旦那様(八歳)の「君を愛するつもりはない」が可愛すぎるので、勝手ながら溺愛させていただきます
「結婚はしたが、君を愛するつもりはないっ!」
旦那様ことアルフレート・ブラント公爵閣下が、私こと新妻マリクレーラに向かって、まだ声変わりもしていない幼い声でそう啖呵を切る。
「これは我が公爵家を守るための結婚にすぎないっ!」
「承知しております」
私と旦那様は、必要に迫られて急遽結婚した。旦那様のご両親である先代公爵夫妻が、馬車の事故で急逝したからだ。
まだ八歳の旦那様が爵位を継ぐためには、「成人している妻」を後見人代わりに娶る必要があった。それで、公爵家傍流から「成人している中でもっとも年齢の若い、十八歳の私」が選ばれたというわけ。
「血の濃い公爵家の継承者」を守るための、まごうことなき政略結婚である。
「だから僕からの愛情は期待するなっ!」
あらあら。黒い眉を吊り上げて、私の胸ほどまでしかない身長を少しでも大きく見せようと、懸命に背伸びして。
「妻として家政を取り仕切り、公式行事に同行してくれさえすれば、あとは自由にして構わないからなっ!」
――可愛すぎるわ。
湧き上がる、この愛しさは何かしら。まだ子どもを産んでもいないのに、これが母性本能というものなのかもしれない。
思わず笑いそうになってしまい、私はさっと扇子で口を隠した。
「ええ。旦那様が十八歳になられましたら、離縁いたしましょう。それまでは旦那様のお言葉通り、自由にさせていただきますわ」
ええ、そうよ。
お役目さえ果たせば自由にしていいのなら、保護者として勝手に溺愛して差し上げます。
妻として愛されなくても、何の問題もございませんわ。
◆
「まあ旦那様!なんてお可愛らしい!九歳の誕生日会はこの服にいたしましょう」
「子どもっぽい服は嫌だ!もう半ズボンなんて履かない!」
「どうかお願いします、旦那様!今しかない可愛いお姿の肖像画を残さねば!」
「旦那様、トランプ遊びはいかがですか?執事やメイドたちも誘ってみました」
「そんな幼稚な遊びに誘うな」
「あら、高度な戦略が必要なゲームもありますのよ。さては勝つ自信がない…?」
「そんなわけはない!やってやる!」
「勉強ばかりしていては身体に毒です、旦那様。庭でテニスでもいかがですか。私、それなりに上手なのです」
「日焼けしたくない」
「では散歩程度ならいかがですか。私が日傘をおもちしますから」
「…まあ、いいだろう」
「旦那様、お茶とお菓子をお持ちしました。厨房を借りて、旦那様の嫌いな野菜をクッキーに練り込んで焼いてみたのです」
「…いけるな」
旦那様は「近づくな」と口では言うけれど、話しかけたらちゃんと反応してくれる。可愛い。
そうだ、今日は「寝る前の絵本」なんてどうだろう。
そう思いついて私は図書室で本を選び、旦那様の寝室のドアをノックする。
「なんだ」
「旦那様、寝る前に絵本を読んで差し上げましょうか?」
「子ども扱いするな」
と、こちらに目をやった旦那様の顔色が変わる。
「その本に障るな!」
赤い瞳に怒りが浮かび、ひったくられそうになった本は、どさりと床に落ちる。
「申し訳ありません、旦那様。大切な本でしたか…?」
「…母様が」
「…?」
「…母様がよく読んでくれた本だ」
旦那様は丁寧に本を拾い上げて、本棚にしまう。その声も、手も、小さく震えていた。
お母様のことを思い出したのだろう。
公爵とはいえ、まだ八歳。
使用人や私の前では気丈に振る舞っているけれど、突然亡くなってしまったお母様が恋しくないはずはないし、急に初対面の女と結婚させられて平気なはずもない。
そんな彼に、私はなんてことを。これでは、ただの親切の押し売りだ。
「大事なものだと知らず、勝手なことをいたしました。罰はいかようにも」
「下がれ!もう僕に構うな!余計なことはするな!お飾りの妻らしく大人しくしていろ!」
「…はい」
本当は震えている彼を抱きしめてあげたい。「大丈夫だから」って言ってあげたい。
けれど何が「大丈夫」だというのだろう。彼の悲しみも責任も、八歳が背負うものにしてはあまりに深いのに。
――私は、無力だ。
「眠れない」
悶々とした気持ちで、廊下へ出る。
足は自然と旦那様の寝室へ向かった。入りはしない。ただドアの前で、彼が安心して眠れているよう祈るだけ。
「…ううっ」
部屋の中からうめき声がして、思わずドアをノックする。
「旦那様、大丈夫ですか?」
返事はない。
「入ります」
そうっとドアを開けると、旦那様はベッドの上で苦しそうに歯を食いしばっている。
「父様…母様…」
私が旦那様に、辛いことを思い出させてしまった。
まだ小さな手を握ると、無意識なのだろう、彼はきゅっと手を握り返してきた。
「ご両親の代わりにはなれませんが、私がおそばにいます」
そうして私は、一晩中彼の枕元にいて、気づいたら彼の手を握りながら眠ってしまっていた。
はっと目が覚めると、身体を起こした旦那様が私を見下ろしている。
たらりと汗が流れる。「余計なことをするな」と言われたばかりなのに、八歳児の寝室に忍び込んで朝まで一緒にいたなんて。
「ち、違います、旦那様…!これは決して邪な気持ちではなく、お邪魔するつもりもなく…!」
「黙れ」
「…はい」
「礼を言う」
「…え?」
「久しぶりにぐっすり眠れた…気がする」
可愛い。嬉しい。よかった。
私は思わず旦那様に抱きついた。
「今日も、旦那様がお眠りになるまで手をおつなぎいたします」
旦那様は赤い顔で頷いた。
「頼む。あとその…寝る前に絵本を読んでほしいのと、雷の日は寝てからも一緒にいてほしい」
「…喜んで」
「なぜ泣くんだ」
「…嬉しくて」
「変なやつ」
◆
その日から、旦那様との距離はぐっと近づいた。
「あら、旦那様はブロッコリーがお嫌いですの?」
食事中、旦那様は濃い緑をそっと皿の端に寄せる。始終旦那様の可愛い所作を観察している私が、気づかないはずもない。
「ブロッコリーは身体を大きく逞しくするために必要な栄養素がたっぷり含まれていますのよ。騎士の皆様も好んでおられますわ」
「…騎士がブロッコリーを好むと、なぜ知っている」
「元婚約者が騎士でしたので」
私には婚約者がいたが、急遽旦那様と結婚することになったので、婚約は解消となったのだ。
「…元婚約者だって!?」
「ええ、ハルト子爵家のダニエルです。私たちの結婚式にも参列してくれたので、旦那様もご存じでしょう?」
「でもあのときは、元婚約者だなんて言わなかったじゃないか」
「結婚式ですから」
彼も公爵家に連なる家門の一員。宗家の結婚式の雰囲気を悪くするようなことは、いくら無骨な彼でも言わない。
「ところで、ブロッコリーは…食べにくければ小さく切って差し上げましょうか?それともお残しになりますか?」
旦那様は嫌な顔をしながら、小さな口で大きなブロッコリーを頬張った。
ああ、可愛い。
旦那様の保護者としての生活は、そうやって穏やかにすぎていった。
もちろん子どもと暮らしているのだから、トラブルや困りごともあったけれど。
まずは十歳くらいで「もう寝る前に手を繋がなくてもいい」と言われて、とても寂しい思いをした。
「あら旦那様、寂しいですわ。どうかそんなことを言わないでくださいまし」
「いやだ」
「だったら寝る前にハグをしてから寝ましょう!そうしないと私が眠れません」
「…そうなのか?」
「ええ!あと雷の日は私が怖いので、どうかおそばにいさせてくださいね」
「…ふふん、僕と違って怖がりだな。まあ、いいだろう」
十三歳で貴族学園に入学されてからは、お友達といる時間が長くなり、夜遅くまで帰ってこないことも増えて、使用人ともどもやきもきした。
「旦那様、心配です…!王都は治安がいいとは言え、危ないところには近づかないでくださいましね」
「わかってる、うるさいな。もう子どもじゃないんだから」
「そんな…!私にとっては、まだ可愛い旦那様のままなのに…!」
「…それが嫌なんだ」
あのときは「干渉しすぎたか」と、後悔したものだ。
十五歳になって夜会に出席できるようになってからは、私の服装にダメ出しをしてくるようになって、世代間の差というものをまざまざと感じさせられることもあった。
「そのドレスは肌が出過ぎだ」
「え?これくらい、普通では?」
「今は違うんだ!胸と腕を隠せ!」
そう言われて出席した夜会では、一人だけあまりに露出の少ないドレスで浮いていたような気もするのだけれど。
反対に最近の流行りで髪をダウンスタイルにして外出しようとしたら、それはそれで「下品」などと言って止められるし。
「どっちにしても気に入らないということ?年頃の男の子というのは、難しいわね…」
けれど成人となる十八歳が近づいた最近では、旦那様はすっかり落ち着き、大人の男性に変貌を遂げつつある。むしろ彼が私の保護者のようだと感じることすらある。
「ダニエル・ハルトが、公爵ご夫妻にご挨拶申し上げます」
「あらダニエル、久しぶりね。戦地から帰ってきたの?」
「ああ、公爵閣下のご命令だったが、今回は大変だった。マリクレーラは元気そうで何よりだよ」
そんなただの挨拶に、彼が注文をつけるのだ。
「妻よ、ダニエルとは話すな」
「でも旦那様、これはただの挨拶です。ダニエルは旦那様の命で、戦地で身体を張ってきたわけですし、公爵夫人として労うのも当然…」
「君は名門公爵家の夫人で、注目される存在なんだ。あらぬ噂を立てられないためにも、元婚約者と仲良くするのはやめろ」
「…はい」
「ダニエルも、我が妻のことを名前で呼ぶな。公爵夫人と呼ぶように」
「申し訳ありません、公爵閣下」
でもそう言われてみれば、そうかもしれない。
年増の妻の評判にまで気を使えるようになるなんて、彼はもう立派な公爵だ。
見た目だってそう。
背は高くなり、体つきは引き締まり、夜会でも若い令嬢たちの視線を集めている。
「旦那様、本当にご立派になられましたこと」
「君のおかげだ。私が不安定なときも、寂しいときも、いつだってそばで支えてくれただろう。勉強も見てくれたし、運動にも付き合ってくれた」
「ありがたいお言葉です、旦那様」
けれど彼がここまで成長した今、私がそばでお支えする日々も、もうすぐお終い。
それが彼のためだから。
胸がチクリと痛む。
「仕方ないわ、こうなることはわかっていたじゃない。子離れしない親は醜いわ」
◆
私は何人かの貴族令嬢の肖像画をもって、旦那様の執務室を訪れる。
全員、旦那様の新しい奥様としてふさわしい家門の令嬢だ。私の最後の大仕事は、この中から新しい公爵夫人を選んで、旦那様との縁談をまとめること。
「旦那様。十八歳になられるにあたり、新しい公爵夫人を選びましょう」
「…っ!?何を言っているんだ、公爵夫人は君じゃないか」
「結婚したときの約束をお忘れですか?旦那様が成人になったら離縁する、と決めたではありませんか。書面にもしてございますのに」
私は「ほら」と、念のために持ってきた覚書を見せる。まだ拙い彼のサインと、私のサイン。
「思い出されました?」
彼は私の手から覚書をひったくる。その手がぶるぶると震えている。
「こんな…こんなもの…!」
旦那様の目が、私を睨む。
十八歳の彼の赤い目に睨まれると、八歳のころとは違ってさすがに迫力がある。
「私と離婚して、ダニエルと再婚するつもりなのか」
「はい…?」
そんなことはまるで考えていなかった。だた「離婚」だけが頭にあって、そのあとどうなるかなんて。
ただ言われてみれば、ダニエルもいまだに独身ではある。
「どうでしょうか。父とダニエルの父が合意すれば、そうなる可能性はありますが…」
と、彼は覚書と肖像画をびりびりと破いて、私の肩を掴んだ。
「だ、旦那様…!?」
「離縁などしない!」
どうして怒っているの。
「旦那様、落ち着いてくださいまし。私はもう二十八歳です。跡継ぎを望める新しい奥様をお迎えしませんと」
「嫌だ嫌だ嫌だ…!十八歳になったらまた君と一緒に寝られると思って、ずっと楽しみにしてきたのに…っ!」
自分から「もういい」と言ったくせに、なぜ今さら。そんなところも可愛いと言えば可愛いけれど。
「旦那様ったら、相変わらず子どもみたいなところもおありなのですね。今でも雷の日は怖いですか?」
彼は「違う」と肩を掴む手に力を入れた。
「一緒に寝るというのは、君が思っているような意味ではない」
「…え?」
「眠れるまで枕元で手を繋いでいてもらうという意味じゃないんだ」
「…んっ!?」
彼の唇が、私の唇を塞いだ。
「こういう意味なんだよ」
唇と唇が触れる距離で、そう囁かれる。
「愛してるんだ、マリクレーラ」
初めて、名前を呼ばれた気がする。すっかり低くなった声で名前を呼ばれると、胸がむずむずしてしまう。
「私のことは、愛さないと…」
「何も知らなかった子どものころの話だ。君の深い愛を感じる前の話だ。どうか子どもの戯言だったと、水に流してくれないか」
今さら、そんな。溺愛してきたつもりだとは言え、弟のように、保護者と子どものように、そうやって接してきたのに。
「君が私を大事にしてくれているとは言っても、夫ではなく弟や子どものように思っていることはわかってる。でも十年で『君を愛さない』と言った私は、すっかり変わった。君に触れたくて仕方ないし、君に近づく男は追い払いたい。愛してるんだ」
なんてストレートな愛の告白なのだろう。
どう答えていいのか、わからない。
彼は十歳も年下で、私の胸ほどまでしかなくて、悪夢にうなされ、雷の日は怖くて眠れない子どもだったのに。
今は彼の腕の中から、抜け出せない。いつの間にこんなに力強い男性になったのかしら。
「今から十年あれば、君も変わるんじゃないか?」
「ど…どうでしょうか」
「どうか、証明させてくれ」
ぎゅっと抱きしめられたまま、また唇を塞がれて、私は頷くしかなかった。
いいえ、首を振りたくなかったというのが本音かもしれない。
「後悔させないよ、私のマリクレーラ」
「ええ、旦那様」




