21 危機一髪
翌朝、目を開けると、見覚えのない天井と柔らかい布団の感触に迎えられた。ぼんやりとした意識の中、部屋の空気がいつもと違うことに気づく。
「おい、いい加減起きろよ」
不意に聞こえてきた声に、布団の中で身を縮めた。
「……うーん。まだ」
ぼそぼそと返事をするも、肩を軽く揺すられる。布団の端を少し持ち上げられた。寒い。
「もう十時過ぎてるぞ」
その声に微かに含まれた呆れのような響きに、意識が覚醒した。
「十時……? えっ、マジか!」
ガバッと布団から飛び起き、自分が知らない部屋のベッドの上に寝ていることにようやく気づいた。
「……え、なんで俺、ここに?」
確か昨日は、佐々木と映画を見ていたはずだ。その後、どうやってここまで移動したのかが思い出せない。
ぽかんとした顔で見上げると、佐々木が淡々とした口調で答えた。
「俺が運んだんだよ。お前がソファで寝落ちたから」
その言葉に思わず固まる。
「えっ……マジで?」
「ああ」
佐々木が何気なく頷くのを見て、一気に体温が上がった。真っ赤になっているであろう顔を見られたくなくて、布団を引っ張り上げて隠す。
「いや、恥ずかしすぎるだろ……俺、変な寝言とか言ってなかったよな?」
「知らねぇよ。気にしてないし」
「ええー……気にするだろ普通」
佐々木の淡白な返答に軽く抗議しつつも、自分がどれだけ醜態を晒したのかを想像してますます恥ずかしくなった。
「さっさと降りてこいよ。飯、冷めるから」
佐々木は話を打ち切るように部屋を出て行った。
リビングに降りていくと、テーブルには目玉焼きとトースト、簡単なサラダが並べられていた。香ばしい匂いが食欲を刺激する。
「おお……朝からちゃんと用意してんのか。偉いな」
佐々木は既に食べ終えたらしく、前に座ってコーヒーを啜っていた。
「……お前も飲む?」
「え、いいのか?欲しい!」
それを聞いて佐々木がキッチンへ向かった。いよいよ本当にお母さんみたいだ。
「いただきます」と手を合わせ、トーストにかぶりつく。小麦の香ばしい風味が口いっぱいに広がった。
「うまい!やっぱり佐々木、料理上手いよな」
「トースト焼くのに上手いも下手もないだろ」
そうボヤきながら、佐々木がコーヒーを手に戻ってくる。
「……でも、ありがとな。昨日、運んでくれて。重かっただろ」
「……逆。軽すぎてびびった」
「え……そうか」
それもそれで少し複雑だなと思いながら、トーストにもう一口かぶりついた。
「でもさ、どうやって運んだんだよ? ……まさか姫抱きとかじゃないよな?」
おそるおそる尋ねる。
「普通に担いだだけだ。くだらないこと言ってないで早く食え」
「はい……」
朝食を食べ終えてひと段落すると、時刻は十一時を過ぎていた。朝食というより少し早めの昼ご飯を食べたような形になってしまった。
「とりあえず、昨日見つけた名簿の住所に行ってみないか?」
スウェットから昨日着ていた服に着替え直しながら、リビングのソファに座る佐々木に声を掛ける。
「俺は暇だからいいけど、お前はいいのか?」
「全然平気。俺も暇だし」
かくして、鴻池一の家へと向かうことにしたのだった。
鴻池一の家は、佐々木の家から地下鉄とバスを乗り継いで、30分くらいの場所にあるらしい。例の如く道が全くわからないため、申し訳なさを感じつつもルートは全て佐々木に任せた。
前に佐々木と一緒に行った映画館のある大きな駅の次の駅で、地下鉄からバスに乗り換えるようだ。電車がホームに着き、佐々木が「降りるぞ」と囁く。どうやら今日はこの辺りで催し物があるらしく、同じ駅で降りる人が大勢いた。
人混みに紛れて、たちまち佐々木を見失ってしまった。なんとなく人の流れに合わせて改札へと向かったが、佐々木らしき人は見当たらない。それでもとりあえず地上に出たほうがいいいだろう。一番近くにあった階段を登ってみる。
地上に出ると、目の前に広がったのは、思った以上に閑散とした風景だった。古びた商店街の名残のような建物が並んでいるが、どの店もシャッターが降りたままだ。人気がなく、やけにひんやりとした空気が漂っている。
とりあえず大通りに出たいが、どちらに行けば良いのかがわからない。道標になるものも見当たらない。仕方ない。誰か近くに立っている人に声をかけよう。
しばらく歩くと、シャッターが降りた店の近くのベンチや壁際に寄りかかって、何やら楽しそうに話している人たちを見つけた。
「あの、大きな通りに出たいんですけど、どっちに行けばいいですか?」
いちばん手前の男に声をかける。日焼けした肌に派手なジャケットが妙に浮いて見えるが、笑い声が無邪気な感じに聞こえたため、親切そうな人かもしれないと勝手に判断した。声をかけると、彼は一瞬、こちらを見て沈黙した。ちょっとした間があったけど、あまり気にせずに続けた。
「大通りの方向だけでも教えてもらえませんか?」
「兄ちゃん、ここ初めて? それなら案内してやるよ」
そう言いながら、他の男たちも集まってくる。どの顔も同じように見えて、誰が誰だか分からない。ただ、一斉に近づいてくる感じがちょっと怖かった。
「あ、ありがとうございます。でも、すぐそこなら自分で行けるんで――」
断ろうとした瞬間、肩に手を置かれた。力が強くて、思わず身体が揺れる。男たちの声が低くなって、何か相談しているようだったけど、言葉が耳に入ってこない。空気が妙に冷たく感じる。
「こっちだよ、ついてきな」
男たちに誘導されるまま、彼らの後を歩き始めた。少し歩いた先で、急に周りが狭くなって、建物が入り組んだ場所に入る。なんだか雰囲気がさらに薄暗くなった気がする。
「この道、本当にあってるんですか?」
不安そうに思って尋ねると、彼らが笑いながら肩に手を回してきた。
「いやいや、まずはこっちで少し話そうや。綺麗な顔してるな、兄ちゃん」
その瞬間、背筋が冷たくなった。ようやく逃げようと決心したが、もう遅かった。引き寄せられるように腕を掴まれる。どうしよう。まさかこんな状況になるなんて。心臓がドクドクと大きな音を立てているのが分かる。
そのとき、ポケットの中でスマホが震えた。急いで掴み取る。
「お前どこにいるんだよ。――おい、大丈夫か?」
電話越しの佐々木の声を聞いた瞬間、ほっとする間もなく体が強く引っ張られた。
男たちに囲まれて、背後から羽交い締めにされる。
「おい、なんだその電話。切れよ」
男たちが苛立った声を上げている。必死にスマホを握りしめた。
「助けて! 変な人たちが――」
そこで声が途切れた。スマホは奪われなかったけど、口元を押さえられたせいだ。
そのまま路地裏に連れ込まれそうになり、口を塞いでいる男の手に歯を立てた。
「いてぇ!……この野郎!」
手を噛まれた男に地面に突き飛ばされ、そのまま馬乗りになられる。
――殴られる!
そう思った瞬間、どこからともなく飛んできたゴミ箱が、男の顔面に直撃した。
ゴミ箱の飛んできた方向に目を向けると、息を切らせた佐々木が立っていた。彼は一瞬で状況を理解したようで、和也を拘束していた男に殴りかかる。あまりにも素早い動きに周りの男たちは驚いて動きを止めたが、それも束の間で、すぐさま佐々木を取り囲んだ。
佐々木は背後から飛びかかってきた男の顎を右の拳で強打し、後ろに倒れさせた。
「早川、早く逃げろ!」
叫びながら、もう一人の男の腕をつかんで投げ飛ばす。
応戦しなくては。そう思うのに、身体が震えて足も重く、動くことができない。
男たちの一人が、佐々木に向かってナイフを振りかざすのが見えた。反射的にその男の腕に飛びつく。
「馬鹿野郎!逃げろって言っただろ!」
佐々木は相手の腕から和也を引き離すと、その手に握られたナイフを奪い取った。
そのまま男の手にナイフを突き立てる。
「ぎゃあああああ!」
刺された男が叫び声をあげたが、佐々木は構わずさらに奥へとねじ込んだ。
それを見て、男たちが逃げるようにその場を後にする。少し遅れて、手にナイフを貫通させたままの男も逃げていった。
その一部始終を、地べたにへたり込みながら呆然と見守っていた。佐々木が歩み寄ってきて、腕を引っ張り上げる。
「何があったんだよ!」
「その、ご……ごめ――」
状況を説明しようとするが、口の中が乾いて言葉がうまく出てこなかった。
「……もういい。ここから離れるぞ」
佐々木に手を引かれて、大通りに向かって歩き出した。
後ろを振り返ると、男たちはもう見えなくなっていた。でも、胸の鼓動はまだ収まりそうになかった。




