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第四章

 驚愕と戸惑いが溢れる廊下を、二つの影が駆け抜ける。

 授業を放棄して廊下に溢れだす生徒たちの波を掻い潜り、三神が付いてこれるぎりぎりの速度で走る燐夜が叫んだ。

「場所は、第一校舎の花壇だったな」

「はい」

 人ごみの中、圧倒的な存在感の放つ背中を見失なわまいと駆ける三神が、燐夜の問いに懸命に答える。小さな声をしっかりと耳に収めながら、少しでも現場に早く着こうと、生徒たちに向かって燐夜が叫んだ。

「てめぇら、死にたくなけりゃ、そこをどけぇーっ!」

 完全に言っていることは悪人だ。その恫喝と鬼気迫る形相に、剛胆者で知られる九浄学園の生徒たちが一様に燐夜の道を開ける。

 事の発端は校内に響き渡った一本の校内放送だった。

『校内で新たに魂奪が発生。場所は第三図書館裏の林。そして、第一校舎花壇の二か所。なお、第一校舎では犯人と思われる鬼と一般生徒が交戦中』

 階段を一気に飛び降りる燐夜の顔が、放送を思い出し苛立ち気に歪む。

「ほんっっっっとに莫迦ばっかりだ。大人しくしてられねぇえのか?」

「ですけど、これで何か手掛かりが見つかるかも。急ぎましょう」

「チッ」

 苛立ちを漏らしながら、燐夜はさらに鋭く足を捌き、速度を落とさぬまま生徒たちの間を駆け抜ける。階段を一足飛びに下り第一校舎中庭に出ると、制服をズタズタに裂かれた生徒たちが生徒会に看病されている光景が視界に飛び込んできた。

「大丈夫ですか?」

 その惨状を目の当たりにした三神は、一番負傷の激しい生徒に駆け寄り、生徒会の救助班に代わり《手当て》を開始する。激痛に呻く生徒の顔が、三神の手当てに見る見る生気に満ちる。

その《手当て》を受ける見知った生徒の傍らに燐夜は片膝を付いた。

海斗かいと。大丈夫か?」

「燐夜か。」

 茶色く染めた短い髪を自身の血で赤黒く染めたクラスメートは、燐夜の顔を見て力無く笑った。

「悪い。お前が来るまで、もたせられなくて」

「無茶しやがって」

 海斗の謝罪に、燐夜は瀕死の者でさえも奮い立ちそうなほど力強く、そして泣く子も笑うような優しげな笑みで答えた。その言葉と笑みで、僅かに海斗の顔が綻ぶのを確認した燐夜は、一転して真剣の表情を浮かべ海斗に声をかける。

「苦しいところ悪いが、鬼はどんな奴だった? 教えてくれ」

 燐夜の言葉に、海斗は何かの恐怖に震えながら、燐夜のまっすぐな瞳に向き合い答えた。

「わからない」

「わからない?」

 海斗の言葉に燐夜が眉を寄せ訊き返す。その燐夜の疑念に、三神の《手当て》により大分回復した海斗が、先ほどよりもはっきりとした口調で答えた。

「ああ。俺たちが駆け付けた時には確かに、四つんばいの鬼があの子の隣にいたんだ。でも、そいつは一瞬で俺たちの視界から消えた。俺たちは鬼の気配だけを頼りに戦っていたから、鬼の詳しい姿を見ていない。悪い、燐夜に教えられることはなにもない」

 悔しげに歯を食いしばる海斗に、燐夜は拳を固く握りしめながら立ち上がった。

「それだけでも十分だ。ありがとな」

 更に拳を強く握り締め、燐夜は颯爽と身を翻し駆け足で惨状の中心で眠る初等部と思われる少女へと近づいた。燐夜が少女を観察する。肉体的な損傷はない。綺麗に魂だけを抜かれた少女は、まるで神が戯れで作った人形のようですらあった。

 新たな被害者。歯を剥き出し、自らの無力さに対する怒りに震える燐夜は、傍にいた生徒会の一人の肩を掴み荒々しく問いただした。

「鬼はどうした?」

「わ、我々が駆け付けるまでは彼らが足止めをしていたのですが……。すいません、逃げられてしまいました。追尾班の者も……」

「そんなことはどうでもいい。鬼が逃げたのはどのくらい前だ?」

「え、っあ、その、ほんの数分前です」

 彼女の言葉に燐夜は眼を爛と輝かせ、《手当て》を手伝っている三神へ駆け寄った。

「三神。すぐに鬼を追うぞ。氣道で鬼の位置を探ってくれ」

「は、はい。【鬼気捜羅】ですね」

「違う。【鬼気捜羅】じゃなくて、【探氣遠世たんきえんせ】だ。あの子が襲われて数分なら、彼女の魂の残り香を追った方がいい」

 燐夜の判断は激情の中においても正確だ。

 確かに、これほど大それた事件を引き起こした犯人が、今更【鬼気捜羅】にかかるとは考え難い。ならば遠くの氣を探る【探氣遠世】を掛け、被害者の氣が未だ鬼に残留している方に賭けた方が、確率は高い。

「はい。わかりました」

 燐夜の言葉を三神は了解し、生徒会に《手当て》の引き継ぎを頼む。そして、急いで氣道を発動しようとした、まさにその時。

「ほう。いい判断だな」

 突然、ある人物が燐夜と三神の後ろから声を掛けてきた。

「あんたは……」

「久し振り……とでも言っておこう」

 振り返る燐夜の眼に映ったのは、一昨日から封鬼委員の顧問になった秋間八雲だった。

「少しは頭が回るようだな。だが遅い。お前がもたついている間に、魂を奪われた者は四人となった」

見下すようにそう宣告する八雲に、三神が「そんな」と抗議の声を上げた。

「紅月先輩は悪くありません。先輩は……」

 三神は燐夜のことを弁解しようと珍しく声を荒げた。だが、

「確かに、四人も被害者が出たのは俺の責だ」

 三神の弁論は燐夜の肯定によって遮られた。

「せ、先輩?」

 その意味が読み取れず、三神が燐夜の横顔を覗く。その燐夜の横顔には、己の未熟さに対する怒りと被害者に対する忸怩たる思いが深く刻まれていた。

 しかし、燐夜はその重圧に押し潰されるほど弱くない。

 燐夜は八雲の双眸を真っ向から見据え、自らの口で言い返した。

「でも、今は後悔するときでも、反省するときでもない。そして、悪いがあんたに構っている暇もない。俺は鬼を封印して、魂を奪還する義務がある。それと――」

「それと、なんだ?」

 聞き返す八雲に向けて、燐夜は血に飢えた獣の如き狂喜と、無垢な子供の如き無邪気さを織り交ぜた笑みを浮かべて、続けた

「説教臭い野郎は、すぐにハゲるから気を付けた方がいいぞ」

「――――素晴らしい忠告、感謝する」

 皮肉・冗談を言い合い、燐夜と八雲が睨み合う。しかし、彼らの発する気は冗談で済まされず、彼ら間にある空気が二人の圧迫感に潰され、震えだした。

 その最中

 燐夜は感じた 八雲の瞳から染み出す悲壮を

 八雲は感じた 燐夜の瞳から溢れ出す使命を

 2人の氣の応酬に、大地が怯え大気が逃げ出す。その場に居合わせた誰一人として、彼らの間に入っていくどころか、息をすることさえできなくなっていた。

 無限とも思える緊張は、実際はほんの数秒で意外にもあっさり幕を閉じた。

 フン、と八雲が鼻で笑い身を翻す。そして背中越しの燐夜に言い放った。

「ならば、やってみろ。お前にその力量があるならばな」

「あんたに言われるまでもない。それに、俺の力量なんてたかが知れてるぞ」

「ほう。ならば聞こう。お前のその自信、確信に満ちた自信を支えるモノは、一体何だ?」

「……さぁな」

 八雲の問いに答えず、燐夜は微かに微笑み、三神へと視線を走らせた。

「三神、頼む」

「は、はい」

 燐夜に応じ、ようやく三神が詠唱を開始した。

何処いずこで生きし陽の氣よ 

 何処いずこで活きし陰の氣よ 

 我が問いに応じ答えよ 

 氣道参拾壱が一つ【探氣遠世】」

 詠唱の終唱と共に三神が印を練る。三神の身体から昨日の風林同様、円状に氣が放出され、大地を浸透するように八方へと広がった。

「…………見つけました。魂奪の被害者の魂から漏れ出す氣は、校内をものすごい速さで移動中です。でも、早くしないと。氣を感知できる時間はもう長くはありません」

 その言葉に燐夜が眼を爛と輝かせる。そして、時間が惜しいとばかりに詳しい位置を訊かぬまま、三神を抱き上げた。

「っ! 先輩。何をっ!?」

 燐夜の突然の行動に三神が赤面する

「ああ、悪い。三神の足じゃ追いつく前に氣が消えちまう。我慢しろ」

「あ、あの。私は……べつに……いや……じゃ……」

 燐夜を見上げる三神が更に顔を朱に染めながらもじもじと呟く。それは傍から見れば、嫌というよりも恥ずかしいという感じだった。

「三神、鬼はどっちだ?」

「あっち……です」

 消え入りそうな声に代わり細い指が鬼の居場所を燐夜に伝える。指の方向に身体を向け限界まで筋肉を緊張させた燐夜は、最後に顔半分だけ振り返り八雲の背に声を投げかけた。

「あんたはどうすんだ?」

「言ったはずだ。お前たちと慣れ合うつもりはない」

 背中越しに聞こえてくる高飛車な声に「勝手にしろ」と燐夜は言って、限界まで緊張させた筋肉を開放した。

 爆発的な推進力に突き動かされる燐夜が一瞬にして現場から遠ざかる。

 その姿を、燐夜が走り出す直前に振り返り見届けた八雲は静かに死を待つ少女の傍らに跪き、そっと手をかざして空気の中に埋もれるように小さく言った。

「そうだ。慣れ合うとやりにくくなるのでな」


 燐夜が駆ける。その速度は三神を気にしながら走っていたころの比ではない。極力優しく抱き上げている三神の指示通りに鬼を目指す燐夜の姿は、事件を聞きつけ駆けつけている生徒の眼にも、全てをありのままに映す綺麗に磨かれた窓ガラスにも映らない。とにかく早く。ただ早く。燐夜の双脚が蹴る大地はその反動で燐夜の身体を制限なく加速させた。

「三神。鬼は今どのへんだ?」

「次の校舎の角を左。中等部と初等部の校舎の間を抜けて事務員・生徒の共同宿舎に進んでいます。でも、もう魂の残り香はほとんど残っていません」

「ちくしょう。逃がすかよ!」

 三神の言葉に燐夜はさらに力強く大地を蹴り、風すらも置き去りする神速を持って駆け抜ける。そして三神の言った角が見え……、

「キャ―ッ!」

 鼓膜を打つ女性の叫び声に、燐夜と三神の顔が焦りに引きつった。

「先輩っ!」

「わかってる!」

 曲がり角に突っ込んだ燐夜は、その全衝撃を右足で全て受け止め、そのまま角を直角に曲がる。そこには髪の長い女性が倒れていた。髪間からの覗くその顔を燐夜は知っている。

「明美さんっ!?」

 土にその美しい顔を付ける明美に燐夜は急いで駆け寄り、抱える三神を降ろす。そして、細い明美の上体を抱き起した。

「明美さん。大丈夫ですか? 明美さん!」

 必死に明美の名を呼ぶ燐夜。すると、明美は薄く眼を見開いて意識を取り戻した。

「あ……ん……。燐夜……か?」

「そうだ。俺だ。何があったんだ」

 燐夜の問いかけに、明美は頭痛でもするのか顔を顰めた。

「こえ……、また……あの……声が……。あ、ああああああっ」

 突然、明美が頭を押さえ叫び出した。

「明美さんっ。おい、三神。頼む」

「わ、わかりました」

 燐夜は慌てて、三神を呼ぶ。三神はそれで燐夜の意志を了解し、明美の大きな胸に自身の小さな手を翳した。

「明美さん、今、助けますからね」

 途端に三神の氣が膨れ上がり、それを集めた掌が暖かい光に包まれた。すると、青白かった明美の顔に生気が戻り、苦しそうな呼吸も安定し始めた。

 三神が明美に施している氣術は、《手当て》の上級技に位置する《精聖清姿せいせいしんし》という術だ。この術なら身体だけでなく乱れた心も癒すことができる。

 明美の状態が徐々に安定したのを認めた燐夜は、その傍らにしゃがみ込むと、その顔に赤みが戻るのを確かめ、ゆっくりと尋ねた。

「何が、あったんですか?」

「こえ……が……」

 懸命に言葉を吐き出す明美だったが、その声は弱弱しい。

 明美は言い終えぬままに、僅かに開いていた目を瞑り黙ってしまった。

「おいっ。明美さん、明美さんっ。三神!」

「大丈夫です、先輩。命に別状はありません」

 三神の言葉に、燐夜はほんの少しだけ表情を和らげる。

 しかし、すぐに本来の目的を思い出した燐夜は、すぐに周囲に気を張り巡らせた。

「鬼は……っち。いないか」

 燐夜の口から落胆が漏れる。周囲には鬼はおろかの猫一匹の気配も無い。

「くそっ!」

 ドンっ、と燐夜が拳を握り感情のままに壁を殴る。しかし、目まぐるしく進行する狂気の時計は、燐夜に葛藤する暇さえも与えてはくれなかった。

 血管が浮き出るほどに拳を握り締めた燐夜の耳に、最近流行の曲が届く。その音色の発信源は燐夜のズボンのポケットに入っている携帯電話だ。燐夜がポケットから携帯を取り出すと、そのサイド液晶の画面には、調べたいことがあると言って封鬼委員室に残った霧葉の名が浮かんでいた。

「霧葉か。悪いっ。第一校舎の鬼は逃がしちまっ……」

「燐夜、大変よ!」

 燐夜の言葉を遮ったのは、携帯電話の受話器から聞こえてくる常に冷静な霧葉からは考えられないほど焦った声だった。その声に、燐夜の背筋に冷たい悪寒が走る。

「何かあったのか?」

「ええ。急いで初等部の校庭へ向かって。鬼が現れたのよっ、それもものすごい数の。現在地からすればあなたたちが一番近いわ。早くしてっ。今初等部が宿屋へ移動中だから、このままじゃ手遅れになる」

「わ、わかった。すぐに向かう」

「すぐに援軍をよこすから、それまで持ち堪えて。頼んだわよ」

 そう言い残し、霧葉の電話は切れた。危機とした現状況。考えている時間、迷っている暇はない。燐夜は三神に目を配らせる。

「鬼が出やがった。俺は迎撃に向かう。三神は明美さんを頼む」

「任せてください」

 三神が頷くのを確認した燐夜は、再びその身体を疾風に変え走り出した。

 後に残されたのは、三神と明美の二人だけ。三神は《精聖清姿》を続けながら、内気な自分の憧れ、いつも大勢の人々を前にしても笑顔をふりまき続ける明美を覗き込む。

「明美さんにこんな目に合わせるなんて。……許せない。……許さない」

 明美の胸に乗せられた三神の手が、より一層強く輝く。生気と英気。二つを同時に回復する明美はすぐに、薄く瞼を開けた。

 しかし、その焦点はどこかおぼつかない。

「……ん、み……かみ……ちゃん?」

 ぼやける視界の中、明美はしっかりと自分を覗き込んでいる三神の姿を捉えた。

「明美さんっ。――よかった、気が付いたんですね」

「みかみ……ちゃん。はや……く……、にげ……っっ!」

「え……?」

 必死に言葉を紡ごうとする明美の瞳と三神の瞳が同時に大きく見開いた。


「なんだ……こりゃ……」

 初等部の校庭に駆け付けた燐夜は、眼の前に広がる異界に絶句した。 

 普段は子供たちが元気に走り回る初等部の校庭には、今や大小痩太様々な鬼がその不気味な醜態を晒し、地面がほとんど見えないほどその大地を埋め尽くし、空に広がる暗雲はさらにその禍禍しさを増している。校庭に蔓延る鬼たちは、感じる鬼気からすればほとんどが《等活》《黒縄》クラスの鬼だが、半端な数ではない。

 何より、九浄学園にこれほどの下級鬼が大量に出現したという事実に燐夜は愕然とした。

 しかし、立ち止まっている暇はない。

 燐夜はすぐさま霧葉の言葉を思い出し、校庭に目を走らせる。

「ん、あれは。――やばいっ!」

 燐夜はすぐに初等部の子供たちと教師が隠れる、生徒会の法術師が鬼の大群の中に張ったドーム状の 結界を発見した。だが、その結界はこの大群を相手にするにはあまりにも脆弱過ぎる。破られるのは時間の問題だろう。

 しかし、いかに燐夜一騎当千の力を持つ燐夜であってに多勢に無勢。人海戦術ともなれば体力・精神力共に限界がある。苦戦は必至。

 だが

「鬼ども。そこをどけーっ!」

 燐夜は迷うことなく《断理》を鞘から抜き放った。今最優先すべきは一刻も早く結界へと辿り着くこと。燐夜は大きく跳躍し、鬼の濁流へとその身を投げ込んだ。

 着地する直前に大きく刀を横に薙ぎ、その一太刀で着地予定地に蔓延る鬼の頭部を正確に薙ぎ払う。燐夜の腕が振るわれるのと一瞬遅れて、血の緒を引きながら宙を舞う鬼の首。重なり合い倒れる鬼たちの肉塊の隙間に片足を付け、着地の衝撃をバネの反動とし停滞することなく燐夜は弾丸のごとき速さで身を前へと投げ出した。袈裟切りに切り落とされる刀を受けた鬼が、何の反撃もできぬまま血の噴き出す自分の断面図を眺めながら地面にその穢れた身を落とす。そして、ついでとばかりに繰り出されたつま先に首を捉えられた鬼は、錐揉みしながら同族を巻き込み吹き飛んだ。

 そこでようやく鬼たちが燐夜への迎撃態勢を取る。

 前方の痩せ細った鬼は伸縮性のある腕を伸ばし鉤爪で燐夜の喉を、左右の眼が飛び出した鬼はその眼から怪光線で燐夜の背を、後方の軀が腐り腐敗臭を撒き散らす鬼は口から溶解液で燐夜の腕を、その他諸々の鬼たちも己の必殺を燐夜へと解き放った。

 逃げ場は無い。が、燐夜の顔に焦りはない。

 あるのは、邪魔な鬼に対する苛立ちだけだ。

「ウザッてえんだよっ!」

 燐夜は左手で腰から鞘を抜き出し、その鯉口に刀の切っ先を指し込んだ。

「千夜に鳴き狂え 歳鳥さいちょう

 封鬼戦刀流 の太刀 【鵠鳴こくめい】」

 一気に鞘へと納刀される《断理》。すると、古に《断理》の鞘に封印された鬼神の魂と燐夜が納刀の瞬間に込めた氣の反発が相乗効果を生み、燐夜を中心として音と氣の大爆発を巻き起こした。乱れ飛ぶ氣の奔流は鬼の五体を蹂躙し刹那のうちに灰塵へと変え、響き渡る音の音波による攻撃は氣の攻撃を逃れた鬼の内臓に致命的なダメージを叩きこむ。

 立ち上る爆煙と砂塵、そして血風。燐夜の襲撃に気がつかなかった鬼たちも、一様にその爆音の中心へと血の様に赤い眼を向けた。

 煙幕の中から何かが飛び出す。それは正面の鬼の喉に深々と突き刺さった。続いてまた何かが飛び出す。その人物は倒れかける鬼の喉に突き刺さった《断理》の柄を握り、傷口を広げるようにして一気に引き抜いた。

 噴水のような返り血を、ボロボロになった制服に浴びる燐夜がさらに加速する。

 大技を出したことで燐夜の身体は急速に覚醒した。踏み出す一歩は大地を抉り、溢れる闘気が鬼を怯ませる。右上から左下へ切り下ろした刀は鬼の身体を肉や骨を無視して切り抜け、その速度を保ちつつ。今度は左上へと上昇。さらに一匹・二匹と鬼の身体を二つに別つ。燐夜の視界が鬼血の軌跡に彩られた。

「っ!」

 戦いによって磨きあげられてきた燐夜の身体が、視覚よりも早く己の危機を察知する。

 次の瞬間、同族の血潮を割り、弾丸を思わせる勢いで地面を這うように燐夜へと伸びる四本の腕が出現した。

「邪魔だぁぁーっ!」

 燐夜が吠え、《断理》が唸る。

 振り抜いた刀を切り返し、腹部と足に伸びる2本の腕を切断。さらに返す刀で左腕を絡めようとする腕をもう一本。そして爪を顔面へと伸びる腕はその手首を掴み、力の限り握り潰した。骨と筋肉がつぶれる破砕音。燐夜はさらにその腕を手繰たぐり寄せ、釣れた鬼の口腔へと刀の切っ先をねじ込んだ。

 同時に、燐夜の背筋に殺気が走り、燐夜の首の皮が奪い去られ、鮮血が迸る。もし燐夜が咄嗟に首を傾げていなければ、今頃、燐夜の喉には大きな風穴が開いていただろう。

燐夜は鬼の喉から刀を抜き、崩れ落ちる鬼の頭を鷲掴みにして背後へ投擲。投げられた鬼の躰が一瞬にして穴だらけになる。

 燐夜が鬼を投げると同時に、後ろに跳ぶ。そして、穴だらけになった鬼ごと、背後の驚異的な鉄砲水を放つ鬼を脳天から一刀のもとにに切り伏せた。

 燐夜は血風を巻き起こし、文字通り結界までの血路を開く。

 膨れる闘志に、波打つ殺気。

 右手の刀で心臓を貫き、左手の抜き手で喉を抉る。

 だが、結界まではかなりの距離があった。

「くそっ!」

 舌打つ燐夜の背中に走る、舐めるような悪寒。

 突然、ゴウッという大気の唸りと共に横手から大斧が燐夜へと迫ってきた。

 水平に放たれた凶器を、燐夜は間一髪で身を屈めやり過ごす。しかし、燐夜の周りにいた鬼たちはその圧倒的な一撃により、バラバラになって吹き飛んだ。

 燐夜が顔を上げる。そこにいたのは山のような巨躯の身体に二つの顔、四つの腕に斧や剣などの武器を持った、四番目の深さに位置する《叫喚地獄》の鬼の眷属、リョウメンスクナだった。しかも一体ではない。燐夜が視認できるだけでも三体。一般に《叫喚地獄》の鬼の眷属は《等活地獄》鬼の眷属の二〇倍の力を持つとされているが、リョウメンスクナは《叫喚地獄》の中でも最上級の力を持った鬼。その威圧感は他の鬼の比ではない。

 リョウメンスクナが人間の身の丈の5倍はあろうかという大剣を、自身の底知れぬ暗い瞳に映った燐夜目掛けて迷うことなく振り落す。圧倒的な質量と重量。横に飛び退く燐夜がいた場所の地面が爆音と共に爆ぜ割れた。

 燐夜に再び悪寒が走る。

 それは跳んだ燐夜を取り囲む雑鬼からではない。頭上からリョウメンスクナが放った巨大な矢が夕立のように降り注いできたのだ。

「しゃらくせぇっ!」

 燐夜が天に向けて力の限り刀を振るう。弧を描き、銀影を軌跡に残す燐夜の斬撃は、その神速から風を呼び、降り注ぐ矢を吹き飛ばす。燐夜の周りにいた鬼は、燐夜から逸れた矢によって次々と脳天から串刺しになった。

 今度は燐夜が攻める。

 巨躯の鬼は破壊力こそずば抜けているが、その動きは鈍い。燐夜は一番近くにいるリョウメンスクナとの間合いを一瞬にして詰め、その太い脚を目掛けて刀を真横に振るう。常人ならば断ち切るどころか刃を立てるだけでも困難なリョウメンスクナの脚も、燐夜にかかれば一刀のもとに断ち切られた。片足の脛から下を失ったリョウメンスクナは、地に崩れ落ちる。

 だが、片足くらいでは《叫喚地獄》の鬼を滅すことはできない。足首を失ったリョウメンスクナはそんなことなど気にも留めず、倒れながらに燐夜へ大斧の一撃を振り下ろした。

 しかし、その先に燐夜はいない。

 鬼の視界から消えた燐夜は鬼の顔面に跳躍し、《断理》の切っ先を鬼の眼に突き刺した。眼孔に切っ先が突き刺さり、リョウメンスクナが地の底から這い上がるような地獄の雄叫びを発する。だが、燐夜は離れない。《断理》を更に抉り込み、鍔、さらには腕すらもリョウメンスクナの眼へとねじり込み、その眼内を蹂躙する。鬼は四腕を使い、燐夜を引き離そうとするが、それより先に《断理》刃が鬼の脳に到達。燐夜はそのまま手首を返し、鬼の脳細胞をズタズタに切り裂いた。リョウメンスクナはビクビクと数回痙攣すると、残った眼からも生の光が消える。

 跳び退きざまに燐夜が引き抜いた腕は、鬼の眼液と脳漿にテカテカと塗れていた。

「うわぁぁあぁぁぁーっ!」

 鼓膜を打つ幼い悲鳴。

 燐夜が腕を振るい次なるリョウメンスクナへ突き進もうとしたのと、子供たちを守る結界に亀裂が入ったのはほぼ同時だった。

「やばいっ!」

 燐夜が眼で耳で、結界の限界を感じとる。タイムリミットまでもう時間がない。

 しかし、結界まではかなりの距離が残っていた。ここは力を温存している場合ではない。

 燐夜は脳の運動野、筋肉の限界を司る制御装置リミッターを外し、心臓から血液を高速度で体内に循環させる。筋肉は限界まで緊張、全身の血管が浮かび上がり、網膜が映し出す世界が変わった。

 世界が、燐夜を中心に動き始めた。

 燐夜が構える。左手左足を大きく前に出し腰を落とし、身体は半身。右手一本で刀を握り、切っ先を結界へ向けて大きく腕を引いた。

「万壁を穿うがて 獄鳥ごくちょう

 封鬼戦刀流 参の太刀 【鬼尽突きつつき】」

 燐夜が体内に流れる氣を爆発させた。

 両脚は爆発的な推進力。氣は圧倒的な突破力。そして右腕が繰り出す無限の突きは圧殺的な殲滅力。砲弾より早く跳び、閃光よりも早い突きの連撃の前に、燐夜と結界の間にいた鬼は一片の肉塊すら残らず“無”となった。

 結界と鬼との間に身体を滑り込ませた燐夜が、間髪入れず鬼に向き直り、左手で腰から《断理》の鞘を引き抜く。

「千夜に鳴き狂え 歳鳥さいちょう

 封鬼戦刀流 の太刀 【鵠鳴】」

 制御装置(リミッタ―)を外した今度の【鵠鳴】の威力は先ほどまでの比ではない。

 響く轟音。奔流する狂氣。視界を焼く裂光。

 結界を取り囲む鬼たちは、その一撃で完全に蒸発した。

「大丈夫か、お前らっ!」

 燐夜が結界に駆け寄ると、それまで絶望の淵にいた生徒と新任教師たちが一気に沸いた。

「「燐兄ぃーっ!」」

 燐夜は結界の中を一瞥する。多少のけが人はいるようだが重傷者の姿は見られない。燐夜が少しだけ顔を崩す。

「待ってろ。こんな奴ら俺がすぐに始末してやっからな」

「燐兄ぃー。がんばれー」

 これほど心強い応援が他にあるだろうか。

 彼らを傷つけようとした鬼への怒りが燐夜の中でさらに燃え上がる。振り返る燐夜。その形相は人間に恐怖を与える鬼すらも恐怖する凄惨な怒りに満ちていた。

「――――てめら」

 深い腹の底からの恫喝、鬼を睨む燐夜の身体から溢れる怒気が大気を焦がす。

「絶望の光を見せてやるよ」

 燐夜が両手で柄を握り《断理》を天に翳す。刀が燐夜の氣に共鳴し、炯炯と発光する刀身が大気を焼く。

「常夜の闇を掻き消せ 雷鳥らいちょう

 封鬼戦刀流 伍の――グッ?」

 しかし、燐夜は必殺を放つ前に、突然地面に膝を着き、倒れ込んだ。その鼻孔からは血が漏れ出し、四肢の筋肉が悲鳴を上げ、氣が霧散する。

「うそ……だろ」

 燐夜は、功を焦ったのだ。本来なら《叫喚地獄》までの鬼がいくら数を重ねても、燐夜にとってはさほど問題ではない。だが、今回は違う。制御装置を外した状態は確かに強力な力を得るがその反動は燐夜の身体を急速に蝕んだ。その上で立て続けの大技。まだ戦いが始まったばかりでギアが上がりきっていない燐夜の身体の限界は、思った以上に早かった。

「あっが。――かはっ!」

 燐夜がせき込み、口から血塊を吐き出す。筋肉が痙攣し眼が霞む。

 しかし……、

 燐夜は激痛という名の警告を無視して、悠然と立ち上がった。

「「燐兄ぃーっ!」」

 背中で感じる後輩たちの動揺。倒れている場合ではない。

 燐夜が鬼たちを一瞥する。

 手負いの身体、全身を駆け巡る激痛。

 だが燐夜の双眸は今なお覇気に満ち、動かぬ身体を動かす気迫は倒れる前よりもさらに猛々しく膨れ上がっていた。

 燐夜は袖で鼻を拭い、顔半分だけ振り返る。

「大丈夫だ。心配すんな」

 浮かぶ笑顔に苦痛はない。

 燐夜が己の命を燃やし鬼の大群へ飛び出そうとした、その時、

「だめー。燐兄ぃー。死んじゃヤダッ!」

 先生の制止を振り切り、一人また一人と生徒が結界の外に飛び出した。

「お、お前ら」

 後輩たちの思いがけない行動に、幾千の鬼を前でも怯むことのない燐夜が狼狽する。

「何してるんだ。早く結界に戻れっ!」

「ヤダッ」

「なに我儘言ってやがる。早く戻……ゴフッ」

 燐夜が再び吐血し、片膝をついた。自己防衛本能から制御装置はすでに切られているが、心身の回復にはまだまだ時間がかかる。

「ヤダッたらヤダ。燐兄ぃは僕たちがまもる」

 そう言うと、生徒たちはその小さな手を繋ぎ、燐夜を中心に小さな輪を作った。そして、彼らの小さな氣が繋がり、小さな掌を通って巡廻。円運動は次第に螺旋となり、小さな結界を作り出した。

「これは……」

 燐夜の周りに展開されたのは、九浄学園の生徒手帳に記載されている基本的な護身技の一つ【巡気結界】。この技は複数で発動するため基本ながらもその効力は大きい。しかも、今燐夜を包んでいる結界は彼らの強い思いのもとに構成されたもの。その強度は上級法術にも劣らない出来だ。

燐夜自身もそれは理解していた。

 しかし、眼前に迫る鬼の軍勢。そしてリョウメンスクナの前に、この結界では持ち堪えることは到底できない。自分を取り囲む後輩の気持ち、燐夜は痛いほどに嬉しかった。だからこそ、燐夜は心を鬼にする。

「馬鹿野郎、戻れ、足手まといだ」

「ヤダっ!」

「何言ってやがる。死にてぇのか」

「死ぬのはヤダ。でも、燐兄ぃが死んじゃうのはもっとヤダっ!」

「いい加減に……」

 燐夜の言葉が止まる。

 燐夜を包む結界を空に立ち込める邪雲よりも暗い影が覆った。燐夜が舌を打ち、子供たちの顔が強張る。

 リョウメンスクナが表情のない両面で彼らを見下ろした。

 無に染まる赤い目のリョウメンスクナが、虚無の大剣を振り上げる。

「やばいっ!」

 大気を引き裂き唸る大剣。情け容赦なく振り落された一撃が結界の天井を殴った。

 ガラスが割れるような音と共に結界の天井にヒビが入る。

「早く逃げろっ!」

「ヤ、ヤダ」

 非情に振り下ろされる斧、放たれた矢。

 続く重々しい鉄と岩がぶつかる音。

 バラバラ、と矢が地に堕ちる音。

 無音の静寂。

「ハーッハハハハハハハ。なに情けない顔してやがんだ。燐夜っ!」

 低く重く豪快な笑い声が、戦慄の校庭に木霊した。


「絶……磨……?」

 燐夜が顔を上げると、手にした大刀で鬼の一撃を受け止める、剛毅な容姿の漢が立っていた。

「おいおい。仮にも俺様の上に立つお前が、死にそうな面してんじゃねぇぞ」

 その血気溢れる声と豪快な笑みを受け、満身創痍だった燐夜の顔に安堵が浮ぶ。

「へへへへ。悪い、ちょっとだけ無理した」

「その……とおり」

 不器用に笑う燐夜に、矢の落ちた方から両腕にかぎ爪付きの手甲を装備した、痩躯の少女が近付いてきた。彼女は事もなく結界の中に入ると、端麗な顔立ちの美しい顔の筋肉をピクリとも動かさず、無言無表情のまま燐夜を見下ろし……

 ポカッと、無言、無表情、無造作に燐夜の頭を叩いた。

「いって――っ。何しやがんだ。かえで

「燐夜……馬鹿。無理……‥するな」

「楓……」

 独特の口調で話す楓はすぐに結界から出て、大斧を受け止めている絶磨に歩み寄った。

「絶磨……こいつら邪魔。……殺すよ」

「っは。相変わらず言うことが過激だな。―――だけどよ」

 絶磨が腕に力を込め、大斧ごとリョウメンスクナの体を押し返す。

「いいぜ、。殺ってやる」

 凶悪な笑いを浮かべる絶磨、無表情の楓。

 封鬼委員の中でも異色の二人が並び立つ。

 その闘気は、どちらも鬼の鬼気を圧倒的に凌駕していた。

 霧葉の言葉が燐夜の脳裏をかすめる。

「援軍……かぁ」

 燐夜すらも受けることを断念したリョウメンスクナの一撃を、身の丈ほどの大刀《覇界はかい》で軽々と受けとめる屈強な身体。戦いを心より求める漢、臥羅がら絶磨。

 リョウメンスクナの放った矢を手に装備した鉤爪の手甲、《裂災れっさい》で全て空中で叩き落とすという離れ業を見せた驚異的な身体能力を持つ女、崩山ほうざん楓。

 今の燐夜にとって、これ以上ない助っ人だ。

 の、はずなのだが……、

「絶磨……勝負……しよ」

 それは、戦場の殺伐とした空気も関係ない、楓が何の前触れもなく言った一言だった。

「勝負?」

 今まさに鬼の大群の中へ飛び出しそうと足に力を込めていた絶磨が、楓の一言に止まる。

「うん……勝負。どっちがたくさん……鬼を殺すか。私が勝ったら……。食堂のスペシャルパフェDX春限定版……奢って」

「俺が勝ったら?」

「……え?」

「……え、っじゃないだろ。俺が勝ったら何があるんだ?」

 絶磨の問いかけに楓はしばし悩むように首をかしげ、自分の薄い胸を指差した。

「最近……育ってきた。……揉むか?」

「揉むか――っ!」

 怒鳴る絶磨に、リョウメンスクナが再び大斧の一撃を放つ。

 しかし、驚くべきことに絶磨は、《覇界》すら使わず、籠手をはめた左手一本で、何事もないようにその一撃を受け止めた。

「人が話してる時に――――」

 絶磨が無造作に、《覇界》をリョウメンスクナの剛腕目掛けて振るう。

「邪魔してくれてんじゃねぇよ。雑魚がっ!」

 ドスンと重々しく地に落ちる剛腕。止めどなく噴き出す鮮血が、大地を朱に染め上げた。

「……邪魔」

 楓が跳ぶ。風のように軽やかに舞いあがる彼女は、たった一足の跳躍で電信柱よりも高いリョウメンスクナの頭上にたどり着いた。

「……ねぇ、……死んで」

 冷たく、無表情のままそう宣告した彼女は、拳を握り、かぎ爪の切っ先をリョウメンスクナの脳天に突き刺した。脳内が蹂躙されリョウメンスクナが悶える。しかし、最後に大きく楓が手首を捻ると、リョウメンスクナの眼から光が失せた。

 他の鬼を押し潰しながらリョウメンスクナが倒れ込む前に、楓は再び跳躍し絶磨の傍らに舞い降りる。

「まず……一体」

「あっ、コラてめぇ。まだ話は済んでねぇぞ!」

「……話? ……何の?」

「俺が勝ったらどうするかって話だっ」

 絶磨の言葉に、楓は再び胸を指差した。

「……不満?」

「そういう問題じゃねぇだろう」

 絶磨のこめかみにピキピキと血管が浮かぶ。

 しかし絶磨は、すぐに怒りを霧散させ、疲れたように提案した。

「はぁ……。俺が勝ったら今度の英語の宿題、代わりにやれよ」

 絶磨の提案に、楓はなぜか難しい顔をする。

「ん? どうした。嫌なのか?」

「ううん……。別に……いい。……だけど」

「だけど?」

 問いかける絶磨に、楓は自らの胸を鷲掴みにしながら悲しげに答えた。

「私の……胸、絶磨にとって……英語の宿題以下……なのか?」

「知るかっ!」

 こめかみに怒りを刻みそう吐き捨てて、絶磨は鬼の軍勢へと突っ込んで行った。

 そして助っ人に来たのがこの二人で、燐夜はとっっっても不安になった。


「オラッ――――」

 絶磨が殺気と闘気に身を包み、臆することなく鬼の一団へと突っ込んだ。力の限り振るわれる豪風を纏った《覇界》をまともに受けた数体の鬼は、銃丸さえ跳ね返す鋼鉄の身体を潰されるように切断され吹き飛び、かろうじて《覇界》の刀身から逃れた鬼たちも、絶磨の腕力が生み出す豪剣の剣圧に身体を切り裂かれ、血花を咲かせながら折り重なるように絶命した。

「ガーッハッハッハッハ」

 鬼の返り血を全身に浴び、その五体を濡らす絶磨が天に向かって哄笑する。

 その姿は血に飢えた獣か、はたまた戦場にのみその存在価値を見出す阿修羅か。鬼に向かって炯炯と輝く瞳が映し出すのは、それは人類に仇成す鬼への畏怖ではなく、狂気という名の胃袋を満たしてくれる標的への感謝だ。

「さぁーて、てめぇら。殺し合いだーっ!」

 たぎる血潮。みなぎる闘気。

 己が命でさえも欲を満たす道具。

 絶磨の体内の氣が、本能に応じ爆発する。両手で《覇界》を握り、大きく振りかぶる。振り落とされた一太刀により絶磨の眼前の鬼が縦に割れ、その赤黒い臓物を外気に晒した。その背後、絶磨を捕らえんと文字通りに腕を伸ばした鬼は、絶磨の下方から掬い上げた太刀の前に、その腕をズタズタに引き裂かれる。

 しかし、その剣圧に身体を切り裂かれつつも絶磨に間合いを詰めた鬼たちが、至近距離からから鋭利に尖った爪を絶磨に突き立てた。

 だが……、

「なんだ? お前ら何かしたか?」

 動きを止めた鬼たちを、凶悪な笑みに顔を染めた絶磨が見下ろした。

 鬼たちの放った鉄をも貫く鋭利な爪は、限界を超えて鍛え上げられた絶磨の鋼の肉体に阻まれ、致命傷どころか掠り傷一つ与えられない。

「攻撃っていうのはな――――」

 絶磨の酷薄な笑みの前に、恐怖を知らぬ鬼たちが恐怖する。 

「こうするんだよっ!」

 絶磨が《覇界》を逆手に持ちかえ、掬い上げるように繰り出した斬撃で身体に張り付いた鬼を力任せに薙ぎ払った。斬撃が刀身の根元であったにもかかわらず、その一撃を受けた鬼たちは衝撃に身体をバラバラに引き裂かれ、不揃いな肉塊となり宙を舞う。

 口元を歪め戦闘の歓喜に声を震わせる絶磨に、突然頭上から強烈なプレッシャーが襲った。

「うおっと!」

 ぎりぎりで笑いながら飛び退く絶磨、その背後の地面が爆散する。

 燐夜よりも一回り大きな体を持つ絶磨でさえ小さく見える巨躯。リョウメンスクナが赤暗い眼光の焦点を絶磨に合わせた。

 だが、立ち合うだけでその者の魂を吸い取りそうな四つの瞳を前にして、絶磨は逆にその暗き光を食いつくそうと、目を爛々と輝かせた。手に持つ《覇界》を持ち上げ、リョウメンスクナに合わせた切っ先をゆらゆらと揺らし、狡猾な笑みを浮かべた絶磨が挑発する。

「はっ。辛気臭い奴だ。ちょっとは笑えよ。まあ、笑ったところで元がソレじゃあ変わらねぇか」

 絶磨の皮肉に対するリョウメンスクナの感情は“無”。もとより、四つの腕を操る二つの脳は、獲物を殺し、その屍肉を貪ること以外の思考を持ち合わせてはいない。

「オ……オオオオ」

 重い不協和音の上げながら、リョウメンスクナが手にした異形の四つの斧を振り上げる。そして桁違いの筋肉に物を言わせ、一撃必殺を振り落とした。

 しかし、その圧倒的な死を前にしてさえ、絶磨の口元に浮かぶ凶悪な笑みが消えることはなかった

「オラァァァ――――ッ!」

 規格外の大剣《覇界》が絶磨の凶氣に応じて、その刀身から稲妻に似た青光りを上げる。

 絶磨の上方へ放った《覇界》の一撃は、一太刀で襲いかかる大斧を粉々に打ち砕いた。

 手にした得物が破壊されリョウメンスクナの動きが止まる。その瞳は絶磨から虚空になった手へと向けられる。

 その刹那。

 超重量の《覇界》を持った絶磨が跳ぶ。天空から振り落とした絶磨の一撃は、確実に双面の片面を縦に割った。

「GYAAAAAAAAAA」

 間欠泉のように噴き出す返り血。耳を突き刺す断末魔。

 悶絶するリョウメンスクナの肩に着地した絶磨が、さらにもう一つの頭へ《覇界》の刃を走らせる。横手から吸い込まれるように走る刀身がリョウメンスクナの両眼を横に裂く。

 眼光からどろりとした液体が流れ出し、もう一度断末魔を上げた巨躯が力なく倒れた。

 崩れるリョウメンスクナから跳び退き、見事に着地を決めた絶磨は《覇界》を片手に持ち直して大きく振りかぶり、前方に密集する鬼たちへ照準を合わる。

「ピッチャー振りかぶって――――」

 酷薄とした笑みを鬼たちに振り撒く絶磨。筋肉が撓み、隆々とした腕に筋ができる。そして、しっかりと大地を踏む両脚で体を支え、

「投げたーっ」

 絶磨は全身を捻る綺麗なホームで《覇界》を鬼目掛けて投擲した。

 直線状にいた鬼たちへ弾丸を思わせる速度で空を切る《覇界》が飛び、次々に鬼たちのどてっ腹へと突き刺さる。だが《覇界》に串刺しになった鬼は一体もいない。その一撃を受けた十数体の鬼は、その破壊的な威力の前に腹に風穴を開けた一瞬のうちに塵と化す。

 しかし、これで絶磨は自ら得物を失った。

 絶磨の手から武器が無くなったことを好機と見た鬼たちが、一斉に絶磨に跳びかかる。

「おおぉっ。かかってこい、かかってこい。いいハンデだぁ!」

 絶磨が笑い、そして吠える。そもそも、絶磨にとって武器の有無は関係ない。全身凶器である絶磨は、その四肢こそが本当の武器なのだ。

 突き出した右手の貫手が鬼の腹を軽々と貫通し、その背中から飛び出した。さらに絶磨は鬼をぶら下げたままの腕を水平に振るい、横手に跳びかかってきた鬼の首へ手刀を叩きつける。絶磨の手刀は鬼の頸骨を一撃で粉々に砕き、さらに腕にぶら下がっていた鬼の軀も、振るった腕の速度に耐えきれず胴半ばで千切れた。桁外れの握力に固められた左拳を胸に受けた鬼はただその一撃で命の鼓動を止め、勢いよく蹴り上げたつま先を顎に受けた鬼は、その威力に顎骨だけでなく頭蓋骨をバラバラに砕かれ、耳から脳漿を垂れ流しながら後ろで待つ鬼たちへとダイブする。

 絶磨が戦うところに次々と鬼の屍の山が生まれた。

 尽きることない体力と、果てることのない体技。

 求めるモノは生死を超えたその先にある、至高の極地。

「死にてぇヤツからかかってこいっ」

 返り血に濡れ凄惨な姿は、戦場における修羅そのもの。

 破壊神の恫喝に本能を刺激された鬼たちが自らも屍の山に加わるべく、その狂気に満ちた軀を絶磨へと投げ出した。


「絶磨……絶好調」

 鬼の中で力の限り暴れまわる絶磨を遠眼に見ながら、ぼそっと楓が呟く。

「……よし」

 自分から勝負を持ちかけた割に、彼女は燐夜の傍らからのんびりとした足取りで鬼の軍勢へと歩み寄った。

「ギャァァァァー」

 若い人間の女の匂いに、鬼たちの視線が楓に集中する。人の肉体を食す『肉噛』の好物は若い女性の肉。戦闘欲よりも食欲を重視する鬼たちが、我先へと顎を開き楓へ群がった。

「口……臭い」

 鬼たちの視界から楓の姿が霞んで、消える。プシューという液体が勢いよく飛び出る音。次々と喉から鮮血を迸る鬼たちは、己が欲望に溺れ、自身の命の灯火を消していった。

 倒れ行く鬼たちの背後に回り込んだ楓が両腕をシュッと振るい、鉤爪に付く血糊を振り払う。

「絶磨には……負けない。絶対に……スペシャルパフェDX春限定版……奢ってもらうんだ」

 楓はそう言って身体の力を抜いた前傾姿勢を取り、まさしく疾風と言える速度で鬼の軍勢へと身を滑り込ませた。

 速度を全く緩めぬまま、楓は《裂災》を操り、一体目の鬼の喉を見事に掻っ切る。二体目は《裂災》で顔面から串刺しにし、隣にいた鬼を掬い上げた反対の手の鉤爪によって縦三枚に下ろす。その後ろから楓の不意を突き真っ赤な舌が伸びたが、楓は見事にその舌を《裂災》で仕留めた。一瞬で舌を伸ばしてきた鬼との間合いを詰めたかと思うと、その胸部に舌の付いたままの《裂災》を突き刺し、一瞬の間も置かず心臓を抉り出す。

「うぁ~」

 危機を感じ、気の抜けた声を上げながら楓が大きく跳躍。

 今まで楓が立っていた地面がジュワッと音を立てて腐敗した。

 半分だけ開かれた眠たげな楓の瞳が、口が耳まで裂けた鬼を捉える。

 空中で体を捻る楓が、背後にいた溶解液を吐き出す鬼の側頭部を蹴り飛ばす。空中、しかも楓は体重がかなり軽い。だが蹴りそのモノの速度が桁違いだった。鬼は、あまりの速度に楓の膝から先が視認できず、その蹴りを食らった側頭部は陥没し、砕かれた頭蓋骨により目が潰れ、仲間を巻き込みながらその鬼は横手へ水平に吹っ飛んだ。

 フワッと音もなく着地した楓は、自分が倒した鬼たちを見る。

 そして…、

「1……2……3……4……」

 ご丁寧に自分の倒した鬼の数を数え出した。

 だがそこは『肉噛』のど真ん中。ようやく完全に視認できた楓へ、本能の命じるままに鬼たちが跳躍する。

 そのあまりの数に外部から楓の姿が遮断された。蟻の這出る隙間もない。

「キシャァァァーッ」

 楓を中心に、耳に残る不快な鬼の叫び声が木霊する。

「……ウザい」

 その中で、戦場には似つかわしくない澄んだ声が響いた。

 楓が《裂災》に氣を送る。両腕に備わった六本の爪が楓の氣を吸い神々しく輝きだした。

 逃げ場が無いなら、その全てを殲滅するのみ。

「……戦陣演舞せんじんえんぶ、……【つむじ】の舞」

 楓は両腕を大きく開き、己の身体を軸にして凄まじい速度で旋回した。楓に跳びかかった鬼は楓の舞にその軀をミンチにされ、さらにその遠心力により《裂災》から無数の針となり放出された氣が肉塊となった鬼の外を取り囲む集団へ次々と突き刺さった。正面をまるでハリネズミのように氣針で覆われ、その氣に身を焼かれ次々に鬼が崩れゆく。

 回転を止めた楓を中心として,累々とした鬼の屍が生まれた。

 楓はその鬼たちの躯をじーっと見つめ、

「……まあ……いいや。絶磨には……適当に言って。パフェ……奢ってもらおう」

 と、黒いことをサラっと言って、再び自身を風へと変えた。

 その身体にはいまだ傷どころか鬼の返り血さえ付いてはいない。腕力はないが、圧倒的な速度とまるで舞を踊っているかのような流麗な動きで戦う楓を捉えられる者は、同じ封鬼委員の中にもそうはいない。

 楓が進む所、《裂災》の爪が銀光に輝き、血の花が咲く。楓に回り込まれ後頭部から眼球を串刺しにされた鬼は、その残像すら眼にすることができなかった。

 楓はその鬼を蹴り飛ばし、刃を頭部から抜き取ると鬼軍の中に佇む一体のリョウメンスクナに狙いを定めた。


 楓の殺気にリョウメンスクナが反応した。

 蔓延る鬼の中を停滞することなく駆ける殺気が一体。その通るところ血路が生れ、次々に小鬼どもが朽ちてゆく。

 リョウメンスクナはその小鬼たちを無視し、一本目の巨大な武具を振るった。

 その一撃で十数体の鬼が押し潰される。殺気はなおも己に向かって加速し、跳び上がる。空中の殺気に向かって横手から振るう二本目の大刀。殺気はその大刀を踏み台にして、更に鳥のように高く跳躍。三本目。すでに天高く舞い上がった殺気には届かない。四本目。殺気が完全に視界から消える。

「……・遅」と呟く声。

 喉が裂け、血がほとばしる。

 四つの眼が一度に潰れ、色が消える。

 頭蓋が割れ……、


 重々しい音と共に、司令部の脳が破壊されたリョウメンスクナが他の鬼を押し潰しながら倒れ込む。すでにその巨体から離脱した楓は空中を軽やかに舞い、再び雑鬼の中へとその細き身を投じた。

 一切停滞することなく鮮やかに鬼の軀を裂く《裂災》は、楓の舞をさらに加速させる。逆袈裟ぎみに掬い上げた《裂災》で鬼のアバラごと内臓を切り裂き、折り返す刃を崩れる同族に隠れていた鬼の頭蓋を突き刺さしたかと思うと、脳味噌を掻き出すように一気に引いた。そのまま大きく後ろに跳んだ楓は、気配だけで背後の鬼の腸を《裂災》で引き千切り、横手から溶解液を吐き出す鬼は、《裂災》を大きく振り、その爪から氣でできた刃を飛ばす。気の刃を受けた数体の鬼は五体を引き裂かれ、氣で肉片を焼かれながら絶命した。

 風の如き速さで舞、雲の如く自由に流れる。

 捉えどころのないその動きは、戦場に舞う比類の舞姫。

 無表情の中に垣間見える物憂げな表情は、彼女をより一層美しく彩った。

「どうでも……いいけど……。学園で暴れる奴……許さない」

 楓の眼に力が籠り、《裂災》が一段と輝いた。


 絶磨と楓。二人の前に凄まじい勢いで鬼が屠られ、穢れた魂は抜け肉体を捨て、残された軀は灰へと変わる。

 初めはそのことに安堵し、燐夜は体力の回復に努めていたのだが、

「どういうことだ」

 その様子を眺めているうちに、燐夜は辺りの異様さに気付いた。

「鬼が減ってねぇ?」

 燐夜が初めに確認した鬼の数は、多く見積もっても300強。燐夜が初めに倒した鬼と今の絶磨と楓の戦闘力を考えれば、とっくに全滅してもおかしくないはずだった。

 だが実際は、鬼の軍団はその数を減らすどころか、むしろ増大していた。燐夜はさらに思い出す。自分がここに着いた時、リョウメンスクナの巨体はあったか。

 ――否、無かった。

「まさか……」

 燐夜が眼を凝らす。禍々と光る赤き鬼の眼がひしめく奥の、さらに奥。ちょうど初等部の子供たちのために作られたジャングルジムにそれはあった。

「【鬼門】……だと」

 暗黒が渦を巻き、負のエネルギーが溢れる穴。この世の邪念を栄養分とし吸収する悪しき口。そこには地獄と現世を繋ぐ絶望の扉となる【鬼門】が、ぽっかりとその大きな口を開けていた。

 しかし、これで増え続ける鬼にも合点がいく。今の状態は地獄の蛇口を全開に開いているようなものだ。【鬼門】を壊さない限りこの戦いは終わらない。

「俺が……ガハッ!」

「燐兄ぃっ。まだ動いちゃダメだよ」

 燐夜が口腔から血を吐き出し再び崩れる。体力はいくらか回復したが、肉体のダメージは燐夜が思っている以上に深刻だった。

 自分の不甲斐なさに苛立ち、燐夜が歯を食いしばる。

 だが悔いてばかりはいられない。燐夜は戦陣の真ん中で戦う仲間に向かって叫んだ。

「ぜ、絶磨ーっ。楓ーっ」

 燐夜の思いを乗せた言霊は戦いの騒音にも負けず、戦友へとその意思を伝えた。

 しかし

「チッ、このクソ。わかっちゃいるんだが」

「っ……。雑魚のくせに……多すぎ……」

 封鬼委員の中で、燐夜と同じく一騎当千の力を持つと称される絶磨と楓の二人は、次々と向かってくる鬼の前に苦戦はしないものの、その進行を止められていた。また、たとえ辿り着いたとしても、氣術や法術に頼らず白兵戦を得意とする二人に、これだけの鬼が一度に通る【鬼門】を封じる技術はない。

燐夜が手を考える。

 あれだけの【鬼門】を一人で封じることができるのは、封鬼委員の中でも特に氣術に精通している風林しか……。

「燐兄ぃー。にげてぇー」

「んなっ!」

 子供たちの声に燐夜の思考が途切れる。続けて結界が崩壊し、その衝撃で燐夜は吹き飛び、地面を抉りながら転がった。

 しかし、幾千という戦いを切り抜けてきた燐夜の身体は、体に残るダメージに関係なく動き、滑る体を地面から跳ね起こした。

「痛ってー。なんなんだ……」

 燐夜の思考が止まる。今まで自分が膝を折っていたところは陥没し、無骨な大剣が突き刺さっていた。その周りで小さな体を校庭に横たえる後輩たちの姿。視線を上げると、そこにはリョウメンスクナの赤暗い瞳が自分を見つめていた。

「はっ……ハハ……。何の冗談だ? おい……」

 燐夜の身体がざわめき、目から感情が消える。吹き飛びながらも決して離さなかった【断理】の刀身が暗い氣に包まれ、膨張する怒りに腕が震える。

 燐夜の周囲の風が、その氣に翻弄されるように激しく吹き荒れた。

「おい、コラっ。何の冗談だって訊いてんだよぉぉぉーっ!」

 深い怨嗟の叫び声が燐夜の口から洩れる。その眼は血走り、邪悪な鬼気が身体から溢れ出した。

燐夜の魂が鬼気に呑まれかけているのだ。

 このままでは燐夜は狂気のみが衝動となり、殺戮だけを好む狂人となってしまう。

 そんなことは、燐夜も重々承知の上だ。

 だが……

「許さねぇ……」

 今の燐夜は狂気を鎮める理性が完全に吹き飛んでいた。血に飢えた黒い【断理】を持つ腕に力が籠る。踏み出す一歩に大気が震え、溢れ出した鬼気はその身を漆黒に染め上げる。

 そんな燐夜の肩を、白魚のような美しい手がポンと叩いた。

「いけませんよ、燐夜さん」

 その澄んだ声は燐夜の鬼気を霧散させ、【断理】から黒い氣を洗い流す。肩で荒々しく息をする燐夜が振り向くと、そこには燐夜の起こした風の余韻に漆黒の髪を靡かせる着物姿の生徒会委員長にして浄化の巫女、天宝院藍夏がそこに立っていた。

「藍夏――――。俺は……」

 正気を取り戻し藍夏と眼を合わせる燐夜。しかし、いつも揺ぎ無い意志に固められていた燐夜の瞳は、鬼気に呑まれかけたという己の弱さに対する忸怩たる後悔に染まっていた。

「大丈夫ですよ。燐夜さん」

 自分の愚かさに唇を噛みしめる燐夜に、藍夏は暖かな微笑みを浮かべ、言葉を紡いだ。

「私も、そしてあなたも人間です。どれほどの力を持っても、我々は邪念を持つ心弱き人間なのです。悔やむことはあっても恥じることはありません」

 その言葉にどれほどの力があっただろうか。その言葉にどれほど燐夜が癒されただろうか。燐夜は再び迷いのない眼で藍夏の眼を見た。

 そして心から言った。

「ありがとう」

 その謝礼に藍夏は無言の頬笑みを返した。

「よし、じゃあすぐにガキどもを……」

「いえ。もう大丈夫ですよ」

 藍夏の言葉に、燐夜は辺りに目を走らせた。するとそこには傷つき倒れた子供たちを《手当て》しながら結界へと運ぶ、生徒会の姿があった。抱きかかえられた全ての子供たちの胸が小さく動いていることを認めた燐夜の顔に安堵が浮かぶ。

「今回は、一人ではありませんよ」

「みたいだな。じゃあ俺はあのデカブツを」

 燐夜がリョウメンスクナに狙いを定めて筋肉を緊張させる。しかし、もう一度藍夏が燐夜の肩を叩くと、筋肉が一瞬のうちに弛緩し燐夜が藍夏にもたれかかるように倒れ込んだ。

「藍夏。何をっ?」

 鬼の返り血に汚れた制服に何の躊躇もせず、眼を見開きながら自分に倒れ込んでくる燐夜を藍夏は優しく受け止めてその額に手を当てた。

「駄目です。燐夜さんは少しお休みになってください」

 藍夏は見抜いていたのだ。燐夜の身体がすでに疲労しきって戦える状態ではないことを

「な、何言ってんだ。離せ」

 叫びながら燐夜は何とか自力で立ち上がろうとするが、どうやら藍夏に身体の自由を奪う法術を掛けられたらしく、思うように力が入らない。

 一方藍夏は、必死に体を動かそうとする燐夜にクスクスと笑いを漏らしていた。

「あっ、こら藍夏。今お前、笑っただろう」

「はい、笑いましたが。それが何か?」

「何かじゃ……」

 燐夜の口が止まる。

 その瞳の先には、自分たち目掛けて武具を振り上げる巨影があった。

「おい、藍夏。あぶねぇぞ。早く術を解け」

「大丈夫です」

 焦る燐夜に対し、藍夏は微笑みながら気にせずに《手当て》を続ける。

「何をっ。死にてぇのか」

「だから、大丈夫です。何と言っても…」

 リョウメンスクナが標的を潰そうと腕を振り上げたその瞬間。

「藍様とあたしのダーリンに、何するかー」

 と叫ぶ人影がリョウメンスクナの眼前に迫り、素手の一撃をその無機質な顔面に放った。

 するとリョウメンスクナの頭部はまるでミサイルでも受けたかのように吹き飛び、ただの一撃で司令部を失った身体は、糸の切れたマリオネットのようにドスンと倒れ込む。

「今日は、おバカちゃんが一緒ですから」

 にこやかに藍夏が燐夜にそう告げると、素手でリョウメンスクナを殴り殺した人影が燐夜の前に降り立った。

「も、桃乃ももの

 自分を助けた人物が誰であるかを認めた燐夜が、慌てて動かない身体を気合で動かし、身を引こうとする。

 しかし、

「りーんちゃーん」

 豊満な身体と天性の怪力を持った破天荒娘。藍夏の近衛隊を務める桃乃は、最愛の人、燐夜を逃すまいと藍夏の膝から引き上げ、自身の胸へ力強く抱きしめた。

「いっ……んっ。ぬう、ハ……放せ」

「りんちゃん。大丈夫? あたしが誰か分かる。このところ会えなくて寂しかったでしょ。ああやっぱり、りんちゃんの抱き心地最高~っ。りんちゃん。フォーユーラブ」

「んが、離れろ。桃乃……」

「りんちゃん。りんちゃん。りんちゃん」

 燐夜の声が耳に入らない桃乃は、満面の笑みで更に力強く燐夜を抱きしめる。その様子を「あらあら」微笑ましげに見つめる藍夏。

 その周りを若い女子の肉を好む『肉噛』の鬼が取り囲みだした。

「おい、いい加減にしろ。桃乃、鬼が」

 眼の端で鬼の動向を確認した燐夜が声を荒げる。自分と桃乃だけならまだしも、鬼たちの殺気は地面に腰を落ち着かせている藍夏にも及んでいた。

 それは桃乃も承知の上だ。

 だが、桃乃には藍夏は大丈夫という確信があった。

「ん~。だいじょうぶ~。だって……」

 鬼たちは鋭い牙の覗く口腔から涎を垂れ流し、食欲の赴くまま三人へと飛びかかる。

 対する桃乃は燐夜にしがみつき、腕の中の燐夜の抱き心地を堪能しながら、鬼の一団を指差し、燐夜にウインクして「ほらっ」と言った。

 そして、次の瞬間。

 燐夜たちと鬼との間に一人の女子が滑り込み、二筋の銀光を走らせた。

 ほんの一刹那のうちに燐夜たちを取り囲んでいた全ての鬼たちの身体に、幾重にも細い筋が走る。

「我が主。天堂院藍夏様に牙を剥く者は、何人たりとも、この近衛隊九龍一色くりゅういしきが双剣、【凍炎とうえん】の露としてくれる」

 髪を長い三つ編みにして後へ流した女侍が、そう言って両腰に提げた二本の鞘へカチッ、と刀を収めた。瞬間。鬼たちの軀はコマ切れとなり、ある肉片は絶対零度の冷気に凍り、またある肉片は百熱の業火に焼かれ、跡形もなく消滅した。

「ナーイス。さすが、いっちゃん」

 桃乃が一色に向かって、グッと親指を立てる。

「ああ、桃乃」

 それに気づいた一色は笑顔を浮かべ、燐夜を抱きしめたままの桃乃に歩み寄り、

「何やっているか、このうつけが」

 ドガっと、情け容赦なく桃乃のお尻を蹴り飛ばした。

 桃乃はしっかりと燐夜を抱いたまま吹き飛び、土埃を上げながら地面へと転がった。

「いったーい。いきなり何すんの、いっちゃん?」

 地面に手を付き上体を起こした桃乃は、涙を浮かべ一色に非難を浴びせながら振り返る。

 するとそこには、こめかみを痙攣させ般若のような形相の一色が桃乃を睨みつけていた。

「『何する』……だと」

「あれ……いっちゃん? っちょ、まっ」

 怒りに声を震わせる一色は、神速の速さで腰の刀を抜き放ちその切っ先を桃乃に定めた。

「この痴れ者がっ」

 辺りに一帯に、一色の怒号が木霊した。

 その声たるや、襲撃のチャンスを見計らっていた鬼たちまでもが跳び退くほどの迫力だ。

「貴様こそ何をしている。我らが使命は藍夏様をお守りすることだろうが。その使命を怠け戦場で男に抱きついているとはどういうことだっ。そんな軟弱者、さっさと離さんか」

「へーん、そんなこと言って。実はいっちゃんもりんちゃんに抱きつきたいんでしょう?」

 桃乃はそう言うと、自分の下から這出ようともがく燐夜の身体をしっかりとホールドする。一方、桃乃の言葉に色白だった一色の顔が面白いように朱に染まった。

「なっ、何を破廉恥な」

「へー。やっぱりいっちゃん。りんちゃんにLOVEだったんだ」

「ばっ、ばば、莫迦なことを言うではないは。私の心と体は、藍夏様だけのものだ」

 ドンと胸を叩きながら、さりげなく恥ずかしいことうを口走る一色。

「それもホントだろうけど~。ねぇー」

「いや、俺に『ねぇ』と言われても」

 意味ありげな視線を燐夜へ送る桃乃。

「ふ~ん。でも、まぁ、やっぱりりんちゃんもおっぱいの小さい一色よりも、おっぱいの大きいあたしに抱かれる方が嬉しいもんね~」

 ブチッと、桃乃の後で何かが切れる音がした。

「「あ……」」

 燐夜が桃乃の肩越しに目を向けると、そこには憤激に【凍炎】を握る両腕を震わせ、顔を朱に染め、眼に憎悪を滾らせる一色の姿があった。

「おのれらぁぁぁぁっ!」

「お、俺もカ?」

「そこに直れ。叩き斬ってくれるわ!」

 そう言って《凍炎》抜き放ち、飛び出す一色。

 しかし、何の前触れもなくその身体が突然ピタリと止まった。

 いや、一色だけではない。燐夜に桃乃、果てには彼らの周りに再び円陣を組んでいた鬼たちすらも一様にその動きを止めていた。

「ダメですよ、一色」

 ゆっくりと、むしろ爽やかなくらい冷たい声で、藍夏が一色の名を呼んだ。

「あ……いか……さま?」

 その声に、顔面蒼白となった一色が唯一動く首を真横に回す。

「はい」

 怯えながら自分を見る一色に、藍夏はいつもの清楚な笑みとは違う、感情の籠っていない濁った眼で微笑んだ。

 その異様な氣を感じ、闘いの喧騒が驚くようにピタリと止む。

「なんだっ?」

「……こ、怖い……」

 視界が鬼に埋め尽くされても全く恐怖しなかった楓と絶磨の二人でさえその気を感じ取り、鬼を狩る手の動きを止める。一方、微笑みながら優雅に一色へと近づいた藍夏は、その細い指でスーと一色の頬を撫でた。

 一色の顔が白から青に変わり、幾粒もの汗が頬を伝う。

「いけない子ですね、一色さん。兆発を受けたとはいえ、仲間に刃を向けるとは」

「はいっ。藍夏様のおっしゃる通り。私が未熟者でございました。申し訳ございません」

 一色がガバッと片膝をつき、震える声で藍夏に首を垂れた。

「はい、よろしい。――――次に、桃乃」

「ふえ?」

 微笑む藍夏に名前を呼ばれた桃乃がビクッと震え、一色同様に顔を青白く染め上げる。

「いくら意中の人といえ。己が職務を他人に任せるとはどういうおつもりですか?」

「あ、いや……。それは、その……」

「はい? なんですか? よく聞き取れませんが」

 藍夏がその端正な顔をグイッと桃乃に近付ける。近距離で藍夏の瞳を見つめる桃乃の眼に涙が浮かび、零れた。

「ご、ごめんなさ~い」

「反省しているのならば、早く燐夜さんをお放しなさい」

「え~、そ~れ~は~」

 藍夏の言葉ながらも、桃乃の本能はさらに強く燐夜を抱きしめた。

「お放しなさい」

 藍夏の口調がさらに丁寧になり、眼がキランと光る。

 その光に桃乃の本能が何かを察知し、「は、はい。すぐに」と言って、パッと燐夜を手放した。

「と、った、とと」

 藍夏の《手当て》と十分な時間により体のほとんどを回復した燐夜は、自身の足で危なげなく立ち上がる。そして腕をグルグルと回しながら調子を確認し、「うしっ」と力強い気合を入れた。

 その肩を、やはりあの人が叩いた。

「調子がよろしくて何よりです。燐夜さん」

「あ、藍夏」

 《大叫喚》の鬼にすら怯まない胆力を見せた燐夜が、藍夏の笑みに激しく動揺していた。

「お、俺は……、何もしてないだろ」

「はい。ですが、このような場合は殿方がしっかり諌めてもらわなければなりませんね」

「い、いや。だけどな……」

「もらわなければ」

「あ、ああ。その通りだ。俺が悪かった」

 藍夏の頬笑みとは違う冷たい笑みに、燐夜がおどおどしながら早口で答える。

 それを聞いた藍夏は満足したように手を叩き、「はい、よろしい」と言って、ゾワゾワと蠢く鬼たちに向き直った。

「それでは、十分に時間稼ぎができたことですし。そろそろ幕引きと致しましょう。一色。法封女隊の首尾はよろしいですね」

「はい。すでに」

 藍夏の機嫌が元に戻り、恐怖から脱した一色がキビキビと答えた。

「鬼門反転送還の構築及び、鬼軍包囲完了。あとは藍夏殿の詠唱のみです」

 一色の言葉に、藍夏は凛と表情を固めた。

「わかりました。では、参りましょうか」

 藍夏が手を前に突き出し法気を高める。それだけで、藍夏の周りの大気中に満ちていた毒々しい鬼気が、一瞬で浄化された。

 藍夏が放つ法気。その法気に危機を感じ、一斉に鬼が藍夏へ飛びかかる。

 だが、その狂気は藍夏の髪の毛一本として犯すことは叶わなかった。

「燐夜さん。一色。桃乃」

「「はいっ」」

「わかってる」

 燐夜の刀が煌めく。

 藍夏に伸ばされた鬼の数の数倍にも及ぶ腕や舌が、閃光となり銀影の軌跡を残し駆け巡る【断理】によって断ち切られ、その汚い断面図を晒し、その本体たる軀も、燐夜の放った神速の斬撃により、瞬く間にコマ切れとなる。

 一色の双剣が走る。

 左手に握る刀は藍夏に向けて吐かれた摂氏数百度の溶解液を瞬時に凍らせ、右手に握る刀は鬼たちの軀を骨も残らず焼き尽す。

 桃乃の拳が唸る。

 他の鬼の倍ほどの軀を持ち、ライフルの銃弾さえ跳ね返す鋼鉄の皮膚を備えた鬼は、腹部に受けた桃乃の規格外の一撃で、死の瞬間すら超えて灰となる。

「私の命、彼方たちに預けますよ」

 法気の充填を完了した藍夏が燐夜たちに語りかけた。

 これから藍夏が始める呪文詠唱は法術の中でも最高位の術。一度詠唱を始めてしまえば終詠までの間、藍夏は完璧な無防備となる。

 しかし、藍夏の顔に恐怖による怯えはなかった。

 一太刀で5体の鬼の首を一度に刈った燐夜が、血濡れた【断理】を掃う。そして頬に付いた返り血を拭いもせず振り返り、心強い笑みを浮かべて言った。

「安心しろ。お前に近づく鬼は、俺が全て斬り捨てる」

 燐夜は闘気を刃に宿し、返す刀でさらに頭上の5体の鬼を、空中で容赦なく切り捨てた。

 傾けた刀から伸ばした業火で目前の鬼を骨も残らず焼き払った一色が、その焔を収め藍夏に向き直り、嬉しさの余り顔を恍惚させ藍夏に応えた。

「もったいなきお言葉を授かり光栄です、藍夏様。この一色、全てを賭けて藍夏様をお守りします」

 その後ろ姿に跳びかかった鬼は、振り向きもせず突き刺された一色の剣を腹に受け、氷の彫像となり粉々となり砕け散った。

 一点に威力を凝縮した突きの連打で数体の鬼をまとめて吹き飛ばした桃乃が、天真爛漫な笑みを浮かべながら手を振り、狂い叫ぶ鬼たちの邪声も吹き飛ばすような大声で叫んだ。

「はい、はーい。藍様に手を出す鬼は、あたしが許さないからね~、っと!」

 桃乃はさらに驚異的な破壊力を乗せた蹴りを、甲殻を持った蟹のような鬼に放ち、その頑丈な殻ごと鬼を叩き潰した。

 屍を積み重ねる三者三様の声を聞き、凛とした表情の中に小さな笑みを浮かべる藍夏。

 その覇気に、その闘気に、その笑みに、藍夏の身体から恐怖が消え去り、力が漲る。

 藍夏は一度大きく深呼吸して、喧騒の遥か先の法術師たちにも届く澄んだ声を響かせた。

蒼穹そうきゅうの空、閑静かんせいの台地、英護えいごの大海」

 藍夏の詠唱に、鬼軍を取り囲み法気を練っていた藍夏直属の13の法術師、法封女隊の法気が共鳴し青白い気柱が立ち昇る。

「三界を巡る風は全てを覆い、三界を繋ぐ水は全てを呑み込む」

 続く詠唱は法封女隊の法気を繋ぎ、溢れ出ていた鬼の大群は巨大な法気の円陣内に囚えると、法陣の中に光が溢れ、鬼たちが溺れているように苦しそうにもがき始めた。

「森羅万象に生きる者は、我が声に耳を傾け悪鬼を滅す力となり」

 次に続く詠唱で法陣の中をさらに強い光が埋め尽くす。

 その光は傷つきし者の体を癒し、鬼の軀は一瞬で灰にした上で、先に燐夜たちの手によって屠られた鬼の魂を含め一帯を綺麗に浄化した。

 鬼がすべて消滅したことにより、校庭が一気にガランとなる。

 しかし、まだ終わりではない。

 鬼を招く入口である【鬼門】は未だぽっかりと口を開けていた。

 藍夏と法封女隊たちは、最後の仕上げを行うべく揃って【鬼門】に目の焦点を合わせ、法気の力を最大限に高める。

 そこに、藍夏の最後の詠唱が加わった。

「因果応報を知る者は門を閉じるやしろと成れ」

 【鬼門】閉じるために法気の社が藍夏の詩に姿を現し、黒々とした【鬼門】を隔てるように組み上がった。純白の外装は神々しいまでの威厳に満ち精巧に作られた外郭は邪悪なる気の全てを覆い尽くす。

 しかし、今回学園に出現した【鬼門】は藍夏たちの予想以上に巨大なものだった。純白だった社が【鬼門】の邪気を受け徐々に暗黒に染まってゆく。

「くぅっ」

 突然、門に向って手をかざす藍夏が苦しそうな声を洩した。

 清楚な顔には焦り以外の汗が流れる。

 その声に、燐夜が「おい」と声をかけた瞬間、藍夏の腕に禍々しい呪印が走り出した。

 藍夏の突き出す腕が、【鬼門】の邪気に侵され始めたのだ。

「藍夏様、まさかっ!」

「大変っ!」

 藍夏の異変に気づいた一色と桃乃が、慌てて傍に駆け寄った。

「藍夏様、今すぐ法術を御止ください。このままでは藍夏様の御身体が」

「そうです、そうです。早く止めなきゃ」

 藍夏の身体を気遣い、血相を変え懇願する一色と桃乃。

 しかし、藍夏は首を縦には振らなかった。

 藍夏は気丈に微笑み、自分が命の危機であるにも関わらずはっきりと言った。

「なりません」

「何故ですか? 藍夏様」

「私の身体よりも、今はあの【鬼門】を閉じることが先決です」

「でも、それじゃ藍様が」

「大丈夫です。このくらいの邪気など」

 邪気に侵された藍夏の身体が、自らの意思とは関係なく大きく崩れる。

「「藍夏様ーっ」」

 一色と桃乃の叫び声。閉じる視界。傾く身体。

 咄嗟のことに平常心を欠いた二人は動けない。

 しかし、藍夏の身体は地面に倒れることはなかった。

「相変わらず無茶する奴だな」

 再び瞼を開く藍莉の眼前には、背中に手を回し身体を支えながら呆れた顔で自分を覗き込む、燐夜の力強い双眸があった。

「……燐夜さん?」

 藍夏が燐夜の名を呼ぶ。

 一方燐夜は、藍夏の声に答えず、呪印に侵された藍夏の細い手を取って「チッ」と舌打ちをし、苛立ちげに藍夏を怒鳴った。

「こんな細い腕で頑張るなっ、このバカっ」

 藍夏に対する燐夜の言葉に、一色が「なっ」と顔を引き攣らせた。

「紅月、貴様っ」

「っちょ、ちょっと。いっちゃん落ち着いて」

「放せ、桃乃。こやつ、もはや生かしてはおけん」

「待って、待ってたら」

 刀を抜き、燐夜へ襲いかかろうとする一色を桃乃が羽交い絞めにして止める。

 対する燐夜は一色のことなど歯牙にもかけず、藍夏の腕をより強く握りしめた。

 すると藍夏の腕から呪印が引き、代わって燐夜の左腕に呪印が浸食し始めた。

「り、燐夜さん」

 燐夜の行動に、今度は藍夏が動揺する。

「は、放してください。このままでは、あなたの身体が」

 藍夏は燐夜のとった行動に対して、先ほど一色が自分に言った言葉を口走った。

 だが、もちろん燐夜は手を離さない。すでに、呪印は燐夜の肘に及んでいる。想像を絶する苦痛が燐夜の身体を駆け巡る。

 それでも、藍夏を支える腕の力は緩めず、燐夜は気力だけを頼りに意識を繋ぎ、完全に暗黒に染まった白い社を指差した。

「俺のことはいい。お前は、あいつを早く消せ」

「しかし」

「早くしろって言ってんだ。てめぇは何のためにここにいる」

 燐夜が叫ぶ。【鬼門】の邪気を囲む社は、もう幾ばくも持たない。

「……わかりました」

 燐夜の言葉と、その強い目の光に、藍夏が再び【鬼門】へ手をかざし、最後の詠唱を唱えた。

「我が名 天宝院藍夏において集え九法の法気

 無形の楔と成りて、彼の門を永久に閉じよ」

 藍夏の声に応え、九浄学園の気が社に集まり集束する。

 その社に集まった気は無数の鎖となり社に絡みつき、社ごと一気に絞り上げた。

 辺りが眼を焼くような眩い光に包まれる。

 【鬼門】は社ごと鎖によってその口を閉じられ、後には亀裂一つ残さず消滅した。

 校庭に静寂が広がる、藍夏を支え続け、【鬼門】の最期を見届けた燐夜がグラッとよろけ、背中から地面に倒れ込んだ。

「燐夜さんっ!」

 藍夏が慌てて燐夜の頭を持ち上げ、自分の膝の上に寝かせる。

 それを見て再び騒ぎ出した一色は、藍夏の放った一睨みで仔猫のように押し黙った。

 再び燐夜の顔に目線を合わせる藍夏は、燐夜の呼吸が安定していることに胸を撫で下ろす。そして、黒く呪印が刻まれた燐夜の腕を取りその邪気を浄化しながら、薄く眼を開いた燐夜に口を尖らせて言った。

「『自己犠牲は何も生み出さない』のではなかったですか?」

 朝自分が藍夏へ向けて言った言葉をそのまま返され、子供のようにそっぽを向く燐夜。

「うるせぇ。俺はいいんだよ。俺は」

 顰め面を浮かべる燐夜だったが、向けた視線の先に浮かぶ鬼の恐怖から脱し、花のような笑顔を浮かべている後輩たちの姿が見て、その頬を安心したようにその頬を緩めた。

 それからほどなくして、絶磨と楓が大暴れできて大満足と言ったふうに戻ってきた。

「おいおい凛夜。お前最近、膝枕運が急上昇してねぇか?」

「ほんとだ……。これは……夏姫に報告……しなきゃ」

「はははははっ。そりゃいいな。面白いことになるぞ、きっと」

「くだらねぇこと言ってんじゃねえよ。――――怪我、してねえだろうな」

「ぐあぁぁぁぁ。急に腕がぁぁぁぁぁー」(棒読み)

「絶磨……大丈夫……?」(棒読み)

「大丈夫だな、間違いなく。頭以外は」

 2人とも、制服は引き裂かれ体中を鬼の返り血に染め上げるという、なんとも凄惨な恰好をしていたが、ほとんど無傷の状態で生還してきた。

 一旦はふざけた二人だったが、すぐに寝そべっている燐夜に向かって、

「当たり前だ」

「もち……」

 と、言い放った。

 誰からともなく噴き出す笑い声。

 先ほどまで生死を分ける闘いの中にいた者同士が、互いの健闘を讃え合う。

 その祝笑を遮ったのは、サブ液晶に「霧葉」の二文字を浮かべた燐夜の携帯電話だった。


「【鬼門】は……、閉ざされたのか」

 学園内にある礼拝堂。礼拝者たちのための長机と椅子の間を、八雲は一人歩いていた。

「まあ、その程度のことができなくては泳がせている意味もなし、か……」

 彼の独白はレンガ造りの礼拝堂の中に木霊し、冷たい大気と一体となった。

 ゆったりとした足どり。彼の瞳にはステンドガラスの真下に倒れる、魂無き少女へと向けられていた。

 壇上へと続く小さな階段を上り、八雲は静かに目を閉じる少女、三神を無言のまま見下ろす。その細い腕、白き肌は、今朝封鬼委員室で見たときとまったく変わらない活きる者特有の儚さを保っていた。

ただ一点、乱雑に切り取られた彼女の髪を除いては。

 半身を冷たい礼拝堂の床につける三神。八雲はその傍らで膝を折り、まるでガラス細工を扱うように、慎重にその肩へ手を伸ばす。

 布越しに伝わる体温。僅かに聞こえる呼吸音。

「あと……四つ」

 冷静な眼差しで動かぬ三神を捉えながら、八雲は自分自身で確かめるように言った。

「計画が成功するかは奴ら次第というわけか」

 八雲が手の掌に氣を送る。

 三神の中に溶け込んだ八雲の氣は、三神の中で式となった。

 バタンと何者かが礼拝堂の扉を勢いよく開け、その音が礼拝堂の中を駆け巡る。

「三神……」

 聞き覚えのある声に、八雲は三神から手を放す。立ち上がると同時に振り向いた先には、白い制服を地獄の池の様に赤黒い返り血で彩った学生、紅月燐夜が立っていた。


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