に向けられた怒気に身を焼かれながら堂穀は言葉を紡いだ。
「当時の『魂噛』の犯人。鬼は、私の親友である封鬼委員の副会長だった」
「ど、……どういうことだ?」
堂穀の言葉に燐夜が衝撃を受ける。燐夜の脳裏を走ったのは己が親友、四季の顔だった。何をばかなこと考えてると、燐夜が大きく頭を振る。先ほどの威勢とは裏腹に、戸惑う燐夜。対する堂穀は多少落ち着いてきたのか、若干穏やかな口調で答える。
「その時の鬼は人の心の隙に付け込んで体を乗っ取るタイプの鬼でね。しかも、乗っ取られている本人にはほとんどその自覚はなく、その身体からも鬼の鬼気はしない。その上、本体以外の人間も操る術を持っている策士。こちらが気づいた時には鬼の魂と共の魂は完全に融合し、もう手遅れだった。そう、私は……、この手で友を屠ったんだ」
悔恨の念と共に、堂穀は額を組んだ手に押し付けた。涙はない。その身体から湧き出すのは大気を焦がす純粋な怒気。燐夜に言葉はない。空間を制す重い沈黙。
静寂を切り裂いたのは、再び面を上げた堂穀だった。
「燐夜君。今回学園を襲っている鬼は私が昔封印した鬼に間違いない。昨日君が報告のために夏姫君とここを訪れた時封鬼委員の新しい顧問の話をしたことを覚えているかい?」
「ああ……、まさか!」
燐夜は、昨日の堂穀との会話を思い出し、まさか眼を丸くした。
「あのとき言ってた、校長の母校で起きた問題って」
「そう。母校で安置されていた鬼玉の封印が解けてしまったんだ。おそらく今回の犯行の動機は私への復讐だろう」
「そこまでわかってても、手を貸してくれねぇのか?」
堂穀は大きく息を吐き、再び額を組んだ手に押し付ける。すでに第一線を退き小さくなった肩が小刻みに震えていた。
「失格者だからね。私は……」
俯きながら震える声で堂穀は呟く。その姿は小刻みに震える肩以上に小さく見えた。だが、そんな堂穀を見て燐夜が掛けた言葉は、慰めではなかった。
「そんなことわけねぇだろう」
大気を震わせる怒鳴り声。堂穀が顔を上げると、まっすぐな瞳で自分を見据える燐夜の力強い双眸が輝いていた。その瞳に同情はない、軽蔑はない、嘲りはない。惨めな姿を見ようとも、変わらぬ尊敬の眼差しがそこにはあった。燐夜は見る者の闘争本能をくすぶる好戦的な意味を浮かべる。そして自分の思いをはっきりと言いきった。
「校長。あんたが失格者だなんて、俺が誰にも言わせねえ。たとえそれが、校長、あんた自身であってもだ」
鬼を封じる理由が一つ増えた。燐夜は「今日の授業は全部中止にするからな」と言い残し振り返る。そして、その猛々しい闘気に満ちた背中越しに堂穀に言った。
「行ってくる」
その言葉に迷いはない。だからこそ堂穀は立ち上がり、遠ざかる背に向かって忠告する。
「今回の鬼の特徴は、他人の弱み心の隙に付け込むところだ。気を付けろ。仲間だと思っているものさえも実は……」
「校長」
堂穀の言葉を、首だけ振り返った燐夜の声が遮った。
「その鬼って、強かったか?」
「……ああ、強い。おそらく。燐夜君、君よりも」
その堂穀の答えに燐夜はなぜか違和感を覚えたが、そんな違和感もその言葉の内容に完璧に吹っ飛ばされた。今度は燐夜の肩が震える。
「へー。『俺よりも強い』、か……」
燐夜を中心に氣の渦が発生する。それは強者との出会いに対する単純な喜びと、果てしないほどの自信だった。燐夜は笑う。そして宣言する。
「だったら問題ねぇだろ。他の封鬼委員は全員、俺よりも強いんだからな。心も、体も。――負けやしねぇよ。絶対に」
その言葉を最後に、燐夜は振り向くことなく校長室から出て行った。
「その自信こそが隙になるんだよ。燐夜君」
後に残された校長は、静かに扉の向こうに消えた燐夜へ呟いた。
「ん?」
校長室から出た燐夜は、自分の予想と異なる廊下の様子に眉を顰めた。
「あいつら、どこいったんだ?」
燐夜と堂穀が話していた時間は長く見積もっても20分。そのくらいの時間なら、燐夜を追っていた報道部の生徒たちはまだ残っているだろうと、燐夜は嘆息交じりに予想していたのだが、扉の向こうには報道部の生徒どころか一般の生徒すら一人としていなかった。
「まぁ、楽でいいんだけどな」
燐夜は小首を傾げながらも歩み出す。待っていないのならそれに越したことはない、とプラス思考に考え、一応霧葉に連絡を入れようと携帯電話を取り出した。燐夜が携帯電話を開き、短縮ダイヤルに指をかける。しかし、燐夜はボタンを押さなかった。
自分の前に現れた気配に燐夜が驚き、燐夜が顔を勢い良く上げる。その双眸が捉えたのは、鷹のように鋭い眼差しを自分に向ける八雲の双眸だ。重なり合う漆黒の双眸。八雲が学園に現れてから三度目の睨み合い。今回先手を打って口を開いたのは、燐夜の方だった。
「さっきは――悪かった」
まずは謝辞。八雲の反応はなし。燐夜が左腕の袖を捲り浄化された左腕を見せる。
「そんで、左腕の呪印治してくれたんだろ。ありがとう」
続く感謝。軽い会釈。八雲の反応はなし。
袖を戻した燐夜は、「フゥ」とため息をつく。そして、再び八雲と睨み合う。
燐夜は直感していた。八雲は“何か”を隠している。だから今はまだ、八雲の態度が気に入らないことを差し引いても信頼しない。だが、受けた恩に礼はする。それが燐夜の流儀だからだ。その礼の言葉をどう受け取ったか、八雲は口を開かず、頑として燐夜を見据える。そして、続く沈黙に耐えかねた燐夜が口を開こうとした、まさにその時。
燐夜の手に握られていた携帯電話が、サイド画面を発光させながら鳴り出した。
燐夜は一瞬、霧葉かと思ったが、携帯から流れてくる着信音は霧葉からのものではない。
案の定、軽快な音楽の流れる携帯のサイド画面には『猫町桃乃』と映し出されていた。
桃乃は勤務中でも暇さえあれば無駄に電話を掛けてくる性格なので、正直このまま無視しようかとその名を見た燐夜が悩むが、事件のことも考え通話ボタンに手を掛けた。
「りんちゃん。たいへん、たいへんだよ」
耳に聞こえてきたのは本当に切羽詰まった桃乃の声と、騒然と響く生徒たちの声だった。
「どうしたんだ、桃乃? 何があった? おい、落ち着いて話せ」
何かしらの異変を察しした燐夜が電話の向こうの桃乃に問う。
返ってきた返事は、燐夜の眉間に深い皺を作り出した。
「高等部のみんなが暴れ出したんだよ。『鬼がこの中にいる』って叫んで」
「なに? どういうことだ?」
「説明は後でするから、すぐに高等部第一体育館にきて。急いでだよ」
「な、おい。桃乃……。っち、切りやがった」
燐夜が携帯電話を睨む。電話を掛け直そうかと思ったが、それよりも現場に駆け付けた方が早いと判断し、最後にもう一度だけ八雲と向き合う。
「じゃあ、俺はこれで」
「ふん。せいぜいがんばるんだな。また心に隙を見せれば、今度は助けんぞ」
八雲から返ってくるのは、相変わらずの冷たい言葉。だが、燐夜は感じた。その冷えた言葉のうちにある、太陽のような温かさを。
――んなわけ、ねぇか――
燐夜が肩を落とし生まれた感情を払拭し、するりと八雲の脇を抜け駆けだした。
初等部の校長室から高等部校舎へ燐夜が駆ける。高等部へと繋がる渡り廊下。黒雲により太陽を遮られ、昼間にもかかわらず薄暗い高等部。生徒たちの社交場となる階段の踊り場。無人の教室。まるで世界が死に絶えたかのように、普段は活気に満ちる校内には、不気味なほどの静寂が漂っていた。
燐夜がさらに速度を上げる。嫌な予感がした。
ようやくたどり着いた体育館から感じるのは、九浄学園には似合わない重々しく陰湿な邪気。
燐夜は顔を顰めながら体育館の扉を開けた。目に飛び込んできたのは、同級生を罵倒し胸ぐらを掴みあう生徒たちと、彼らをなだめようと奮闘する生徒会の姿だった。
女子の間を飛び交う暴言。胸倉を掴み合う男子。生徒会のおかげでいまだ乱闘は起きていないようだが、このままでは血の雨が降ることは明白だ。
燐夜は生徒会の腕章を付ける生徒の中から大急ぎで桃乃を探しはじめた。
桃乃はすぐに見つかった。桃乃は体育館に設けられたステージの上で一色と一緒に、なんとか生徒たちを落ち着かせようとマイクで呼びかけている最中だった。
燐夜はステージへ駆け上がると、耳を貸さない生徒たちに、なおも必死に呼びかける桃乃の肩を掴んだ。
「桃乃。いったいどうしたんだ?」
「ぐすん、ぐす。りんちゃん……」
「おい、大丈夫か? おいっ!」
涙声で燐夜の顔を見る桃乃。彼女はいったいどれだけ叫んでいたんだろうか? 元気に満ちていたその声は掠れ、マイクを握る手にも力はない。
燐夜は崩れかかる桃乃の身体を支え、隣で叫び続けている一色に声を掛けた。
「一色、どういうことだ」
「ん? 貴様か……」
一色はそこで初めて燐夜が現れたことに気づき、しかも桃乃を支えている姿を見るや、小さく舌打ちした。
しかし、桃乃と同じく、彼女もかなりの時間マイクを握って叫んでいたのだろう。その姿にいつもの気丈さはなく、立っているのもやっといった感じだ。
「大丈夫か?」
「ふん、貴様に心配される筋合いなど……」
一色の身体が大きく崩れる、燐夜は咄嗟に倒れる一色を、桃乃同様に優しく支えた。
「なっ!」
燐夜に体を支えられ、一色が顔を紅潮させる。
「無礼者、放せっ」
一色は燐夜に腕を突っ立て、何とか離れようとするが、その腕には普段の力はなかった。
「何があった。とにかく状況を説明してくれ」
自分を支えながら質問してくる燐夜に、一色は何かを悔しがるように顔を顰めるが、その口を開いてくれた。
「お前たちと別れた後、我々は高等部の生徒を寮へ避難させるために、授業をすべて中止させた。初めのころは問題なく誘導していたんだが、突然生徒の一人が叫び出したんだ」
「『鬼がこの中にいる』……か?」
燐夜は桃乃からの電話を思い出す。
燐夜の言葉に一色は頷いた。
「そうだ。初めは馬鹿者がふざけて叫んでいるのかと思ったのだが。だが、違った。そして、全員が体育館に向けて走り出したときにはすでに何もかもが手遅れだった」
「何でこの体育館に?」
「わからん。だが、この体育館には何かある。紅月、貴様も感じないか。何か、生気を吸い取られるような感覚を」
一色の言葉に、燐夜は確かに自分の力が吸い取られているような感覚を察知した。
「確かに」
それはまるで、命そのものが吸い取られるような虚脱感。
だが、これで合点がいった。いくらマイクで叫び続けたからといって、あの一色と桃乃がこうも簡単に衰弱するわけがない。
いったい、この体育館に何があるというのだろうか?
悩む燐夜の脳裏に二枚の写真が浮かんだ。
「そうか、《聖霊点》」
燐夜は思い出した。
霧葉が見せた学園内の二枚の地図。その片方、九神の祀られてある場所を示した地図には、今燐夜がいる、この高等部の体育館にも印が付いていた。
それならば全てに納得がいく。【断世解離の黒城】に、学園内を満たす鬼気。まだ、半日しか経っていないとはいえ、生徒たちの心は確実に脆くなる。
ならばそこに付け込まない手はない。
『鬼がこの中にいる』と叫んだ生徒も、おそらくは鬼の一手。何らかの方法で生徒を操ってそう言わせたのであろう。“鬼がどこにいるのか分からない”という緊張状態の中で誰かがそんなことを口走れば混乱は必然。先ほどから纏わりつく嫌な感じは、おそらく、生徒会や封鬼委員のメンバーに阻止されないように放たれた、何らかの鬼術によるもの。
ここまでくればあとは単純だ。緊張状態がやがて崩壊し、生徒同士が互いに傷つけ合えば、それ以上手を打たなくても生徒たちが生み出す負の念に《聖霊点》は汚される。
だが、燐夜も手は打っていたはず。燐夜は力ない桃乃と一色の身体を丁寧に横たえ、携帯電話を取り出し、第一体育館に向かったはずの白都と風林のペアに急いで連絡を入れた。
数回のコール音の後、カチャ、という音と共に白都が電話に出た。
「はい。もしも……」
「白都。今、どこにいる?」
「あ、燐夜さん。ちょうど良かった。困っていたんですよ」
「なんだ?」
「第一体育館まで来たのは良かったんですが、先を越されたらしくて。どうやら、鬼は体育館に鬼術を張っているみたいです」
燐夜が心の中で「チッ」と舌打ちをした。
「その鬼術の能力はわかるか?」
「えーと、少し待ってください。――たぶん、精神作用と……氣の吸引……ですかね? でも、外部との隔離能力はないみたいですよ」
燐夜が心の中でやっぱりか、と唸る。
が、今は悲観している場合じゃない。
「白都。俺は今、その体育館の中にいる」
「ええっ!。大丈夫なんですか?」
「いや、色々とヤバイ。鬼はおそらく高等部たちの生徒の邪念を利用して《聖霊点》を汚す気だ。体育館に張られた鬼術はその補助装置だろ」
「なるほど。その可能性は高いですね。とにかく、僕たちも今からそちらに向かいます」
「いや。中の方は、こっちで何とかする。白都は風林と協力して鬼術の方を破ってくれ」
「わかりました、やってみます」
心強い返事と共に、電話は切れた。
燐夜は再び目の前の現実を直視する。
乱れ飛ぶ罵声は、それだけで人の心を傷つける牙になる。
その姿は見るに堪えないものがあった。
一色が持っていたマイクを借りた燐夜は、錯乱する同級生に向かって声の限り叫んだ。
「てめぇら。いい加減にしろ」
見苦しさ、不甲斐なさに対する怒りを乗せた、力の限りの大音量。音量限界を超えたスピーカーから「キーン」と音が響き、生徒たちが耳を塞ぐ。
轟音に次ぐ静寂。
それまで騒いでいた同級生たちが、一斉に燐夜の方を向いた。
「お前らは仮にも九浄学園の生徒だろうが、仲間のことも信用できないのか? 鬼の鬼気に呑まれてんじゃねぇぞ。目を覚ましやがれ」
生徒たちが鬼の邪気から逃れ眼を覚ますように、燐夜が念を言霊に乗せて叫ぶ。燐夜の声は、単に聴覚から送られる情報としてではなく、念となって生徒たちの魂に響いた。
体育館に静寂が満ちる。
「うるせぇーぞ、紅月。元はと言えば、お前ら封鬼委員が頼りにならないから、こうなったんだろうが」
「なっ!」
返ってきたのは、今の燐夜には一番言われたくない罵声だった。燐夜が驚愕に顔を強張らせる。信頼していた同級生の言葉。そこに込められた悪意。
その一声に込められた邪念は、まるで波紋のように体育館の隅々に広がった。
「そーよそーよ。いつもは『俺たちが守ってやる』なんて言ってるくせに、肝心な時に役に立たないなんて馬鹿みたい」
「所詮は上辺だけってことだろう」
「おい。燐夜。てめぇら、何チンタラやってやがんだ」
「やっぱり、燐夜君が会長なんて変よね。頭なら霧葉や四季君。戦闘能力だって楓や絶磨君の方が上だって噂でしょ。何であなたがやってるの」
「今回のことは全部お前に責があるんじゃないのか。おい、紅月。なんとか言えや」
溢れかえる罵詈雑言。充ち溢れる邪気邪念。燐夜が「くっ」と歯を食いしばる。身体を打つ言葉の鞭、身を引き裂くような生徒たちの禍々しい視線。
「おまえらぁ……」
燐夜は口を開くが、その後に続く喉まで出かかった言葉を、ぎりぎりで噛み殺した。
彼らの言っていることは、邪気の影響を受け理性を蝕まれているとはいえ、紛れもない真実。燐夜に弁論ない。ただ、拳を固く握りしめ、唇を噛みながら浴びせられる言葉の全てを受け止めた。
それが、あくまでも自分に向けられた言葉だったなら。
「ったく~。本当に使えないわね。ね~、みんな知ってる~~? 封鬼委員初心者の三神真衣ちゃん。彼女も魂を食べられちゃったんだって~。本当に封鬼委員て役立たずの集まりよね~。三神ちゃんも、力がないからやられちゃうのよ。ほんと、ばっかみたい」
「んなっ!」
その言葉に、燐夜は魂を握り潰されるような衝撃を受けた。
自分のことはいくら罵倒されようが、蔑まされようが、我慢できる。しかし、それが生死を分かつ仲間のことであれば話が違う。燐夜が溜飲を下げるように、ごくり、と生暖かい唾を飲む。だが、そんなものでは今の言葉に対する怒りは収まらない。
燐夜の眼が激動に血走り見開かれた。
「てめぇら。ふっざけんなーっ」
燐夜が怒鳴り、《断理》の柄に手を掛ける。その身体から沸き上がるのは紛れもない怒気。気の弱いものならば、それだけで卒倒しそうなほどの怒気に全身を濡らす燐夜が、ゆっくりと鞘から《断理》を引き抜いた。
それまで好き放題に叫んでいた生徒たちも、体育館の証明に照らされる妖艶な刀身に、思わず言葉を止め、息を呑む。
《断理》を手にした燐夜の声のトーンが急激に落ちた。
「いい加減にしろよ、お前ら。それが命懸けで学園を守ろうとしていたヤツに言う言葉か? 思い出せ。お前らの中に、三神の手当てを受けたことのある奴はどれだけいる?」
先ほどの恫喝よりも、手に握る《断理》よりも、その静かな一言に生徒たちは体を縛られた。
燐夜は手に握った《断理》を生徒たちに傾け、その刃よりも冷たく、重く、鋭い言葉で更に言葉を噤む。
「もういい、かかってこい。見せてやるよ。弱くて役立たずの封鬼委員様の力をよぉ」
氣が籠められ《断理》の刀身が輝く。燐夜は本気だった。
だが、これも普段の燐夜なら考えられないことだった。いきなり飛び出さないだけまだ理性が残っているが、明らかに燐夜も鬼気の影響、そして、この体育館に仕掛けられた鬼術の影響を確実に受けている。
燐夜の言葉に、気負いこそした生徒たちだったが、そこは心の隙を鬼気に侵されたとはいえ九浄学園の生徒。彼らは燐夜の強烈な殺気に真正面から向かい合った。
まさに一触即発。数VS刀。息を呑む殺気の応酬に、生徒たちの間に入り込んでいた生徒会のみならず、ステージに横たわる胡桃と一色でさえ、声を上げられないまま生暖かい汗を流す。
燐夜の乱入により多少シナリオとは異なるが、鬼の作戦は成功だったと言える。
そう、ここまでは。
それは何の前触れもなく始まった。
体育館に取り付けられた放送用のスピーカーから流れる、ゆっくりとしたテンポの聞き慣れた音色。綺麗で、柔らかく、温かく、そしてとても優しい歌声。
その音色と歌声は生徒たちと燐夜の鼓膜を撫ぜ、戦意を洗い流した。
まるで、春の日の陽だまりにいるような健やかさ。川のせせらぎのような清涼感。闘志に燃えていた燐夜の魂までもが、その詩により、瞬く間に鎮火する。いや、燐夜だけではない。先ほどまで敵意全開だった生徒たちも、その声により瞬く間に正気を取り戻す。
「藍夏……か?」
燐夜が歌声の主の名を口にする。
そして「ふぅ」と軽く息を吐き、小さく笑った。
「そうきたか。――また、助けられたな」
燐夜は落ち着きだした生徒たちに目を向けながら、先刻の【鬼門】でのことを思い出す。
鬼の作戦を打破したのは、スピーカー越し藍夏が歌う、九浄学園の校歌だった。歌と言っても、九神の祝詞を元に作られた九浄学園の校歌は、歌そのものに魂を落ち着かせる力がある。
その上、至高の歌姫と称される藍夏が歌っているのだ。その歌声には燐夜の怒鳴り声の、数倍の力があった。生徒たちの混乱が徐々に落ち着き始めるのと同時に、燐夜も小さく肩をすくめた。――そのとき。
空気を引き裂くような烈火音が体育館に響き渡った。その音に燐夜を初めとし、生徒会、そして正気を取り戻した生徒たちが、体育館の避難用扉の方を向き、身構える。
緩ませた緊張の糸を再び極限まで張り直し、《断理》を構える燐夜。その後ろには体力と気力と回復させた一色と桃乃。そして、法気を充填させる生徒会。未だ体育館内に藍夏の歌う校歌が響く中、燐夜たちはいつでも戦闘を始められる準備を整えた。
集中する視線。ゆっくりと開かれる扉。固唾を飲み冷や汗を流す生徒。
「せ~んぱ~い。体育館に張られていた記述はぶっ壊したっすよ。って、あり?」
そんな緊張を吹っ飛ばしたのは、ツインテールを揺らしながら大きく手を振る、風林の笑顔だった。
肌で感じられるほど体育館の緊迫感がどっと抜ける。
そんな事情などお構いなしにぴょんぴょんと飛び跳ねる芽依の肩を、後から顔を出した白都がポンポンと叩いた。
「すみません、燐夜さん。ほら、芽依。なんか僕たち、入るタイミング間違えたみたいだよ。さっさと退散しよう」
「えぇーえ」
「えぇーえ、じゃない。ほら早く」
まるで駄々をこねる幼稚園児みたいに暴れる風林の腕を引いて、白都が再び非常口をくぐる。すでに藍夏の歌声も止んでいた。呆ける生徒たちの中から、次第に笑いだす者が生まれだす。
緊張の糸が切れたとき、人間は安心からか、それまでのことは一切い忘れ、打算抜きの笑顔になるものだ。その笑顔を見て燐夜が呟く。
「俺、今回、いい所なかったな」
その呟きを聞いた気だるげに座り込む一色が、燐夜を見ず、なおかつはっきりと言った。
「おまえが格好良かったことなど、あるのか?」、と。
時が少し遡る
自分の脇をすり抜け疾風のように走り去る燐夜。その背中を無言のまま見送った八雲は、視線を前方に戻し、誰もいなくなった廊下を静かに歩く。
ガチャリとノックもなく、八雲は校長室の扉を開けた。
「やあ、君か。待っていたよ」
上辺だけの笑みを浮かべた堂穀が挨拶する。
「何の用だ?」
そのことに気付いている八雲が、本心から無愛想に返す。
しばしの沈黙。先手を切ったのは堂穀だった。
「どうやら、生徒たちに今回の鬼の情報が漏れたみたいなんだが」
鋭く睨む堂穀に「随分と、情報が早いんだな」と真っ向から堂穀を睨み返す八雲。
その態度に堂穀は猟奇的な笑みを漏らし「まあいい」と呟いた。
そして、引出しを開け、数枚の書類を取り出し、机の上にバサっと広げた。
「じゃあ、これについて説明してもらえるかな?」
八雲の顔写真の張られた数枚の書類。それは彼の履歴書だった。
「説明、とは?」
机の上に広げられた物を静かに見下ろす八雲が尋ねる。それは燐夜に向けられた冷酷でありながらも感情が込められていた言葉とは異なり、その言葉には一切の感情がなかった。
八雲の返答に、堂穀は「フム」と唸りながら口を開いた。
「先ほど、全国封鬼師の名簿録を調べたんだが、そこに秋間八雲という名前はなかった」
「それが?」
「……私の記憶には、間違いなく君の幼少期の記憶がある。だが、よくよく思い出してみると、どうもその記憶の中に秋間八雲君、君の姿がないんだよ」
「どういうことですか」
「うーむ。どう表現したらよいかわからないが。秋間八雲に関する「思い出」は思い出せる。だが、その思い出を構成する映像の中に君の姿がない、っと言ったところか?」
曖昧に答える堂穀。だからこそ、次に続く言葉はハッキリとしていた。
「八雲君。君は一体何者なんだ?」
堂穀の明確な疑念の言葉を受けた八雲。返す言葉は疑念に対する回答ではなかった。
「今の俺は、封鬼委員の顧問。それ以上でもそれ以下でもない」
八雲はそれ以上何も言わず、静かに振り返って校長室を出て行った。




