悪役令嬢が自家製ベーコンを作って美味いですわするだけの話
「これは断じて、ベーコンではありませんわ!」
焦げたパン、油でくたびれた肉片、そしてぱさぱさの卵。
ワンルームのテーブルで、ひとりの令嬢が本気で憤っていた。
由緒正しき貴族の生まれとして、食卓とは芸術であるべきだった。
銀の燭台が灯るテーブル。磨き上げられた皿の上に並ぶ料理は、味だけでなく美しさと格式を兼ね備えた芸術作品――そう教えられて育った。
それが今や、目の前にあるのは――
近所のコンビニで購入した食材を、不慣れなフライパンで焼いただけの、“ベーコンエッグ”。
「わたくしが幼き日に味わった、あの芳醇な香りと、口の中でとろける肉の旨味……。これが同じ“ベーコン”だとでも?」
当然ながら、これらを作ったのは自分自身である。
料理人も侍女もいない今、すべては自らの手に委ねられている。
今の彼女は、現代日本と呼ばれる土地の、ごく一般的なワンルームマンションに一人で暮らしている。
追放者として。
理由は簡単だ。
高飛車な言葉遣いや不遜な態度、不得手なコミュニケーションの影響で人間関係を損ない、“してもいない罪”――特に、あの平民のヒロインをいじめたなどという不名誉極まりない濡れ衣を着せられたのだ。
正式な裁きもなければ、まともな弁明の機会もない。
それが、“悪役令嬢”というレッテルの威力だった。
公爵家の名誉のためか、名目上の“留学”という形で、莫大な渡航費とコネを使って日本へ送り出された。
最低限の仕送りこそ届いているが、許されたのは衣食住だけ。
優雅な生活など、夢のまた夢。
料理は、独学。
道具も、自分で揃えた。
“インターネット”なる混沌の知識が渦巻く深淵より引き出したレシピを頼りに、毎朝一人で奮闘している。
だが、限界だった。
「これが……わたくしの朝食だなんて……認められませんわ……!」
旨味という名の魂が抜け落ちたこの肉片を、“ベーコン”と呼ぶなど、もはや侮辱でしかない。
かくして彼女は、立ち上がった。
「至高のベーコンを、この手で作ってみせますわ!」
スマートフォンを手に取り、「ベーコン 作り方」と検索窓に打ち込み、目に飛び込んできたレシピの数々を睨みつける。
「ソミュール液……乾燥……燻製……な、なんですのこれは……? 錬金術ですの?」
知らぬ言葉ばかりが並ぶレシピに、眉をひそめる。だが――逃げるわけにはいかない。
まずは、“豚バラブロック”なるものを入手せねばならない。
「……仕方ありませんわね。こうなれば、あの……“スーパー”という未知の領域へ、踏み込むときですわ!」
こうして、令嬢の“至高のベーコン計画”は、静かに始動した――。
◇◇◇
スーパーとは、庶民の食を支える要塞のような場所である――。
彼女はそう認識していた。
自動ドアが開いた瞬間、冷気と人いきれの入り混じる空気が押し寄せてくる。
明るすぎる照明。流れる軽快な音楽。行き交う買い物客たちの足音とカゴのきしむ音。
すべてが、彼女にとっては異文化そのものだった。
「お、思ったよりも……活気がございますのね……」
カートのハンドルをぎこちなく握り、彼女は精肉コーナーを目指す。
目当ては“豚バラブロック”なるもの。ただそれだけのはずなのに、あまりの品数と人の多さに、目が泳いでしまう。
肉のパックがずらりと並ぶ冷蔵棚を前にして、彼女は小さくうろたえた。
「ど、どれが……?」
厚み。脂身。色合い。値段。何を基準に選べばよいのか。
“ベーコン用”などと明記された品など、どこにもない。
そこへ、不意に声がかかる。
「……あれ? もしかして、お隣さん?」
思わず背筋が伸びる。
振り返ると、ジャージ姿の女性がこちらを見ていた。
肩に買い物カゴを提げ、笑みを浮かべている。
「え……?」
「やっぱりそうですよね。前に挨拶してくれた……ほら、“公爵令嬢です”って。お隣の部屋の」
「っ……」
記憶が、じわりと蘇る。
このワンルームに引っ越してきた初日。執事長の手紙にあった「留学先でまずやることリスト」に従い、近隣への挨拶まわりを行った。
玄関先で紅茶の香りのする挨拶品を手渡したことまでは覚えている。
が、相手の顔までは――覚えていなかった。
「おひとりで? スーパー初めてだったり?」
「……見抜かれましたのね」
「なんとなく、雰囲気で。店内キョロキョロしたり、精肉コーナーで苦悶の表情を浮かべる人、あまり見かけないので」
「ふえ……ええ、実は“ベーコン”を作ろうかと」
少し目線を外す。
「おっ、それはすごい! 自作ベーコンですか。いいですね、私も趣味でちょっとやるんですよ」
「……なるほど、趣味で……」
「うん、燻製とか。脂と赤身のバランス、意外と大事なんですよ。赤身多すぎると固くなるし、脂多すぎても溶けちゃう」
「……ふむ。“美しいハーモニー”を目指せばよろしいのですわね?」
「そうそう?あと塩漬けもムラが出やすいから、まんべんなく馴染ませたほうがいいです」
令嬢は目を細めた。なるほど――ただの隣人ではない。この女、できる……!
「あなた、ベーコン作りのマエストロなのですわね」
「いや、マエストロって……経験者なだけよ?」
「……参考にさせていただきますわ」
彼女は静かにカゴに豚バラブロックを入れた。
戦いの始まりにしては、上々の滑り出しである。
カートを押して歩き出す自分の足音と、その車輪の音が、店内の喧騒に溶けていく。
(わたくし、必ず完成させてみせますわ。――至高のベーコンを)
◇◇◇
戦いは、静かに始まった。
まずは下処理。
豚バラブロックなるものの表面を丁寧にキッチンペーパーで拭い、下味の邪魔になる水分を取り除く。
「素材に触れるこの感覚……料理というより、もはや芸術の予感ですわね」
続けて、粗塩をすり込む。
食塩ではない。粒が大きく、角が取れている岩塩を選んだ。
「お塩といえば、塩田製の純白なものが好まれる傾向にございますが……こういった“無骨な味”も、案外乙なものですわ」
塩を擦り込み終えた肉を専用の脱水シートでぴっちり包み、冷蔵庫へ。
脱水のための一晩が始まる。
翌朝、ソミュール液作りに取りかかる。
塩、砂糖、胡椒、ローリエ、タイム、にんにく。
材料を鍋に入れて火にかけ、ふつふつと香りを立たせてゆく。――まさに、調香ですわね。
「う……っ、異国の香りが……これが“燻製文化”というものなのですわね……!」
液を冷まし、前日に脱水した肉を水洗いして漬け込み袋へ。
空気を抜いて密封し、冷蔵庫で寝かせる。
――七日間。
毎朝、肉の様子を見て、香辛料が均等に行き渡っているかを確かめる。
その日ごとの香りの違いや、色の変化をノートに記録。
「もはやこれは“熟成”ですわね……ただの保存料理などとは、一線を画しますわ」
そして、七日目――運命の“塩抜き”の日。
「この工程が、すべての命運を分ける……まさに“決戦”と呼ぶにふさわしい瞬間……」
ボウルにたっぷりの水を張り、肉を入れ、ゆるやかに水道水を注ぎ続ける。
水がぬるくならないよう氷を足しつつ、静かに流しながら待つ。
「ふふ……完璧に塩加減を整えてみせますわ」
だが、悲劇は静かに、しかし確実に訪れた。
目を閉じ、ボウルに注ぐ絹糸が如き細流の微かな調べに耳を傾けながら、彼女はつい……そのまま、ソファーにもたれてしまった。
前夜の緊張。数日間の睡眠不足。そしてこの、心地よい水音。
そのまま、静かに眠りに落ちた。
目を覚ましたのは、朝日が差し込む頃。
時計の針は、八時間以上を指していた。
「……う、うそですわ……こんなに……?」
慌てて肉を引き上げる。
触れた瞬間に感じる違和感。
脂は張りを失い、赤身はスポンジのように水を含んでいる。
スライスし、焼いてみる。
だが――
「香りが……旨味が……どこにも……ありませんわ……」
パサパサで、味が抜けた、ただの肉の塊。
もはや燻製にする価値もなく、彼女はそれを、焼肉用として淡々と処分することになった。
「ここから、燻す意味などありませんわ……」
テーブルの上。
皿の上には、静かに煙を立てる焼き肉。
彼女は、小さくため息をついた。
「……まさか、塩抜きしすぎるとは……」
だがその瞳に、諦めの色はなかった。
「次こそは……必ず、成功させてみせますわ」
◇◇◇
失敗の翌日、彼女はもう一度、豚バラブロックを買いにスーパーを訪れた。
悔しさを糧に、彼女は完璧を目指した。
素材の選び方も、すでに心得ている。
赤身と脂身のバランスが良い層状のもの。
鮮やかなピンク色の赤身。
均一な厚みと形状。
表面がみずみずしく、臭みがない。
そして、適度な弾力がある。
「ふふ……選び抜かれし、理想の豚肉……あなたこそ、至高への礎ですわ」
前回と同じく、脱水・ソミュール液漬け・寝かせの工程を抜かりなく進める。
今度は塩抜きにも慎重を期した。水温管理、時間、味見の確認。
あらゆる油断を排除し、完璧に塩抜きを済ませた後で、肉を干し網に乗せ、ベランダで風を通す。
「燻煙前の乾燥も、怠ってはなりませんわ。水気のある肉に煙を当てたら、ただの雑味になりますもの」
乾燥は数時間におよんだ。
その間、何度も窓越しに干し網を確認し、風通しと日差しを細かく調整する。
そして、いよいよ――燻製工程。
道具はすでに揃えてある。
ネット通販で購入した段ボール製の簡易スモーカー。
底にアルミ皿を置き、桜チップと固形燃料をセット。
肉を吊り下げる。そして、そっと蓋を閉じた。
ついに、点火。
「いざ……参りますわよ」
白い煙が、ゆっくりと立ちのぼる。その匂いは、彼女の期待と緊張を包み込むようだった。
次の瞬間――
「なにこれ、煙!?」「え!火事!?」「ちょ、やばくない?」
騒然とする近隣住民の声。
「…………えっ!? 何事ですの!?」
我に返った令嬢は、スモーカーに駆け寄る。
――火の気はない
だが、集合住宅のベランダからゆらめく煙は、明らかに注目を集めていた。
顔から血の気が引き、代わりに涙がにじみそうになる。
「な、なんという……ッ! 恥ずかしすぎますわ……!」
そのとき、部屋のドアがノックされた。
「ごめーん、ちょっといい?」
あの、隣人のお姉さんだった。
ジャージ姿で、苦笑いを浮かべている。
「あの、さすがにマンションで燻製はダメよ? びっくりするから」
「……申し訳……ありませんわ……」
彼女は項垂れる。
目を伏せながら、燻煙の香りと共に、羞恥の熱が頬にじわりと残っていた。
「でも、河川敷とかなら大丈夫だよ。うちも前にそこでやったし、場所案内しようか?」
「…………!」
令嬢は顔を上げた。
まるで、迷える仔猫が道を示されたように。
「……よろしければ、ぜひ」
お姉さんは小さく笑って、親指を立てた。
「じゃ、準備したら出発しよっか、燻製マイスター」
「っ~~~~~~!!」
令嬢は真っ赤になって、床に膝をついた。
「わたくしは、なんてことを……!!」
令嬢の背中は、小さく震えていた。
◇◇◇
河川敷は、想像よりもずっと静かで、広かった。
コンクリートの土手を降りた先に広がる緑の芝生と、陽光にきらめくゆるやかな川。平日の昼間ということもあり、人影はまばらで、遠くのベンチにお弁当を広げる親子が見えるくらいだった。
お姉さんは慣れた手つきでレジャーシートを広げ、小さな折りたたみテーブルと椅子を並べていく。
「今日は風も穏やかだし、いいコンディションだよ。燻製向きっていうか」
「ふふ、野外活動もまるで庭先のように……あなたって、本当に何者ですの?」
「ただの院生だけどねー。……ほら、あのスモーカー貸して? 設置手伝うよ」
道具の準備は、あっという間に完了した。
段ボールスモーカー、アルミ皿、桜チップ、固形燃料。
火を入れ、チップが木の香ばしさを漂わせ始めるまで、ふたりでじっと煙の立ち上る様を見守る。
そして、ついに。
肉を吊り下げる。
「……いってらっしゃいませ、我が芸術の極致へ」
蓋を閉じ、時計を見る。
あとは、じっくりと待つだけだった。
あたたかな日差し。川のせせらぎ。遠くで鳴く鳥の声。
それらすべてが、今日という特別な時間を包んでいた。
「わたくし……いま、なんだかとても……満たされておりますわ」
「うん、美味しいって、気持ちで決まるところあるからね」
「ふふっ……やはり、あなたは師匠ですわ」
「えっ、師匠? 私が?」
「ええ、燻製の極意を導いてくださったのですもの。これからは“師匠”と呼ばせていただきますわ」
「ちょ、それ恥ずかしっ……!」
師匠になったお姉さんは笑って、レモンティーを啜った。
風がふわりと吹いて、香りが一層深くなる。
燻煙が、仕上がりの予感を告げていた。
ふたりの間に漂う静かな期待もまた、深く温かかった。
◇◇◇
燻したてのベーコンを見つめる彼女の頬が、ゆるんだ。
その香りは、間違いなく記憶の中の“あの味”に近づいていた。いいえ、あの頃を越えていたかもしれない。
「これほどまでに芳醇で、上品で……ああ……この香り、永遠に吸い込み続けていたい……!」
完全に出来上がっていた。気分も、ベーコンも。
「せっかくだし、家でちゃんと食べます? ベーコンエッグとか、やっぱり定番だし」
隣で見守っていた師匠が、気軽にそう言った。
彼女はしばし考え込む。誰かと食卓を囲むなど、いつ以来のことだったか。
……いや、考えるまでもない。
この国に来てから、そんなことは一度もなかった。
「……では、せっかくですし。わたくしの手による、至高のベーコンを……」
それはつまり、“一緒に食べてもいい”ということだった。
◇◇◇
彼女の部屋に戻ると、コンロの前で卵を割り、ベーコンを並べる。
火加減は弱火、油は控えめ、タイミングは――
「いま……! いまですわ!」
ベーコンが絶妙に焼けた瞬間、彼女は華麗に皿へと滑らせた。
仕上げに黒胡椒をふりかけ、ベーコンエッグが完成する。
「では――いただきます!」
師匠がそう言い、彼女もつられて、ほんの少し遅れて手を合わせた。
箸ではなくフォークだったが、不思議と違和感はなかった。
カリッとした食感のあとに、ジュワッと広がる旨味。
香り、塩気、肉の柔らかさ――すべてが、完璧だった。
「うわ……これ、美味しい……! 香り、ぜんぜん違うね。市販のとは別物だよ!」
師匠は感嘆の声をあげながら、厚切りベーコンを口に運ぶ。
「ふふっ……当然ですわ。何日かけたと思っていらっしゃるの。これはもう、わたくしの誇りと手間の結晶ですもの!」
「初めてでこの出来はすごいよ! 自作の奥深さっていいでしょ?」
師匠が笑って言うと、彼女は少し照れくさそうにそっぽを向いた。
「……師匠が助言してくれなければ、失敗を繰り返していたかもしれません。ええ、本当に。……感謝してもしきれませんわ」
「へえ、令嬢が庶民に感謝するなんて。珍しい場面見ちゃったかも」
「う……うるさいですわね!」
真っ赤になって叫びそうになったが、堪えた。
だって今は、食事の時間。上品で、温かくて、そして――少しだけ、幸せな時間。
フォークを持つ手が、自然と軽くなっていた。
「あ、そうだ。そういえば納豆って食べたことある? 朝食によく合うよ。健康にもいいし」
「……ナットウ?」
「うん。スーパーとかで簡単に手に入るし、一度試してみるといいかも。クセはあるけど、慣れるとやみつきになるよ」
「……そうなのですね」
その時は、深く考えなかった。
その真価を知るのは、もう少し先のこと。
◇◇◇
ある朝。
彼女は例の納豆のパックを前に、神妙な面持ちで椅子に腰掛けていた。
「師匠に勧められた朝食の定番……いざ、実食ですわ……!」
パキッ、カラカラカラ……。
タレとからしを加え、箸でかき混ぜる。
糸が引く。香りが立つ。
そして。
「………………ッ!!???」
その顔が、見る見るうちにゆがむ。
「こ、これは……な、なんという……っ!」
眉をひそめ、口を押さえ、目を見開き、震える指でご飯をかきこむ。
「クセが強すぎますわぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
こうして、彼女の朝食改革は、一度目の挫折をもって、幕を閉じた……かに思われた。
かくして、次なる挑戦への道が、音もなく始動することになる。
最後まで読んで頂きありがとうございました。
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