第一章
「いくぞ。鬼ども」
手に刀、封具《断理》を持った燐夜が駆ける。《断理》を握る右腕を折り、鬼の軍団の中へ弾丸を思わせる速度で突入した。急発進した体を一体目の鬼の前で急停止。慣性の法則に誘われる身体を制御し、その莫大なエネルギーを右腕に込めて《断理》を薙ぐ。その一振りで、鬼は躯を二つに絶たれ、倉庫の壁へと吹き飛んだ。
燐夜の動きについてこられない他の鬼は、仲間の体液が降りかかることで初めて燐夜の接近に気づいた。だが、下級に当たるこの鬼たちに驚愕という理性はない。
ただ、燐夜という敵を認めただけだ。
鬼が一斉に燐夜に向けて跳躍する。だがそれは悪手。燐夜の太刀は一太刀目から弐太刀目に続いていた。燐夜は振り切った腕よりも早く身体を旋回し右腕を身体に巻きつけ、遠心力を伴い威力の脹れ上がった弐太刀目を振るい、空中で身動きのとれない鬼の首を一気に刎ねる。首と胴。不揃いな肉片となって鬼たちは仲間に降り注いだ。
燐夜はさらに加速する。
目の前の鬼の喉に寝かせた切先を滑り込ませ、横に引く。首が半切れとなった鬼が崩れるよりも早く燐夜は引き抜いた腕を振り上げ、左手を柄に添え、隣にいた二体の鬼を袈裟切りに切り伏せる。四つに分かれた同族の後ろから燐夜に奇襲をかけた鬼は、振り下された状態から股間から脳天まで掬い上げられた刃 により縦二枚に裂け、その汚い断面を晒しながら崩れ落ちた。
その背後。二体の鬼が、燐夜の死角から尖った爪を放つ。
その瞬間。ダダンという破裂音が倉庫の中に響き渡った。
鬼の数と同じ二発の銃声。銃弾は鬼の頭蓋に突き刺さり脳細胞を食い破る。鬼の頭が粉々に砕け散り、中身が燐夜に降り注いだ。
その気配を背で感じた燐夜は右腕で一体の鬼を屠りつつ、左手で眼前に迫る鬼の喉を鷲掴みにし、その身体で背後から降り注ぐ汚物を振り払った。
用済みとなった鬼の頸骨を握り潰し、迫りくる鬼の一団に投げつける燐夜が叫ぶ。
「こらぁ――。四季、汚ねぇだろっ!」
「助けたつもり……なんだけどなぁ」
やれやれと眼鏡を掛け直す男子生徒、七海四季は、そのまま続けて鬼たちに向けて更に拳銃を乱射した。一見、がむしゃらに撃っているように見える四季の銃弾は、その全てが吸い込まれるように鬼の頭に命中し、一瞬のうちに鬼の生態活動を止め、倉庫の中に血の雨を降らせる。
その頭上から襲いかかる殺気。
「おっと!」
危機を察知した四季が、さらに三発の銃弾を撒き散らしながら、軽快に飛び退いた。
倉庫の入り口から順調に援護射撃を続ける四季の眼前に、突然天井から人間の倍はある巨躯の鬼が飛び降りる。その体重を支えきれなかったコンクリートの床が陥没すると同時に、四季の頭上から再び強烈な圧力が襲った。
冷静に飛び退いた四季が今までいた床が、鬼の飛び降りた床以上に破壊された。
床に突き刺ささった巨大な斧。それは砕いた石を木材に括りつけただけのモノでまったく磨がれてはいないが、筋骨隆々の大鬼が振るえばその一撃はまさに必殺。
「危ないな」
怒りを隠す柔和な笑みを浮かべた四季が、無骨な鬼の顔面へ向け荒々しく引き金を絞る。
だが、昏い銃口から飛び出した弾丸は、その全てが鬼の腕の筋肉の前に止められた。
「筋肉達磨に、即席の氣弾じゃ無理か」
四季は更に強力な弾を作るため手に握る拳銃、封具《穿陽》に氣を込める。
しかし、氣を込めるために動きを止めた四季を、横手から再び荒れ狂う大気を纏った必殺の一撃が襲った。身を屈め、その一撃をやり過ごそうとする四季。だが、耳を撫ぜる凛とした笛の音に、四季は笑みを漏らし、避けることを止めた。
四季の脇腹から数センチ離れたところで鬼の斧、いや鬼の動きが止まった。
「《封鬼戯曲》第三章の六、【縛身】」
鬼の動きを止めたのは、燐夜・四季と共にこの倉庫を訪れた少女が奏でる笛の音だった。
「四季っち。今だよ」
「ナイス、胡桃」
燐夜・四季と共を訪れた女子生徒、真庭胡桃の笛の音に身体の自由を奪われた鬼へ、四季が跳躍し、銃口をその眉間に定めた。
「今度は式神付きだよ。――食らいな、【狐爆】」
四季が引き金を引くと、《穿陽》の銃口から青白い狐の式神が飛び出した。
その式神は大きく顎を開き、巨大な鬼の頭部を丸のみにして、消える。
指令機関を失った鬼の残された胴体は、重々しい音と共に倉庫の床へと崩れ落ちた。
「四季ぃ――。大丈夫かぁ――――?」
「君の方こそっ」
一方、戦陣のど真ん中に突っ込んだ燐夜は、その身を鬼の返り血に赤黒く染めながら、今しがた四季が屠った大鬼や猿大の小鬼と交戦を続けていた。
前方からは縦、後方からは横に振るわれる大斧。燐夜が選択したのは前方の鬼。襲い来る斧に対し、燐夜は身体を左に滑らせる。背後で十字に大気が切断されるのを感じながら、燐夜は跳躍。鬼の鳩尾を蹴り、その脚を支点として鬼の鳩尾を踏み台にし、さらに高く舞い上がる。鬼の頭上よりも高く跳躍した燐夜の身体は、空中で縦に半転。その勢いに腕力を加えた斬撃を鬼の後頭部に叩きこむ。後頭部から潜り込んだ刀身は、鬼の面を割り前方から出現した。
刀を振り抜いた勢いを利用し身体を更に半転させる途中、燐夜と四季の視線が交差する。
燐夜の意思を了解し頷く四季。
空中の燐夜に襲いかかる無数の小さな影。
四季の握る《穿陽》が、猛獣の咆哮が如く唸りを上げた。
燐夜に跳びかかった鬼の全てが、四季によって血の帯を引きながら打ち落とされる。
降りしきる真っ赤な血の雨の中、着地した燐夜は即座に体を横に反転。同時に頭の割れた鬼の身体を更に縦に引き裂きながら出現した斧の腹を刀で叩く。軌道を変えられた斧が地面に突き刺さり、砕かれ飛ばされた石の礫が燐夜の身体を叩いた。
が、それくらいで燐夜の闘志は揺らがない。
燐夜は鬼の腕と垂直になるように身体を滑り込ませ、両手で刀を振り下ろす。丸太のような鬼の腕も、鍛え抜かれた燐夜の腕力と《断理》の前にあっけなく切り落とされた。
燐夜はすぐさま刀の柄から右手を放し、未だ鬼の手が添えられたままの斧の柄を掴む。
身長は高いが大柄とは言えない燐夜だが、その腕力は超重量の斧を扱うのには十分だ。燐夜が斧を軽々と振り上げ、重量と腕力を乗せ振り下ろした。その一撃は、鬼の肩を裂き、骨を砕き、心臓を押し潰す。細かく痙攣し沈黙する巨躯の鬼。その屍を越え、視界一杯に牙を剥く雑鬼を《断理》の乱舞が迎え撃つ。
下位層にあたる雑鬼とて、その動きは並みの人間を遥かに上回る。
しかし、燐夜は並みの人間ではなかった。
消して遅くない雑鬼の動きですら、燐夜が神速で振るう《断理》の前では遅すぎた。
停滞することなく身体をすり抜ける《断理》の前に、雑鬼は一瞬にしてコマ切れとなる。
燐夜と四季。2人が屠った鬼の数が30を越したところで辺りに変化が起こり出した。倒れた鬼の魂が次々に煙と化し、肉体を捨て魂となって天井へと昇ってゆく。
その様子を確認した鬼の返り血に身を染める凄惨な姿の燐夜が胡桃に向かって叫んだ。
「そろそろか……。胡桃っ」
「大丈夫。さっきからやってるってば」
胡桃の言う通り。彼女は戦いの中で、笛の音を奏で続けていた。微妙ずらし幾重にも重ねられた笛の音は共鳴し合い、辺り一帯を不可視・不可出の結界で包み込む。
「《封鬼戯曲》第四章の一、【空断包魂】」
天井に昇る鬼の魂は、その全てが倉庫の中腹で結界に阻まれ、逃げ道を失った。
雑鬼との乱戦は十数分のうちに幕を閉じ、蠢いていた鬼のほとんどは身体を塵に変え魂を天井で囚われているか、不揃いな肉片となり辺りに転がった。
「随分あっけなかったな」
「ホントだね。楽ちん楽ちん」
「2人とも。まだ、終わってないよ」
すっかりお開きモードの燐夜と胡桃の二人を、四季が諌める。
「わかってる、冗談だ」
肩を竦める燐夜が、殺気を宿し爛々と輝く双眸を細め倉庫の奥を睨んだ。
「おい、出て来いよ」
燐夜の殺気を受け。倉庫の奥の暗闇。積まれた荷物に座る身の丈二メートル半ほどの鬼が、押しつぶすような殺気を隠そうともせず、ゆっくりと腰を上げた。
「クックククククク。よくもこれだけ、我が配下を殺してくれたものだな。人間」
低く重い鬼の声。その声色ではなく、鬼がしゃべったことに三人は緊張を走らせる。
「燐夜、胡桃…こいつ」
「……うん」
「わかってる」
言葉少なく意思を伝える燐夜たち。
対する大鬼は自分に殺気を放つ燐夜たちに向け、饒舌に言葉を噤み始めた。
「おい、どうした? 何か言ったらどうだ。封鬼の使者よ」
傲慢とした鬼の眼を、燐夜が牽制しながら睨み返す。
「鬼の知能は地獄の階層に比例するって言うけど……」
「ああ。ここまで口が回るってことは、間違いなく《大叫喚地獄》だな」
「その通りだ」
燐夜と四季の会話を聞き取った鬼が、悦に入ったように顔を歪ませた。
「何笑ってんだよ。つーか、お前に言ったわけじゃねぇぞ」
「フン。だが、今は我に俺に話しかけているのだろう」
「ちっ」
舌打ちする燐夜とは対照的に、鬼はさらに顔を歪ませる。
「やはり会話というものはいいな。配下は多いが、どうにも頭の方が足りないのでな」
「てめぇの子分事情なんか聞いてねぇよ」
苛立つ燐夜に対し、目を冷たく細めた四季が「ちょっといいかな」と鬼に語りかけた。
「何だ。矮小なる者よ」
「矮小……か、まぁそれはいいや。それよりも、君に聞きたいことがある」
「なんだ。言ってみろ」
「君はいったい、どれほどの人間の魂を食べたんだ?」
怒りを内包した四季の声は、常に人当たりの良い笑顔を浮かべる彼にしては珍しく、深い怨嗟を湛え震えていた。
鬼は一般に八階級二系統に分けられる。八階級とは弱い階級から順に《等活》《黒縄》《衆合》《叫喚》《大叫喚》《焦熱》《大焦熱》《無限》と分けられた鬼の強さ。二系統とは鬼が人間を襲う際に、魂を食べる『魂噛』と肉体を食べる『肉噛』と表すことを指す。そして今、燐夜たちの前で講釈を披露している鬼は、外見こそ『肉噛』の特徴を表した肉弾派ではあるが、その知能の高さは高等の鬼に見られるもの。明らかに『魂噛』だった。
四季の質問に鬼が「フン」と鼻で笑い、酷薄な笑みと共に答える。
「矮小な人間の魂の数なんぞ、覚えていると思う……」
鬼の言葉を遮る、鼓膜を切り裂く破裂音。
四季の放った氣弾が鬼の顔面に突き刺さり、その衝撃に鬼がのけ反った。
「ならば君に教えてあげよう。君たちが矮小と侮った人間の力がどれほどのものかおっ」
「し、四季っち。ちょっと落ち着いて」
息を荒くする四季の肩に、胡桃が慌てて手を乗せた。
「鬼の言うことに耳を貸しちゃダメ。鬼気に呑まれちゃうよ」
「ご、ごめん」
胡桃に悟らされ冷静さを取り戻す四季。
そこに、再び重い笑い声が響いた。
「フフフフフ。ハハハハッハハハハハ」
笑い声と共に、のけ反った身体を起き上がらせる鬼。その豪面に剥き出しにした鋭い牙の間には、驚くべきことに四季の放った銃弾が挟まれていた。
鬼は「ペッ」っとその銃弾を吐き出し、カランという乾いた音が倉庫に木霊する。
銃弾を顔面に受けてなお余裕の表情を崩さない鬼は、その豪面に立ち合うものをゾクリとさせる凶悪な笑みを浮かべた。
「いきなり撃ってこようとはな……。いや、それでいいのだ。それでこそ、ヤツの話に乗ったかいがあったというものだ」
「あん? ヤツって誰だ?」
燐夜の質問に、鬼は答えず跳躍。その軀の衝突に再び倉庫の床が砕けた。鬼と燐夜たちの距離は二十メートル弱。すでに戦闘の間合いに入っている。
それは、これ以上問答する気は無いという鬼なりの意思表示だった。
「参る」
言葉と共に、鬼の身体が変化する。むき出しの筋肉がさらに膨張、肥大化し、体を覆う皮膚が硬化。殺気は一層その濃度を高め、倉庫内の温度が一気に下がる。
より破壊を、より苦痛を、より恐怖を与えるために力を開放し出したのだ。
その変態の規模から、燐夜たちは敵の力量を判断し、作戦を立てる。
「四季、俺が行く。胡桃は【内封鬼弾】の生成を頼む」
闘気を全身に纏いながら鬼を見据える燐夜の背に、四季が問いかける。
「援護は?」
「いらねぇ。胡桃を余波から守ってくれ」
「……わかった」
「燐ヤン……。うちの氣力だけじゃ、悔しいけど素のままの《大叫喚》には力不足だよ」
胡桃の言葉に、眼に燃え滾る闘志の光を宿す燐夜が顔半分だけ振り返った。
「わかってる。あいつを倒す。それが俺の役目だ」
役割が決まり、一歩前へ踏み出す燐夜。
そして、これが最後の問答と、もう一度鬼に問う。
「もう一度だけ聞くぞ。ヤツってのは誰だ」
「それは……。我を殺し、その屍にでも訊くんだなっ!」
「はっ。屍がしゃべるかよっ!」
燐夜の言葉が合図となり、慄然とした笛の音の中で二つの殺気は激突した。初撃に至るまでのスピードはほぼ互角。2人の常識を超えた速度の前に20メートルはあった間合いが即座に零となる。鬼の武器はその剛腕と爪。鬼は床をその強靭な爪でえぐり、三本の傷痕を残しながら燐夜へと掬いあげた。
力の利は鬼。
しかし、速度は燐夜の方が上だ。
その一撃を燐夜は右に身体を流すことで難なく避けた……はずだった。
突然、燐夜の左腕の制服が千切れ、皮膚から鮮血が吹き出した。燐夜の身体を引き裂いた見えざる攻撃の正体は、風圧。鬼の剛腕の前には周りの大気すら武器と化す。
けれども、腕から流れ出る血潮を前に、燐夜に焦りはない。
もとより、燐夜は《大叫喚》相手に無傷ですむとは考えていなかった。
左腕に走る痛みを無視し、刀を振るう燐夜。鬼と同じく、下方から闇を切り裂く銀影を纏い掬い上げられた《断理》の切っ先が狙うのは、必殺を内包した鬼の左胸。しかし、その攻撃は鬼の後退により、左胸の皮を数枚切り裂くほどで終わる。相対して繰り出される鬼の迎撃。圧倒的な破壊力を伴った拳が燐夜を襲った。
燐夜は左腕を盾にし受けとめ、さらに接触の瞬間に後方へ飛び衝撃を半減。だが、それでも威力は十分。左腕の骨と胸骨が突き抜けた衝撃に軋み、激痛となって燐夜を苛んだ。
「ちっ。二本、イったか」
自分のアバラの具合を確かめながら、燐夜が全く衰えぬ闘志を宿し、鬼を睨みつける。
鬼との間合いは10メートル。劣勢に回りながらも、燐夜は鬼に向けて不敵に笑った。
戦闘が進むにつれ徐々に覚醒し出す燐夜の体が、さらなる死と生の狭間を求め煮え滾る。
一方。いくら封鬼の使徒とはいえ、自分と互角に渡り合う燐夜の力量に、鬼は「ふむ」と感心するように頷き、止めどなく血の流れる胸の傷を指で撫でた。
「人間にしては、なかなかやるようだな」
「真名を名乗るなら、今のうちだぞ」
「ふっ、ほざけ。人間風情に名乗る名はないわっ」
「ちっ。俺はな、てめぇらのそういう傲慢なところが気に食わねぇんだよ」
痛みを気合でねじ伏せ、燐夜は左手に刀の柄を握らせた。そして突進。燐夜の速度は初撃を遥かに上回っている。
だが、《大叫喚》の鬼にとって、その速度はまだ脅威ではない。正面から向かってくる燐夜に、鬼は豪腕の一撃を放つ。燐夜は顔面に迫る一撃に更に笑みを濃くした。燐夜が突進の姿勢を更に低くし、鬼の一撃を頭上すれすれでやり過ごす。対して、鬼の取った回避行動は後方宙返り。屈強な巨体はその無骨とは裏腹に華麗に宙を舞い、その回転力を乗せた踵落としを燐夜の頭に繰り出した。死が目前に迫る中、笑う燐夜の取った回避行動は前進。さらに速度を上げた燐夜は、死の踵が届くよりも早く鬼の下を駆け抜ける。
着地する鬼
背後を取った燐夜
絶好の好機
燐夜は壁のような鬼の背、生の鎖となる心臓がある部分に、強烈な突きを放った。
「なっ?」
思わず漏れる驚愕。異様な手応え。筋肉以外何もなかった鬼の背から、突然三本目の腕が出現し、《断理》の切っ先を掴んでいた。
「惜しかったな」
勝利を確信した鬼の声。
鬼の身体が徐々に反転し、《断理》を掴んだ三本目の腕が、皮膚の上を体の回転とは逆方向に移動する。鬼が完全に燐夜の方へ身体を向けたとき、背中にあったはずの腕は鬼の脇腹付近から生えていた。
「何か、言い残すことはあるか?」
虫けらを見るような眼で、鬼が燐夜を睨む。
その眼差しを迎え入れたのは、燐夜の爛々と輝く双眸だった。
「それはこっちのセリフだ。このタコやろ……」
ゴシャという肉と骨とがぶつかり合う異音。
憎まれ口を叩く燐夜の顔面に鬼の豪拳が突き刺さった。
同時に鬼が《断理》を放し、軽々と吹っ飛んだ燐夜は背からコンテナに激突。その規格外の衝撃に、燐夜を受け止めたコンテナがベコッと内側に陥没する。
勝敗は決した。
そう確信した鬼が、ゆっくりと笑いながらその軀を四季たちへと向けた。
「生憎、手加減というモノができない性分でな。安心しろ。すぐに貴様たちも同じところに送ってやる」
「ん、ああそう」
そう言って睨む鬼の眼光を受け止める四季は、いたって涼しい顔をしていた。それどころか、まるで世間話でもするように、胡桃へ「そろそろか?」と言葉を投げかける。
鬼と燐夜。2人が闘い始めてから、この空間に満ちていた笛の音が止む。そして、奏でられていた旋律が胡桃の開く小さな手の平で、一発の弾丸へと姿を変えた。
「うん、できたよ。はい」
「よし。準備は整ったね。あとは、燐夜――っ」
受け取った弾を弾倉へ装填し、四季が燐夜の名を呼ぶ。
その行動に、鬼は哄笑した。
「クハハハハハ。おまえは誰の名を呼んでいる。死者の名を呼ぼうと帰る答えはないぞ」
「燐夜――。いつまで遊ぶ気だい。もう時間稼ぎは十分だよ」
「そうだよ――。お務めごくろうさま――」
「貴様ら、いい加減に……」
自分の言葉を無視する四季と胡桃に、鬼が粛清を加えようとした、まさにその時。
「―――!?」
鬼の身体に戦慄が襲った。その背筋に数千の蟻が這いあがってくるような悪寒が走る。
「なんだ、もういいのか」
「なにっ?」
死者の声を聞いたかのように、鬼が愕然とした表情で振り返った。
「いってぇーな。バカみたいに殴りやがって」
そこには、まるで何事もなかったかのように、鼻孔から垂れる血を拭う、今しがた死を刻む豪力の鉄拳を受けた燐夜が立っていた。
その姿に、鬼は震え、燐夜を睨む。鬼の攻撃は間違いなく燐夜の顔面を捉えた。生きていられるはずがない。まして、これほどの覇気、闘気、殺気が出せるはずがない。
「何故だ?」
鬼が震える声を吐き出した。
「何故、我が一撃を受けて生きている?」
明らかな鬼の動揺に、燐夜は首の調子を確かめるようにゴキゴキと鳴らし、答えた。
「何故って。そりゃー、お前……」
燐夜から声と共に発せられる闘気と殺気は、辺りの空気を焼きながら鬼へと突き刺さる。
違う、明らかに――
鬼の睨む燐夜は、戦闘が始まった頃とその存在感が明らかに異なっていた。
今、この現状況において。燐夜は完全に鬼を凌駕している。
鬼のミスは最初の一撃で燐夜を仕留めなかったこと。十分に温められた燐夜の戦闘能力は、戦いが始まった頃の比ではない。
燐夜が右手に持った刀を鞘に収め、必殺を繰り出すべく身を屈める。
「俺が強くて……」
鬼は直感した。自らの敗北を――
「お前が弱いからに、決まってるだろ」
鬼は否定した。自らの敗北を――
「貴様ぁぁああぁぁぁ――っ」
鬼が駆ける。すでに欺瞞も慢心もない。燐夜を殺すため。己れを奮い立たせ、地を砕き、燐夜との間合いを詰つめる。
燐夜は集中する。推進力を生み出す双脚。斬撃を生みだす右腕に全てを注ぐ。
「刹那に煌めけ 宝鳥
封鬼戦刀流 弐の太刀―――」
次の瞬間。
鬼の視界から燐夜が消えた。
燐夜が刀を抜く。切る一点のみに全神経を注ぎ込み、鬼との間合いを消す。引き抜かれる刃は鞘との摩擦により、さらに斬撃の剣速を高め、刀身を銀光に染める月光すら置き去りにした燐夜の居合は、鬼の左二の腕と胴を一瞬にしてすり抜けた。
「――――【閃隼】」
燐夜が静かに呟く。鬼との間合いは零。
しかし、勝敗には天と地ほどの差があった。
「ぐあああああああああああああ」
耳を叩く不協和音。鬼の断末魔が響く。
―――だが、
「……ま、まだだっ」
その鬼眼の光は、最後の反撃に大きく燃え上がっていた。
身体を切断されながらも、己の敗北を認めない鬼が突き出していた右腕を強引に引き戻す。その反動を利用し、鬼は大きく開いた口を眼前に留まる燐夜へ向け、最後の一撃を繰り出した。
カチッという《断理》が鞘に収まる音。
燐夜は鬼の最期の一撃にも微動だにせず、言った。
「無駄だ。――四季っ!」
「わかってるって!」
鬼の攻撃を読んでいた四季は、すでに鬼の頭部へ銃口を定めていた。
荒れ狂う銃声と共に吐き出された群青色の弾丸は、見事に鬼のこめかみに命中。
しかし、今度の弾は先ほどまでの『破壊』を旨とする弾丸とは異なっていた。
「がっは。な、なにを。――――っっ!?」
鬼が言葉を失う。鬼の顔が、弾丸の撃ち込まれたこめかみを支点に収縮し始めた。
「貴様らあぁぁ。一体……我に一体、何をしたぁぁぁーっ?」
他の肉体を巻き込み収縮する鬼に、燐夜はこちらの方が悪党に見えるほど不敵に笑った。
「封印に決まっているだろ。《大叫喚》クラスの鬼ともなれば、手持ちの封具じゃ耐えきれないからな。 お前自身の身体を封印の器にさせてもらうんだよ。ついでに、お前の子分たちの魂も一緒に封じ込めてやる。感謝しろよ。――――胡桃っ」
「合点でぃ!」
燐夜の言葉に笑って返す胡桃が、再びフルートを模した封具、《風雅》を咥えた。
「《封鬼戯曲》第四章の四【散魂吸封】」
緩やかに始まった笛の音。そのテンポが徐々に速くなっていくにつれ、天井半ばで停滞していた鬼の魂がその旋律と同調し、渦を巻く。その中心が《大叫喚》の鬼の収縮部と重なったかと思うと、螺旋の中心がうず潮のように下に延び、既に口だけとなった鬼の頭部と繋がった。
胡桃の奏でる旋律に誘われ、収縮部に次々と飲み込まれる鬼の魂。ものの数十秒のうちに、倉庫に残っている鬼の残りは、収縮部の要とされた鬼の頭部だけとなった。
「くっ。そういう……こと……か。我は……ヤツにはめ……――」
鬼が最後の言葉を言い切る前に、封印は完了した。鬼と、鬼の魂だったものは、一つの黒玉となり床に落下。その夜よりも深い闇の中で未だ鬼の魂が蠢く玉を燐夜は拾い上げた。
「四季。白都の札を」
「はい」
燐夜に呼ばれた四季はポケットから一枚の札を取り出し、黒玉に貼り付ける。すると、玉の中で蠢いていた闇が急激に引き、黒玉が白玉へと変わった
「やっぱり。白ちゃんの札は良く効くね」
燐夜の手から白玉を受け取り、高く掲げながらクルクルと回る胡桃。ちょうどその時、四季の携帯が鳴り、四季は着信画面に表示された相手の名前を見てすぐに電話を取った。
「はい、もしもし。夏姫。……うん。こっちは終わったよ。あ、そう。うん、うん、……うん。そっちも? ……わかった。――ああ、そう言えば三神さんの調子はどう? 一年生を泣かしちゃダメだよーって。っあ、ちょっと、ごめん。なつ……きれちゃった」
「夏姫たち、からか」
なんとなく電話の内容を予想した燐夜は、戦闘が終わったにもかかわらず、真剣な顔をしながら四季に話しかける。
対する四季も、燐夜が気づいていること前提で話を始めた。
「うん。やっぱり、最近の鬼の動向は少しおかしいね」
「ああ。妙に組織立って動いてやがる」
「今回もそうだね。二か所、それも別々の鬼がまるでこっちの戦力を分散するように出現した上に待ち伏せのまねごとをする何て。まるで、誰かが裏で糸を引いているみたい」
四季の推論に、燐夜は今闘っていた鬼の言葉を思い出した。
「“ヤツ”……か」
「何者なんだろうね?」
「俺が知るわけないだろう。……だが、少なくとも《大叫喚》の鬼を操れるほどの力を持っていることだけは確かだろうな」
「そうだね……」
「ふ~た~り~と~も~。封印は終わったんだし、早く帰ろうよ~」
すでにシャッターを潜り抜けた胡桃が2人に向かって手を振る。その姿を見た燐夜と四季は二人揃って肩の力をスッと抜いた。
「あの能天気に、悩みは無縁か?」
「まあ、あれが胡桃ってことで」
そう言って二人は揃って、不法侵入者がいなくなり静寂の闇を取り戻した倉庫から出た。
「そうだっ。せっかくだし、このまま三人でカラオケ行こうよ」
「ソレ持ったままでか?」
「いいじゃん。いいじゃん。ちゃんと封印されているんだし」
駆け出した胡桃に、やれやれと肩を下ろす燐夜と四季。そして小さくなった胡桃の背を追いながら、ふたりは戦闘中に取ったアイコンタクトのようにお互いの意思を伝えた。
―――まあ、なんとかなるだろう――
燐夜たちが鬼との激戦を終えたちょうどそのころ、ホルマリン漬けの標本となった生物たちへ彼らが生きていたころと何も変わらない月の光が差し込む九浄学園の生物室に、2つの人影が浮かび上がっていた。
影の一つは、九浄学園の制服ではなく、友人と共に選んだのであろう可愛らしいキャラクターが印刷された私服を着込んだ少女。
魂を抜かれ、壁に寄りかかり座り込んだ彼女の瞳に光はなく、ただ虚空を見つめていた。
もう一つの影は、20代前半ほどの男性。左の首筋に傷跡を刻みつけた彼は、人形のように動かない少女を見下ろしていた。
鬼に魂を抜かれた人間は、自身の魂を食べた鬼を月が七回天に上る前に倒さなければ、そのまま死に絶える。彼女はまだ、魂を抜かれてから間もないのであろう。開かれた瑞々しい唇が最後に紡いだ言葉は、いったい何だったのだろうか。
生から死の淵へ、静かに、しかし確実に近づいてゆく少女。
その姿を観察する男は、少女の頬に手を伸ばし……小さく笑った




