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第二章

「この三バカトリオっ。鬼玉を待ったままカラオケに行くなんてどういう神経してんの?」

 春の風がようやく温かくなった早朝に、気持ち良いくらいの怒鳴り声が響き渡った。

 声の主、髪を肩ほどで切り揃えた燐夜や四季と同じ三年生の女子生徒。雪野ゆきの夏姫が、怒り心頭と言った面持ちで彼女の前に正座している燐夜たちを睨みつける。

「な……つ……き。でかい声……出すんじゃねよ。頭に……響く」

 ぐらぐらと痛む頭を押さえ、燐夜が弱弱しく抗議の言葉を吐き出した。

「朝まで飲んでるからでしょ。自業自得よ、バカ燐夜。第一、高校生が飲酒なんかしていいと思ってんの」

「だ……から、謝ってん……だろ」

「そうですよ~。反省してますから~」

「胡桃はいつもそう言ってばかりで、全然進歩してないでしょ」

「まあまあ、夏姫。そんなに怒らなくても」

「四季は黙ってなさい。――だいたいね、燐夜。あんたは昔から……」

 胡桃と四季を一蹴し、夏姫はさらに燐夜を攻め立てる。

 ここは封鬼委員室。昨夜鬼を封印した後、結局明け方まで胡桃に付き合わされた燐夜と四季は、胡桃を連れてそのまま登校。仮眠を取るためにその足でこの部屋に向かったのだが、そこで待ち受けていた夏姫に捕まり、こうして延々と説教を受けているのだ。

「コラッ。燐夜。聞いてんの」

「うる……さ……いな……」

「うるさい?うるさいって何?うるさいって」

「や……め……て……くれ。頭が……割れ……る」

 力いっぱい怒鳴る夏姫の対し、燐夜はどんどん弱っていく。まあ、ここ数日続く真夜中の鬼の封印のよる寝不足に加え、二日酔いともあればそれも仕方ないのだろうが……

「たくっ。ねえ、白都君も何か言ってやりなさいよ」

 夏姫の要請を受けて、パソコンのキーボードを叩いていた利発的だが年よりもどこか幼さを感じさせる二年生の男子学生。滝牙白都たきが・はくとが椅子ごと振り返った。

 そして、人辺りの良さそうな顔に、これまた人当たりの良い微笑みを浮かべて一言。

「朝から楽しそうですね」

「違うでしょっ!」

「四季さん。例の封札はどうでした?」

「もう、ばっちり。頼もしい限りだよ」

「それは良かった」

「そうじゃなくて。この出来の悪い先輩に何か一言無いの?」

 そう言って夏姫がビシッと燐夜を指差す。

「もう、いいんじゃないですか? 夏姫さん。そろそろ許してあげないと、燐夜さんが倒れちゃいますよ」

「そ~……だ~……。いい加減……に……しろよ。この……、乳無し……女」

 その言葉に、四季と白都が「……あ」っと言葉を洩らし、夏姫がわなわなと拳を握った。

 そして数秒後。

 夏姫の震えが静かに止まり、同時に、彼女の顔が感情の欠落した冷酷な笑みが刻まれた。

「胡桃。そこのスピーカー取って」

「はいっ。――――どうぞっ」

「あっ、こら! 胡桃、なにやって……。おい、夏姫。やめ……」

 燐夜の制止に全く耳を貸さず、夏姫が胸一杯に空気を溜め始める。

「燐夜の……」

 四季たちが耳を塞ぐ。

「ッバッカァッッッ――――ッ」

「うがぁっ!」

 夏姫による渾身の一声は、キーンと大気を震わせ、金魚鉢のガラスにヒビを入れ、燐夜の聴覚を蹂躙し、意識を暗い闇の淵に叩き落とした。

 そんなこんなで数十分後……

「んあ……」

 全身を包み込む清らかな氣に、燐夜は目を覚ました。

「ああ、良かった。大丈夫ですか? 紅月こうづき先輩」

 燐夜の顔にかかりそうな長い髪。目に映る、大きな瞳の女子生徒が誰であるかを認識し、燐夜はフーっと大きく息を吐いた。

「あ、あの。体内のアルコールは氣で分解しました。左腕の裂傷、左腕・胸骨に入っていたヒビもすでに完治しているはずです。そ、それと……」

三神みかみ

「は、はいっ」

 ただ声を掛けただけで妙に慌てふためく、九浄学園高等部一年、三神真衣まいに小笑を洩らしながら、燐夜は身体の調子を確かめて言った。

「治癒術。また上達したみたいだな。一年でそのレベルなら大したもんだ」

「い、いえ。あの、……ありがとうございます」

 燐夜の称賛に三神は顔を真っ赤に染め、蚊の鳴くような声で呟いた。

 氣の潜在量が多く治癒術に長けた三神は、掌を触れることで相手を回復させる《手当て》を詠唱抜きで使うことができるのだ。

 その恩恵をもう少しだけ預かろうと、燐夜は目を閉じ力を抜く。

「あの、紅月先輩。治癒は終わったので……その…」

 耳を打つ、妙に歯切れの悪い三神の声。

 「ん?」と怪訝な顔をした燐夜が、後頭部に伝わる温もりと柔らかな感触に気がついた。

 ――膝まくら?――

「いつまでそうやってるのよ。このドスケベ」

 燐夜が自分の状態を把握し身体を起こそうとしたのと、夏姫が鋭い蹴りを放ったのはほぼ同時。夏姫のつま先が見事に燐夜の脇腹を抉り、「ぐふっ」という呻きを残し、燐夜は備え付けられたソファーへと綺麗にふき飛んだ。

「おい、こら。いい加減にしろよ、夏姫。本気で殺す気か?」

「いい加減にするのはそっちでしょ。いつまでもデレデレして。緊急事態なのよ」

「誰がデレデレして……。緊急事態って何だ?」

 夏姫に対する憤りを一瞬にして消し、起き上がる燐夜の表情が一気に張り詰めた。

かえで風林かざばやし霧葉きりは絶磨ぜつままで。どういうことだ?」

 燐夜の前には、先ほどまで部屋にいた者も含め、封鬼委員の面々が一様に厳しい顔で揃っていた。状況を把握できない燐夜に、四季が説明を始めた。

「おい。……ウソだろ、四季」

 四季の言葉を、燐夜は素直に受け止めることができなかった。

 四季も燐夜の反応を予測してか、首を横に振り同じ言葉を繰り返す。

「ホントだよ。昨日の夜。場所は九浄学園生物室。一人の女子生徒が『魂噛こんがみ』にあった」

「そんな馬鹿げたことがあるか。ここは鬼を封じるために作られた学園、九浄学園だぞ」

 燐夜の主張はもっともだった。燐夜たちが通う九浄学園は、日本各地に作られた対鬼・封鬼のための学園の中でも屈指の地力を持った学園だったからだ。

「でも。九浄学園だって絶対じゃない。それに、実際に被害者が出たんだ。――霧葉。もう一度確認も込めて説明してくれる」

「わかったわ」

 四季に答えた女子にしては長身で、どこかキツイイメージを持たせる、眼鏡をかけた燐とした佇まいの生徒。高等部三年の五月雨霧葉さみだれ・きりはが手に持った資料をめくった。

そして、眼鏡の奥に見える鋭い目を細め、現在分かっている情報を読み上げる。

「被害者は、高等部二年の浅岡亜美。今朝、7時46分に出勤した生物の青山教師により、生物室で『魂奪』されているところを発見。検視がまだなので魂を奪われた詳しい時間はわからないけど、彼女のルームメートの証言では昨晩午後9半ごろに学校にノートを取りに行ったきり戻らなくなったとのこと。昨日は決算のため学校に残っていた売店の明美さんが玄関で彼女に会っているらしいわ。犯人は不明。現在は生徒会長、藍夏あいかの指揮で調査が行われている。……ただ、ひとつだけ不可解な点が」

「不可解?」

 燐夜が眉を寄せる。校内で鬼が出現した上に、まだ不可解なことがあるというのか。

「ええ。調査班によると被害にあった浅岡さんに二重の術式が施されていたらしいのよ」

「術式? その用途は?」

「わからない。ただ、非常に高度な術式よ」

 そう告げる霧葉の頬にツーっと汗が流れた。

「……術を掛けたのは、十中八九犯人だろうな。この学園に侵入できるってことは、並大抵の鬼じゃない。学園の対応は?」

「校長の指示で事件を公にせず、普段通りに運営するとのことよ。ただし、生徒会及び封鬼委員は事件解決に全力を尽くこと」

「校長が? ……本当か?」

 霧葉の言葉に燐夜が眉を顰める。九浄学園の現校長、黄浜堂穀きはま・どうこくは学園の体裁よりも人命を優先する人物だ。ゆえに、鬼が潜んでいるかもしれない状態で生徒を登校させるなど、どうも燐夜には腑に落ちなかった。

 霧葉は、表情から燐夜の胸の内を読み取り、言った。

「生徒を不安にさせないための処置だそうよ。それに……」

 そこで一度言葉を区切った霧葉は、鋭い眼光を年相応に和らげ、続けた。

「この学園の生徒たちが学内に鬼が入ってきたなんて知ったら、それこそみんなで討伐しようとして勉強どころではなくなるでしょ」

「……まぁ、たしかに」

「どうしても気になるなら、昨晩の報告もあるし、これから校長室に行ってみるといいわ。はい、これ。昨晩封印した鬼玉。ついでに提出しておいて」

そう言って霧葉は鬼玉を燐夜に差し出した。

 その鬼玉を受け取った燐夜は、封鬼委員の中で最も鬼の存在を探ることに長ける一人。お菓子を口いっぱいに頬張りながらツインテールを揺らす、茶目っ気のある碧眼と褐色の肌が映える女子生徒、中等部二年生の風林芽依かざばやし・めいに声を掛けた。

「風林。学園全体に【鬼気捜羅ききそうら】を掛けてほしいんだが、できるか?」

「ングング。ゴックン。大丈夫っす。任せてください」

 元気よく返事をし、立ち上がる風林。彼女の気を逸らさぬよう、周りにいたメンバーは彼女から少し距離を取る。

「四方の厄 

 八方の災い

 彼の根源を求め駆け巡れ 

 氣道参拾壱が一つ【鬼気捜羅】」

 終唱と共に風林が床に手を付けると、その手を起点として鬼を探るために飛ばされた氣が円状に広がった。時間にして数分。「終わったっす」と【鬼気捜羅】によって学内を探索した風林が、結果をメンバーに報告する。

「結論から言うと、現在、学内において具現化している鬼はいなかったっす。でも……」

「でも?」

「もし、誰かに憑依していたり隠密性に長けた使い魔を使役されてたらお手上げっすね」

 そう言って、両手を大きく上げる風林。

「そうか……、わかった。ご苦労さん」

 風林の報告を聞いた燐夜は、完全に覚醒した頭をフル稼働してコンマ二秒で状況を整理。そして、立ち並ぶ仲間に封鬼委員委員長として指示を飛ばした。

「霧葉と白都は現場、四季と三神は検視の生徒会の連中と合流して詳しい検証を頼む。崩山、風林、絶磨、胡桃は校内の警備及び探索。夏姫は俺と一緒に校長室に来てくれ」

「「はい」」

「「わかった」」

 燐夜の指示に、封鬼委員の一同が頷く。

 その瞳は同じ道の先を映していた。

「この学園に、俺たちに喧嘩売ったことを後悔させてやる。行くぞっ」

「「おうっ!」」

 心を一つに九浄学園の封鬼師たちが叫ぶ。

 しかし、彼らの士気をあざ笑うかのように、先ほどまで光が差し込んでいた窓から覗く空には、黒々とした暗雲が立ち籠めていた。


 九浄学園は初等部から高等部まで受け持ったマンモス校であり、その敷地面積は広い。まだ初々しい初等部の教室からは、外の陰気な空にも負けない元気の良い声が響いている。

 彼らの声を聞く燐夜と夏姫は、この声を不安にさせてはならないと校長室に向かう歩速さらに早めた。

 その途中、歩きながら夏姫が燐夜に訊いた。

「燐夜、どう思う?」

「鬼がこの学園で事件を起こすなんてありえねぇ。って言いたいところだけどな」

「被害にあった子の身体が朽ちるまで、タイムリミットは一週間。間に合うかな」

「間に合わせるしかないだろう」

「そう……だよね。あと……一週間」

 夏姫がそう言って俯く。気は強いくせにこういうときは弱気になる幼馴染の横顔を見て、燐夜は荒々しく頭を掻いた。

「悪い癖だな。『あと』じゃねえ『まだ』一週間ある。おまえも、封鬼委員ならもっと胸を張れ」

「……うん。そうね。こんなの、しおらしいなんて私らしくないしね」

「自分の立場、よぁーくわかってんじゃないか」

 そう言って意地悪く笑う燐夜の鳩尾に夏姫が肘鉄を食らわせながら、2人は初等部の校舎にある九浄学園校長室にたどり着いた。

 コンコンと軽くノックをして燐夜が扉を開ける。  

「失礼します」

「燐夜君ですか……、待っていましたよ」

 扉の向こうでは、九浄学園校長、黄浜堂穀は校長用の机に備え付けられた質のいいイスに座り燐夜たちを迎えた。堂穀は白髪の髪に優しげな顔つきをした老人だが、数十年前に封鬼師として英名を轟かせたその眼光は今なお衰えることなく強硬な意志が宿っている。

「おはよう、校長。昨晩の封鬼の報告、そして学内で起きた『魂噛』について、話に来たんだが、今いいか?」

「はい。おねがいします」

 挨拶もそこそこに、燐夜は夏姫と共に校長の机に近づき、校長の前に鬼玉を置いた。

「まず、昨晩確認した鬼は《大叫喚地獄》の鬼も含め全て封印した」

「夜遅くに頼んで悪かったね。っで、《大叫喚地獄》の鬼と戦った感想は?」

「問題なし。相手は真名も名乗らなかったしな」

「そうか……。燐夜君なら、もう《大焦熱地獄》の鬼ともやれるんじゃないかい?」

「それは、買いかぶりすぎだ、校長。……それより」

 燐夜の声が俄かに重くなる。

「昨晩校内で起きた魂奪の件について。校長はどう思う?」

「学内での鬼による人的被害。まあ、前例がないわけではないですが」

「この件について、授業を普段通り運営すると決定したんだよな。どうしてだ? いつもの校長なら、すぐに学生を避難させるんじゃねのか」

 燐夜の質問に、校長は「ふむ」と指で顎髭を撫でた。

「この学園が鬼を封じるために建てられたということは、燐夜君なら知っているよね」

「んっ。あ、ああ」

「この学園はね、言うなればこの地の地脈を利用した檻なんだよ。そして、この学園に通う生徒たちや先生方の氣はその檻の鍵。私としても、ただちに生徒たちを避難させたいのだけど、鍵なくしては、檻はただの箱になり下がる。――それに、この学園に鬼がいるなんて生徒たちに伝えたら、自ら討伐しようと授業を放棄する者が続出するからね」

「同じこと、霧葉も言ってたよ。血の気の多い奴の集まりだからな、この学園は」

 そう返す燐夜に、堂穀はさも可笑しそうに哄笑した。

「もう一つ言えば。今この学園には、優秀な封鬼師の先生が少ないからね。鍵の方が力不足なんだよ。君たち封鬼委員の顧問だった世登せと先生も学校を変わられたしね」

「そう言えば、今回の異動は多かったな」

「地方の方は人材不足だからね。その点、この学園には君たちのような優秀な封鬼委員がいるから、逆に新米が集まってくるんだよ」

「それって、喜んでいいんですか?」

 堂穀の言葉に、と夏姫が照れたように頭を掻きながら答える。

 そして、「あれっ」と何かを思い出したように続けて校長に質問した

「そういえば。前に言っていた、校長先生の母校から来られる私たちの新しい顧問の方は、まだ来れないんですか?」

 夏姫のその言葉に、今度は堂穀が「そのことなんだが」と困ったように頭を掻いた。

「実は先方の方で問題が起こってね、到着がもう少し遅れるらしいんだ」

「そうなんですか?」

「ああ。だが、安心してくれ。それまでは臨時として、代わりのものを用意した。ちょうどいいから、今から会ってもらうよ。――八雲やぐも君、入って来てくれるかい」

 堂穀が呼ぶと、燐夜たちが入ってきた扉とは別の扉が開き、一人の男性が入ってきた。

秋間あきま八雲だ。封鬼委員というのは、おまえらか?」

 他人を突き放すように燐夜たちに挨拶をしたのは、まだ若く、鷹のように鋭い眼光をした青年だった。

(ん?)

 そのとき燐夜はなぜか八雲の強烈な存在感がどこか不安定であることに違和感を感じた。しかしすぐに気持ちを改め、自ら挨拶を返す。

「九浄学園封鬼委員長、紅月燐夜」

「同じく。封鬼委員の雪野夏姫です」

 自己紹介と共に八雲へ手を差出した夏姫だったが、八雲はそれを無視した。

「私は、お前たちと慣れ合うつもりはない。今回の事件についても独自に動かさせてもらう。だが規則に従いお前たちが負うべき全責任は私が受け持つ。せいぜい頑張るんだな」

 八雲は早口に言い残し、冷ややかの眼差しと共に校長室から出て行った。

 八雲の態度に夏姫は不満を表わにする。

「何あれ、感じ悪るぅー」

「すまないな、夏姫君。大目に見てやってはくれないか? あれで腕では確かなんだ」

「ですけど。私は嫌いですね。ああいう、傲慢な人は。彼、絶対にB型ですよ」

 夏姫の言葉に堂穀は苦笑した。

「燐夜君も、新任の顧問が来るまでよろしく頼むよ」

「俺も、仲良くできる自信はないな。あいつ、校長の知り合か?」

「難しい質問だな。知っているかと聞かれれば、たぶん誰よりも知っているだろうが……」

「じゃあ、何か弱みとか知りませんか? わたし、何とかしてあの人の鼻を明かしてやりたいんですけど」

 未だイライラを募らせる夏姫に堂穀は含み笑いを浮かべ「一つだけある」と指を立てた。

「八雲の左首筋に小さな傷痕があっただろ」

「はい、ありました」

「実はね、あれは彼が子供の時、寝相が悪くて階段から落ちた時についた傷なんだよ。コレを言うとね、彼、凄く怒るんだ」

 堂穀から教えられた八雲の恥部に、夏姫は拳を握り高らかと突き上げた。


「じゃあ、俺たちは鬼の発見・討伐に向かう。他のことは、今話し合った通りで」

「はい、お願いします。これ以上被害者を出さないためにも、全力で任務にあたってください」

「「はい」」

 今後の対応を堂穀と話し合った凛夜たちは、八雲から三十分ほど遅れて校長室を出た。

「ふぅ。これで封鬼委員全員の公欠申請は終わったわね。この後どうする。私たちもすぐに、探索へ向かうの?」

「いや、俺たちは明美さんに会いに行く」

「明美さんに? どうして?」

「被害にあった女の子を最後に見たのは明美さんだって、霧葉が言ってたろ。話を訊いてみる価値はある。その後は、守衛さんにも話を訊いてから俺たちも捜索に加わる」

「わかったわ」

 そう言って二人は、校長室から明美が担当する売店へと歩を進めた。

 休み時間なら廊下にも生徒たちが恋や最近の流行に花を咲かせているのだろうが、今は2限目の真っ最中。初等部の校長室から高等部の売店まで燐夜と夏姫がすれ違ったのは、数人の教師と事務員のおじさんだけだった。

 校内を歩くこと数分。高等部一階の玄関を入ってすぐのところにある売店「アサガオ」で、忙しく棚卸をしていた一人の女性が、授業中にもかかわらず二人揃って歩いてくる燐夜と夏姫に満面の笑みを浮かべながら大きく手を振った。

「おーい。燐夜に夏姫。2人そろって授業抜けだすなんて、いよいよ付き合いだしたか?」

「誰がこんな暴力女と」

 ガツン、と燐夜の顔面にスナップの利いた裏拳が突き刺さった。

「だ・れ・が。暴力女ですって」

「お前以外に誰がいるだよ」

「なんですって!」

「はいはい。あついあつい。お二人さん、痴話喧嘩なら他所でやってくれる?」

「誰がこんな奴と。明美さん、いい加減にしてよ」

「あっはっはっはっは。おぉー、怖い怖い」

 夏姫の抗議に、学校の売店を切盛りするには若く長い髪の綺麗な女性。喜原きはら明美がまるで男性のように豪快に笑った。

「夏姫を煽るのも大概にしろよ、明美さん。とばっちりを食うのは、いつも俺なんだからな。それに、何で俺たちが来たかくらい、分かってんだろ」

「ええ、昨日の『魂奪』の件よね」

 そう言って、明美は今までの笑みが嘘のように頬を緊張させた。

「ああ、何でもいい。何か変わったことはなかったか?」

「ホント、なんでもいいの。明美さん、何か気付かなかった?」

 二人の問いに、明美はカウンターに肘を立て、両指を絡ませた上に顎を落とし答えた。

「うーん、そーねぇ。先に来た生徒会の子たちにも話したんだけど、被害にあった女の子に変わったところ……は、無かったと思うわ」

「じゃあ、何か変な物音を聞いたとか、変な気配を感じたとかは?」

「それも、無いわね。……いや、待って。そういえば……」

「「そういえばっ?」」

 身を乗り出して声を荒げる2人に多少鼻白みながらも、明美は思い出すように言った。

「声、いや、音かしら。何か聞こえたような気がしたんだけど……。ダメだ、ごめん。よく思い出せないわ」

 明美の新情報に、燐夜と夏姫は目を合わせ頷く。

「いや十分だ。そのこと、生徒会の奴らには?」

「まだ、言ってないわ。……うーん、やっぱりダメ、思い出せない。もう年なのかしら」

「そんなことないよ。明美さんは女子にとって憧れなんだから」

「ありがとね、夏姫」

「じゃあ、俺たちはこれで」

「ええ、しっかりやりなさい」

 最後にカウンターから身を乗り出した明美は背中をバシッっと叩き、燐夜を送り出した。

 しかし、その後に話を訊きに行った守衛から明美さんが聞いたという音はおろか、その他の有力な情報も得られなかった。

 そして他の封鬼委員のメンバーも有力な結果を出せぬまま、悪夢のような事件の一日目は学校に暗い影を落とし過ぎて行った。


 月の光は学園を覆う漆黒の雲に奪われ、旧校舎の支配権は昏い闇に奪われた。

 狭いトイレの密室は、そこに眠る男子生徒にとっての棺桶だろうか。

 魂を奪われながらも倒れることを拒むように壁に寄りかかる上半身。

 和式トイレを避けるように伸ばされた脚。

 まるで、授業中に突然睡魔に襲われたかのように垂れる首。

 微かに動く肩は、彼が依然として死に抗い、生にしがみついているからだろう。

 ギ――っと錆びた音を響かせて、密室の扉が開く。そこに現れる人影は、昨晩生物室に眠る少女を見つめていた、首に傷を持った青年。

 魂を抜かれた者 魂を入れられた物

 どちらも半端な存在には違いない。

 ……しかし、

 片や動かざる者 片や動く物   

 どちらが幸せで、どちらが不幸か

 首筋に傷を持った青年が片膝を着き、少年の頬に手を伸ばす。魂を抜いたばかりの身体は、依然として温かい。半開きの眼と唇は、何を見、何を唱えたのか。

 少年の顔を持ち上げその表情を見る青年は、微かに笑い、そして震えた。


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