表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
雪忘花  作者: 深海かや
第一章 誰も私のことなんて覚えてない。
9/72

第九話

 目が覚めた、という感覚はなかった。けれど、私は確かにほんの数秒前に瞼を開け、視界に広がる見覚えのある天井が寸前までみていた吸い込まれそうな程の壁の白さではなく、少なくとも今この瞬間は白い部屋の中にはいないのだと理解した。


「新奈」


 ベッド脇には沙羅がいた。椅子に腰をおろしながら見下ろすようにして私をみつめ、指先で涙を拭っていた。沙羅がいるということは、今が現実で、先程までみていた光景は夢だったのだろうか。そこまで考えて、いや、と思い直す。夢にしては余りにも現実味があった。指先で触れた机のつめたさも、椅子と腰が密着している感触も、そしてあの壁の白さも、全て覚えてる。あの場所にいたという表現の方が正しい気がした。けれど、廊下にいた私が瞬間的に別の場所に移動するなんてことはあり得えない。あの白い部屋。あそこがどこなのか、何故突然私はあの部屋にいたのか何も分からない。頭がぼぅっとして、うまく考えが纏まらない。なにか得体のしれない透明な物体を無理くり手で掴もうとしているかのようなもどかしさに駆られた。今は、やめよう。そう、思った。


「沙羅、ここどこ?」 

「ここは医務室。新奈は今朝方、廊下で倒れているところを職員さんがみつけてくれたんだって。朝起きたら新奈が部屋の中にいなくて、私も必死に探したんだよ」


 沙羅は思い出したかのように、わっと泣き始めた。私はそれをみながら、まだぼんやりとした頭の中で沙羅の放った言葉を咀嚼した。私は、何故廊下にいたのだろうか。いや、朝に目覚めた覚えはない。それどころか前日に眠った記憶すらない。最後に覚えているのは、と記憶の海に手を伸ばしていた時、ふっと思い出した。


「そうだ……湊はどうなったの? 愛莉と亮太は?」

「どうして新奈がそれを知ってんの?」


 沙羅は目を大きく見開いている。何か不思議な生き物をみているかのようだった。あぁ、そうだ。昨日も、雪が降っていたのか。


「そんなことは今どうでもいいから、三人がどうなったのか教えて!」

「愛莉と亮太は今朝の点呼の時にはもう部屋にいなくて、噂では施設から逃げたらしいよ。それと、湊は」


 沙羅が絞り出すようにしてゆっくりと喋り始めてから間もなくして、私は「ちょっと待って」と話を止めた。


「今、今朝って言った?」

「うん」

「愛莉と亮太が施設から逃げ出したのが今朝ってこと?」

「うん。いつもの朝の点呼の時間に二人が来なくて職員さんが呼びにいった頃にはもう居なくなってたらしいよ」

「待って今日って何日? 私どれくらい意識を失ってたの?」

「え、今日? 今日は十二月の八日で、新奈が意識を失ってたのは今が夕方だから半日くらいじゃない? それが何か関係あるの?」


 今日が十二月の八日ということは、血液検査があった七日からほぼ丸一日近く私は意識を失っていたのだろうか。訳が分からなかった。私の記憶では、二人が施設から逃げ出そうとしていたのはお昼前。血液検査の後だった。午前中であることに間違いはないが、少なくとも朝の点呼の前じゃない。


 基本的に朝の点呼は子供達が一同に集い始める朝食前に行われる。沙羅が言っている話がもし正しければ、二人が部屋から居なくなったことに気付いたのは、遅くても午前八時前くらいということだろう。いや、私の記憶では二人が部屋の中に居ないことに気付くうんぬんの話ではないはずだ。逃げ出した二人を職員達が追いかけていた姿を私はこの目でみている。沙羅の言い方だと、まるで私が血液検査の翌日である今日の朝方に二人が逃げ出したかのようだった。


「湊はどうなったの?」

「湊は、懺悔室(ざんげしつ)に入ってる」


 沙羅が目を伏せながらそう言って、私はやっぱりと思った。あの日、湊は運動場へと向かおうとした職員に足をかけた。真意は定かではないが、私にはそうみえた。施設には幾つか禁忌とされているルールがあり、その内の一つに職員に手を上げるということも含まれている。禁忌を犯した人間が連れて行かれるのは、本館の地下にある懺悔室だった。


「出てこれるまで三日かかるって」

「何したの?」


 自分の記憶と答え合わせをする為に聞いた。


「職員さんに手を上げたらしいよ。それも今朝のことだって聞いた」


 そこまで聴いて、再び違和感に駆られた。湊が職員さんに足をかけたことは知っている。実際に私もこの目でみていた。だが、それも今朝に起きた出来事だというのか。意識の混濁した頭でこれ以上考えるのは無理だと思った。とにかく少なくとも身の安全が確保されている湊はともかくとして、まずは愛莉と亮太の二人が無事か確かめないと、それ以外のことは後でいい。そう思い、ベッドから床に足を降ろした。ひやりとしたつめたさが足裏から身体の奥底へと這い上がってくる。それと同時にくるぶしの辺りに何かが巻き付いていることに気付いた。金属製の輪っかのようなものだった。部分的に緑色のちいさな光を放つそれが、左の足首に巻き付いていた。


「あぁ、それはね」と沙羅が説明してくれた。今回の出来事を施設の館長である三島さんは反逆行為だと重く受け止めており、連帯責任として施設内にいる子供達全員に二度と今回のことがないようにと発信機が付けられることが決まったのだという。もう一度執り行われるはずだった三島さんの生前葬も今月は中止となり、子供たちの乱れた規律を正すことに集中的に取り組むことが決定したそうだった。


「なんか皆さんの安全を確保する為ですとか上手いこと言ってたけど、結局は愛莉と亮太みたいに施設から勝手に逃げられたくないからでしょ? 帰る家なんか元からない私たちにとっての家はこの施設しかないのにさ、こんな風にされたら思ってもなかったことをやりたくなっちゃうよね。二人が逃げた理由は知らないけど、今になって愛莉と亮太の気持ちがよく分かるわ」


 沙羅は自らの足首につけられた発信機をみながらそう言ってから、途端に顔を曇らせた。私は不安な気持ちに駆られて「どうしたの?」と問い掛けた。


「今回起きた事は、去年のあの時と入れて創設以来二回目の出来事らしくて、あれからそんなに月日も経ってないでしょ? だから職員さんも含め、特に三島さんが口には出さないけど凄く気が立ってる感じでさ、新奈が目を覚ましたらすぐに集会を開くから連れてきてって言われてるんだよね」

「私を?」

「うん、すぐにって」

「分かった、じゃあもうすぐにいこ?」


 ベッドから身体を起こそうと、両の手のひらに力を込める。立ち上がったすぐそばから一瞬意識が溶けて、ふらりとよろけてしまい、咄嗟に椅子から立ち上がった沙羅が私の身体を支えてくれた。


「ほら、まだ起き上がるのは無理なんじゃない? 三島さんも新奈が目を覚ましたらって言ってたし、何も今すぐ行かなくていいのに」


 私に肩を貸してくれながら見上げるようにして沙羅が私をみていた。


「うん。でも、愛莉と亮太が心配だし、湊の様子も聞きたいしね。それに、ここにいてもどのみち三島さんが来るでしょ? 凜花さんのことで一番疑われてるのは、私なんだから」 


 目をみて言うと、沙羅は「そっか……それもそうだね」と納得した素振りをみせて、二人横並びになって足を進めた。


 私達の住む妖精たちの庭は、つい先日創設百周年を迎えた。その百年の間に施設から逃げ出したのは、ただ一人。一年前まで私と沙羅と共に寝食を共にしてきた凜花さんだった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ