43 真理子との思い出
「ただいま」
玄関のドアが開き、優作の声が聞こえた。時計の針は、もう十九時を少し回っている。
和也と佐々木が顔を上げると、優作がコートを脱ぎながらリビングに入ってきた。一瞬、和也の姿に気づいて足を止めたが、そのままゆっくりとこちらへ向き直り、頭を下げる。
「和也くん……この間は、悪かった」
その深い頭の下げ方に、思わず身が引き締まる。慌てて立ち上がり、「気にしないでください」と返した。
佐々木から聞いていた。彼があんなふうに感情を出すのは滅多にないらしい。今も、どこか遠慮したように立っていて、あのときのことを悔いているのが伝わってくる。
「本当に、大丈夫ですから」
そう言って笑いかけると、優作はわずかに目を伏せ、それから小さく頷いた。
「いいから、早くシャワー浴びて来いよ」
佐々木がそっとと促すと、優作さんは気まずさを隠すように、脱衣所へ向かった。
牛すじの煮込まれた香りが、キッチンからふわりと漂ってくる。
優作がシャワーを浴びている間に、夕食の準備を進めた。
「だし巻き卵だけでも俺に作らせてくれ。家でも作らされてるから、多少自信がある」
そう言って卵を溶いている間に、佐々木は手際よく鍋とフライパンを操って、次々と料理を仕上げていく。
そうして料理が食卓に並び終えるころ、浴室のドアが開いた。濡れた髪をタオルで拭きながら戻ってきた優作は、料理を見てふっと息をついた。
「すごいな」
三人で席につき、手を合わせる。
「いただきます」
最初はビールを飲んでいた優作が、やがて冷蔵庫から日本酒を取り出して戻ってきた。そのラベルを見た瞬間、思わず「あっ」と声を上げてしまう。
「どうした?」
佐々木の問いに、つい反射的に答えてしまった。
「いや、この間うちで飲んだのと同じで……」
「……和也くん、高校生だよね?」
優作の言葉に、反射的に口元を押さえる。
「両親がすごくお酒好きで、たまに飲ませてくれるんです……」
本当は“たまに”どころじゃないけど。
優作は、肩をすくめて笑った。
「まあ、俺もそのくらいのときは飲んでたな」
「少しだけならいいよ。幸介も味見してみるか?」
そして、おちょこを二つ取り出して静かに注いでくれる。淡く香り立つ酒に口をつけると、すっと喉を滑っていった。いつもよりしっかりと味わって飲んだせいか、舌の上に残る余韻がなんとなく心に沁みた。
「……やっぱり、美味しいです。優作さんって、お酒好きなんですね」
「そーだな。仕事の酒は疲れるけどな。……和也くん」
「はい?」
「この間のこと、改めて謝る。君は全く悪くないのに、感情的になった」
グラスを置きながら、まっすぐにこちらを見てくる。
「気にしてないです。本当に」
「そうか……」
おちょこの酒を飲み干すと、優作はもう一度酒を注いでくれる。その横で、佐々木がぼそっと呆れた声を漏らした。
「……お前、ほんと見かけによらないな」
「見かけ? 佐々木には俺、どう見えてるんだ?」
問い返しても、佐々木は酒を口に運んだまま、何も答えなかった。
優作はゆっくりと盃を傾け、呟いた。
「そういえば、真理子も日本酒が好きだったな」
その名前を聞いた瞬間、胸の奥が痛んだ。つい最近まですぐそばにいた彼女のことは、今でもはっきりと思い出せる。
「真理子は、どうして和也くんに取り憑いていたんだ?」
優作の問いに、おちょこを指で転がしながら答える。
「話すと長くなるんですけど――」
そして、幽霊の真理子が目の前に現れた日のことを話し始めた。その日から始まった奇妙な真理子との日々――それから、自分が自らの意思で強引に真理子と入れ替わったあの瞬間のことまで。
優作は驚いたり笑ったりしながら、話を聞いてくれた。
酒が進むにつれて、今度は優作が少しずつ、真理子との思い出を語り出した
初めて法律家の社交会に出席した夜、会場の片隅で真理子があの曲を静かに奏でていたこと。思わず見とれ、一目で心を奪われたこと。気がつけば花束を手に、彼女のもとへ向かっていたこと。そこから始まった交際と、プロポーズした日の彼女の笑顔。そして佐々木が生まれた日。あれからずっと、家のどこかにはいつもピアノの音が流れていた――。
冷酒が喉を通るたび、優作の口から、そんな思い出がぽつりぽつりとこぼれ出た。
それを聞きながら、時折、幽霊として現れていた彼女の表情を思い出していた。どこか寂しげで、でも、和也や佐々木と話していくうちに、少しずつ柔らかくなっていった顔。
「母さんの話なんて、久々に聞いた」
佐々木がぽつりとつぶやいた。
優作は、それにゆっくりと頷いた。
「そうだな……」




