41 作戦決行
文化祭の打ち上げが終わった後、佐々木、真理子、そして和也は、佐々木の家へと向かっていた。静寂に包まれた街を歩く二人の後ろを、ソワソワしながらついて行く。もし、今夜すべてが終わってしまったら。真理子は消えてしまって、本当にもう二度と会えないのかもしれない。そんなことばかり考えていた。
佐々木の家に着くと、玄関には一人の男が立っていた。佐々木の父親――優作だった。
「孝介、おかえり。……そちらがお友達か?」
事前に佐々木が、友達を連れて行くと話しておいてくれたのだ。彼の目が、真理子に向けられる。
「久しぶりね、優作さん。私は孝介の友達じゃないわ。――あなたの妻。真理子よ」
静寂が走る。優作の表情が、見る間に強張った。
「……帰ってくれ」
その声は低く、冷たく、聞いたこともないほど拒絶に満ちていた。真理子はそれでも一歩も引かず、ただまっすぐに彼を見つめていた。
「優作さん――」
「帰れと言っている!」
怒声が玄関に響き、和也は思わず体を強張らせた。佐々木も言葉を失っている。
「……優作さん、私は本当に真理子よ」
「黙れ……大人をからかって楽しいか。不愉快だ」
優作の拳が震えているのが見えた。正直、ここまで拒絶されるとは思っていなかった。だが、逆に言えば、優作の中ではまだ彼女の死への折り合いが全く付いていないのではないだろうか。だからこそ、目の前の少年が亡き妻を名乗ることが、耐え難いほどの侮辱に思えたのだろう。
「優作さん、お願い。話を聞いて」
「孝介、お前もいい加減にしろ。そいつを連れて出ていけ」
これは、一旦戻って出直すしかないのかもしれない。
「なら、ピアノを弾かせて」
唐突なその一言に、優作の動きが止まる。
「……ピアノ?」
「あなたが一番知っている、私の音を聴かせてあげる」
しばしの沈黙の後、優作は怒りを押さえ込むように、深くため息をついた。
「……勝手にしろ」
案内された防音室は、ほんのりと金木犀の香りが漂っていた。そこに鎮座するグランドピアノは、変わらぬ美しさを放っている。
そうだ。ここで小学生の頃、佐々木と共にピアノを弾いた。そして時折真理子がやってきては、嬉しそうに見守っていたのだ
真理子はピアノの前に座り、目を閉じ、指先を鍵盤に添える。
――ラ・カンパネラ。
最初の音が、部屋の空気を震わせた。
その響きは、温かく、そして鋭かった。
初めはたどたどしかった音が、次第に滑らかになり、真理子の魂がそこに宿っていくのがわかった。これは、録音でも模倣でもない。生きていた頃の彼女が、確かにここにいる――そう思わせるだけの、圧倒的な演奏だった。
優作さんが、何も言わず立ち尽くしている。その肩が震えていた。
音が部屋を満たすたびに、過去も悲しみも怒りも、すべてが溶けていくようだった。
曲が終わると、優作はぼそりと呟いた。
「……真理子、なのか?」
その声は、震えていた。
「やっと信じてくれた?」
真理子が微笑むと、優作の目から静かに涙がこぼれた。
「優作さん。私は自殺なんてしていないわ。本当に幸せだったの。あなたと出会って、孝介を産んで、大好きなピアノを仕事にできて――何一つ、捨てたいと思ったことなんてなかった」
彼女の声は優しく、それでいて力強かった。優作は顔を覆い、嗚咽を漏らした。
「ちゃんと長生きするのよ。体を大事にね」
そして、真理子は佐々木の方を向いた。
「孝介、大きくなったわね。今日、文化祭で一緒にピアノを弾けて、本当に嬉しかった。冥土の土産にするわ。……あとはそうね、あなたはもう少し自分の気持ちに素直になることね。私はいつでもあなたの味方よ。ずっと見守ってるわ」
佐々木は俯き、唇を噛んでいた。肩が小さく震えている。
「和也くん」
その声だけで、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
「本当にありがとう。あなたがいてくれたから、私はもう一度、大切な人たちに気持ちを伝えることができた」
「真理子さん……俺も、あなたのおかげで全部思い出せた。あの日々のことも」
「あなたはとても優しい子ね。孝介と友達になるところを、二回も見られて幸せだったわ」
「待って、まだ逝かないで……!もっと、話すことがたくさん――」
気づけば、視界が白く染まり始めていた。
淡い光に包まれていく真理子が、静かに微笑んで言った。
「ありがとう。本当に、ありがとう」
そしてその姿は、ふっと光の粒になって、静かに、静かに消えていった。
まるで夢から覚めたように、現実の空気が戻ってくる。元の体に戻ったのだ。
でも、確かにそこには、彼女の温もりが残っている気がした。




