01
豊かな自然と快適な気候。
地平線まで広がる壮大な大草原の真ん中に、天を突く巨大な石像がそびえ立つ。
石肌は風雨に磨かれて鈍く光り、遠目にも威容を放っている。
その側に寄り添うように城塞都市が築かれていた。
長らく平和が続いていることもあり、城壁の外側にまで集落が幾重にも膨らんでいる。
そのさらに先には、畑と牧草地が帯状に広がっている。
人口は五万を超える大都市だが、その空気は落ち着いていて穏やかだ。
市場には各地の特産品が静かに並び、旅人や商人がゆったりと行き交い、通りごとに異なる香りがほのかに漂っている。
ここは《公都バトレミア》――――
早朝。といっても外はまだまっくらで、街路も家々も眠っている。
街並みの外れには、倉庫がいくつも並ぶ一角がある。
錬金術工房が所有する区画の中に、年季の入った古びた倉庫が一棟。
扉を開けると、薬草特有の濃く青臭い香りがむっと立ちのぼる。
調薬作業舎と呼ばれるその場所では、朝一番から作業が始まっていた。
四十人ほどの作業員が、山のような薬草を不良や鮮度で仕分け、薬品や水で洗い、網棚へ干す。
濡れた床板は冷え、桶の水面には刻一刻と青が滲む。
周囲には、錬金術師の所員が監視役として何人か巡回している。
眠気をこらえる顔つきの者もいるが、手元と秤に向ける視線だけは鋭い。
大人に混じって、子どもたちの姿も数人。
ほとんどが擦り切れたボロ服だが、ひとりだけ質の良さそうなシャツを着た少年がいた。
銀髪がひときわ目を引き、身のこなしや雰囲気からは育ちの良さが感じられる。
場の空気の中で、その存在は明らかに浮いていた。
――――少年の名は、ミメロ・グラディーノ。
しばらくして、ミメロは薬草を洗う手を止め、奥でうつらうつらしている所員を呼んだ。
「別の種類が混じってました。これドリス草じゃなくてシルファ葉ですよね?」
所員は手にしている分厚い図説本を開き、葉脈や形状、色味を確認する。
「おっ、おお。……ほうほう、よく気付いたな。な、なかなかやるじゃないか。……だが、まぁ、まだまだおまえらには分らんと思うが、薬学は深淵のごとく闇深いのだ」
「沼るぞっ」と言いながら、両手を掲げ犬かきでもがくようなポーズを決めた。
ミメロは心の中で小さく肩をすくめる。――特に勉強してるわけでもないのだが。
所員は「へっ」と鼻を鳴らし、いつもの見下した態度のまま奥へ戻っていく。
歩きながら欠伸を噛み殺し、本に栞を雑に挟んだ。
「ミメロっ」と、隣にいた獣人の少年が呼ぶ。虎耳がぴくぴくと動いた。
「おいおい、そんなの全然わかんねーよ。同じ草にしか見えねぇって!」
「まぁ、葉のギザギザの形がちょっと違うし、そもそも色もドリス草の方が濃いだろ」
「あー、言われてみればって感じだな。……いや、やっぱ分かんね」
ミメロはわずかに顎を上げ、得意げに胸を張った。
「いや~、観察力だけは自信あんのさ。……昔っからな」
「プッ、昔からって。俺たちまだ10歳のガキだっての」
ミメロはくすりと笑い返した。
――給金が配られ、銅貨の触れ合う軽い音がそこかしこで鳴る。
ミメロは銅貨数枚を受け取り、作業舎を出た。
辺りはすっかり明るく、朝日が街を照らし、石畳が淡い金色に染まる。
後ろを振り返れば、巨像の遺跡が厳かに佇んでいた。
城壁から約二キロ離れた巨神ヴァトールの石像 《コロッサス・ヴァトール》。
通称『コロッサス』と呼ばれ、高さは三百メートルを超え、数十キロ先からでもその影を望むことができる。旅路の道標としても親しまれている。
朝の涼やかな風が若草の香りを運び、やわらかな光が二人の頬に差し込む。
虎系獣人の少年、ライガ。二年前にミメロと出会い、すぐに打ち解けた。
明るく気さくで、今ではすっかり気心の知れた間柄になっている。
「まだ朝はえーのに、いつもより人が多いな。《十齢祭》の準備か」
「だな。露店もけっこう出るみたいだし」
教会のイメージカラーである白と金の布飾りや花飾りが道沿いに掛けられ、朝風に揺れている。
屋台を組み上げる木槌の音が、通りの向こうで軽やかに響く。
教会の裏側を通ると、見たこともない象サイズの真っ白な獏が腹をつけて眠っていた。
その隣には、白を基調に金の装飾を施した華美な荷車が止まっている。
シーツで包まれた三メートルほどの荷が見えた。
サンテローズ神殿から派遣された神官たちが運び込んだ物だろう。
香油と聖香のかすかな匂いが、ライガの鼻先をくすぐる。
「そうだ。昨日、たまたま神官の子を見かけたけど、めちゃくちゃ激マブだったぞ。俺らと同い歳くらいか? なんでもすでに聖女候補だとか、やべーよな。いまのうちにお近づきになってりゃ、後でおいしい思い出来るかもな。聖女だぞ、聖女、教会のトップ!」
「ふーん、ゆうて子供じゃん」
「お前もな。ったくスカしやがって。……つか、やっぱ緊張してんのか? 神託」
「まぁ、それなりに。それで一生が決まるらしいしな」
「らしいって、他人事だな。神託で良いタレント授かればエリート人生、悪けりゃ底辺層。お前ら人間が決めた慣習なんだろ」
「でもなー。タレントっていう才能が大事なのは分かるが、それが全てって。なんか納得いかねぇよ」
「納得もへちまもあるかよ。俺も欲しいぜ、タレント。そうだな、モテモテタレントとか?女にエロい格好させて、はべらせるぜっ」
ライガがムキムキポーズを決め、胸筋をぴくつかせる。
「ふっ、お前は気楽でいいよな。は~あ、俺も獣人に生れたかったよ」
「おいおい、それ完全に嫌味だぞ。獣人は、いまだに差別うけるし野蛮だと見下されるわで大変なんだぞ」
「悪い、そうだったな……」
「ん?今日、祭りってことは『特訓』は無しか?」
ライガが拳を構え、軽いジャブからワンツー。靴先が石畳を擦る乾いた音。
「だな。夜はまだ祝宴祭が続いてるだろうし」
「あーちきしょう。試したい技、いろいろ思いついてたのに」
ライガがハイキックを放つ。空を切った瞬間、ヒュッと短い風切り音が鳴る。
着地すると腕を組み、新たな連携技を頭の中で組み立て始めた。
「おい、沼るぞっ」
っと、ミメロが両手で犬かきっぽい決めポーズ。
「ぶはっ、似すぎだろ。今どっから声出した?もう本人じゃん。そういやさ、あいつがいつもやるそのポーズなんなん?つまんなさに拍車かけてんだよな」
「あー多分、沼にはケルピーっていう人を引きずり込む馬に似た魔物がいるらくてさ。だから、馬がひひーんって、前足跳ね上げたポーズやってんじゃないの?」
「ほほーう、あーなるほど。馬かよ、猿かと思ってた。へー、あいかわらず何でも知ってんな。さっすが、貴族のぼっちゃん」
口元にいたずらっぽい笑みを浮かべ、ミメロにからかうような目を向ける。
ミメロは寄り目で大きく舌を出し、ふざけるように頭を左右に揺らしてみせた。
ライガは呆れ顔で両肩をすくめ、小さく首をかしげ返す。
「でもよ、貴族のくせに早朝バイトなんてやらなくてもいいだろ。他にも、魔晶石の仕分けや公共施設の掃除とかもやってんじゃん。グラディーノ家だっけ? 名門騎士家なんだろ」
「元な。まっ、家庭の事情だよ。いろいろあんの」
ライガは納得のいかない表情で、鼻を鳴らした。
路地には白と金の装飾花がひらひらとかかり、通りの角ごとに教会旗が揺れる。
二人は拳をコツンと突き合わせ、別れた。