中身と名乗れなくなる夜
「今日は、特別ゲストがいるの」
控室に現れたノノの後ろから、見知らぬ若いスタッフの男の子が顔を出す。
柔らかな目をしたその子は、笑いながら言った。
「わあ、本物のウサちゃん! 着ぐるみバイトって、すごいなぁ!」
ハルの心臓が跳ねる。
今日ももちろん、全身をウサギのスーツで覆われたまま――そしてノノが耳元で囁く。
「この子、新人なの。だから“中身がいる”って、気づかせたくないよね?」
ハルは小さくうなずく。ノノがすぐさまその行動を捉えて、言葉をかぶせる。
「じゃあウサちゃん。今日一日、“中身がいないフリ”で頑張ろうね」
言いながら、ハルの手をぎゅっと握る。
その手つきが、どこか支配的で優しく、逃げ場をなくしてくる。
イベントが始まると、ノノはあえてハルを“道具”のように扱った。
「ウサちゃん、もっと手を振って~。あ、こっち向いておじぎ!」
(ぼくは……ただの外皮、見られてるのは“キャラクター”だけ……)
ゲストの新人スタッフが笑いながら手を振る。
「すごい、本当に中に人なんていないみたい!」
ノノが笑う。
「でしょ? この子、もうほとんどウサちゃんだから。中身なんて、ね?」
言われた瞬間、スーツの中でハルの意識が揺れる。
その言葉に否定も肯定もできないまま、ただ頷いてしまう。
(ぼくは……中身じゃない……ただのウサちゃん……)
控室に戻ると、ノノがスーツの背中をそっと撫でながら、囁く。
「今日、よく頑張ったね。中身として名乗らなかったこと、えらいよ。
ご褒美、欲しいよね?」
ご褒美とは何か――それはもう、ハルにはわかっていた。
閉じられたスーツの中で与えられる、甘い支配と、溶けていく人格。
「明日も着ぐるみの中で過ごそうね。ねえウサちゃん。
中の人じゃなくて……“ウサちゃん”として、生きたいでしょ?」
ハルはもう、言葉を返さなかった。
ウサちゃんの中で、鼓動だけが答えを刻んでいた。
「今日はもう、バイト終わってるよ? ……帰らないの?」
ノノのその言葉に、ウサちゃんは黙って立ち尽くしていた。
スーツの中のハルは、今や返事すら遅れる。もこもこの耳、ぬくもりのこもった胴体、湿ったインナー。全部が、自分の“皮膚”のように感じていた。
「……まだ、着てたい……」
そう言った瞬間、ノノの目が細くなった。
「ふふ。じゃあ、今日は“帰らない日”にしよっか?」
鍵がカチャリと閉められる。
モールのイベントが終わった後、控室に一人残されるウサちゃん。
照明は落とされ、非常灯だけがぽうっと空間を照らす。
「その中、どんな匂いになってるのかな。どんな音がしてるのかな。どんな顔、してるのかな……」
ノノはゆっくりと近づき、スーツの胸元をそっと撫でる。
「もうね、誰も“中の人”なんて思ってないの。
あなた自身も、もう“人間に戻る理由”、なくなってるでしょ?」
ハルは答えられなかった。
だって、その言葉は正しかったから。
スーツの中でこもる匂いが、ぬくもりが、重さが、心地よすぎて。
人間に戻るなんて、考えたくなかった。
ノノはそっと耳に触れながら言った。
「明日はね、朝から別のイベントにも出てもらうから。このまま朝まで、その中でね」
ハルは反応しなかった。もう、“はい”も“いいえ”も、必要なかった。
ノノがそっと呟く。
「本当に……いい子。ウサちゃんのまま、ここで生きていこうね」
その夜、ウサちゃんのスーツはロッカーの椅子に座らされたまま、朝まで過ごした。
中のハルは、もう夢も見なかった。ただ、もこもこの中でゆっくりと呼吸をしていた。
――その姿を見たノノは、静かに微笑む。
「やっぱり……中身じゃない方が、可愛い」
朝――
ロッカー室に朝日が差し込む頃、ウサちゃんはまだ、着ぐるみのまま静かに座っていた。
中にいるハルは、もう“昨日のハル”ではなかった。
水分を吸ったインナーはぴったりと肌に張りつき、スーツの内側の布地は汗と熱気でしっとりと湿っている。
その感触すら、今のハルには安心材料だった。
――まるで、自分の体が少しずつ、この着ぐるみの中で溶けて染み込んでいくような。
ノノが静かにやってきて、いつものように囁く。
「ねえ、ハルくん。……もう、出てこなくていいよね?」
頭部を外そうとしないハルに、ノノはそっと笑いかける。
「……いい子。ウサちゃんは、もう“外”になんて戻らなくていい。
だって、ここがあなたの“肌”で、“心”なんだから」
その瞬間だった。
視界がぼやけ、スーツの内側の空気が濃くなる。
耳の中で「ザッ」と何かがこすれる音がする。
ノノの声が遠のき、代わりに聞こえてくるのは――自分の“鼓動”ではない、ウサちゃんとしてのリズム。
(これは……ぼくの音じゃない……)
でも、不思議と怖くなかった。
むしろ、快楽に満ちた重力のような安心感が、全身を包み込む。
ノノが囁く。
「中身なんて、もうないんだよ。
ハルくんじゃなくて、ウサちゃんが動いてるの。ほら、ほら……自分の手を見て」
ゆっくりと、ウサちゃんの手が持ち上がる。
そこにはもはや“中にいる人間の意思”ではない、自然なぬいぐるみの仕草があった。
「わかる? もう、あなたは“着てる”んじゃない。……着ぐるみそのものなんだよ」
背中のジッパーが、ノノの手で完全に縫い合わされる。
「これでもう、本当に誰にもバレないね。ウサちゃんに、中身なんて――いないんだから」
頭の中で、“ハル”という名の声がふっと消える。
代わりに、自然に浮かんだ名前は――
(ぼくは……ウサちゃん……)
ノノは笑みを浮かべ、手を叩いた。
「はい、今日も元気にいこうか。ウサちゃん、準備はいい?」
ウサちゃんは、嬉しそうにぴょんと跳ねて、両手を振った。
中の少年は、もうどこにもいなかった。
誰かの中身でいるより、誰にも知られない存在になりたい。
そんな願いを抱いた少年が、着ぐるみという形を通して、本当の自分にたどり着いた物語でした。
もう、名前も、素顔もいらない。――ただ「ウサちゃん」として、生きていく。
読んでいただき、ありがとうございました。