1 転校生
ピピピピ……ピピピピ……――。
目覚まし時計の音で、和也は目を覚ました。頭の中はまだぼんやりとしているが、軽く伸びをして布団から抜け出す。眠気まなこで階段を降り、洗面所へ向かって顔を洗った。水の冷たさが心地よい。
リビングに向かうと、父が情報番組を眺めながら台所で朝食を作っているところだった。
「おはよう」
「おー、おはよう。今日、鯖の塩焼きだぞ」
「え、やった」
鯖の塩焼きは大好物なのだ。
「母さんは?」
「ああ、午前中の会議の資料がまだできていないとかで、早くに出ていったよ」
「え、終わってないのに昨日あんなに飲んでたのか」
「そーだなぁ。まあ、あいつのことだから、何とかやるだろ」
父が笑いながら言い、ダイニングテーブルに朝食を運んできた。
「いただきます」
箸を取り、焼きたての鯖を口に運ぶ。香ばしい味が広がり、自然と顔が綻んだ。
「優也は昨日も大学に寝泊まりしたのかな。もう1週間くらい顔合わせてない気がするんだけど」
「そうだな。まあ、研究が忙しいんだろうなぁ」
優也は和也の兄で、今は実家から電車で通える距離にある国立大の大学院一年生だ。和也からしたら怠惰でお調子者な人間という認識だが、頭はいいらしい。
「ごちそうさまでした。洗い物やっとくよ」
台所に食器を持っていき、出勤の準備をしている父に声をかける。
「おお、ありがとう。それじゃあ、俺もそろそろ会社行くよ。和也も気をつけてな。何かあったらすぐ電話するんだぞ」
「分かってるよ。心配しすぎだって。俺もう高校生なんだからさ」
「まあな。じゃあ、行ってきます」
「いってらっしゃい」
父が出ていくと、家には和也一人になった。食器を洗いながら、先程の父の言葉を思い出す。
いいかげん、少しは見直してもらいたいものだ。確かに高校に入学したての頃は色々やらかしたが……。
「これで終わりっと」
食器を拭いてシンクをきれいにした後、もう一度洗面所に向かい、歯を磨いた。
部屋に戻り、制服に着替え、念入りに鞄の中身を確認する。
よし、絶対に忘れ物はない。
家を出て、きちんと鍵をかける。
上を向くと、思わず目を細めたくなるほどの快晴が広がっていた。空は澄み渡り、雲ひとつなく青く輝いている。朝の光が目に染みる。清々しい秋晴れの空気に包まれ、普段より少しだけ気分が良くなった気がした。
毎朝の通学は、慎重に進む迷路のようなものだ。家から駅までは徒歩二十分ほどで、普通の人ならば特に意識することのない短い道のりだろう。しかし、和也にとってはそうではない。
小学五年生の時に交通事故にあって、頭を強く打った。それ以降、道を覚えることが出来なくなったのだ。地誌的失認と言う障害なのだと医師に説明された。簡単に言えば、重度の方向音痴だ。この障害は通常、脳の損傷などによって後天的に現れるらしい。
地誌的失認を持つ人は、地図を読んだり、道順を記憶したり、場所の配置を理解することができない。たとえ何度も通った場所でも、その景色を正しく認識できないことがある。
事故に遭ってから、知らない街で迷うことはもちろん、知っているはずの場所でさえ、地図のない迷路のように感じる。
和也の住む住宅街の景色はどこも似ている。整然と並ぶ家、碁盤目のように交差する道、角ごとに立つ同じ形の電柱。これらを目印にすることは難しい。見てもすぐに頭から抜けていき、曖昧な印象しか残らないのだ。
頼りは、通り道にある郵便ポストと病院の広告看板だ。特に看板は全面が派手なピンク色に塗られており、それを目にすると「この角を曲がってしばらく真っ直ぐに進めば駅に着ける」と自分に言い聞かせることができた。
今日もいつものように、看板を曲がり、電車に乗った。電車に乗ってさえしまえば、あとは何の心配もない。次々と乗ってくる自分と同じ制服を着た学生たちと同じ駅で降りて、その流れに付いていけば良い。
しかし、朝の試練はこれだけではない。
電車が高校の最寄駅のホームに着き、周りに合わせて降りる。改札を出たところで、後ろから肩を叩かれた。
「はよー」
声をかけてきたのは、身長は自分と同じくらいの人だった。制服と声のトーンからして男だ。
「おはよう」
相手に挨拶を返しながらも、頭をフル回転させる。
髪型は普通。学校の指定鞄には、何もアクセサリーが付いていない。靴も黒と白のナイキのスニーカーで無難だ。
「なあ、これ見て。昨日ガチャ引いたら当たった」
差し出してくるスマホのカバーとその画面で、相手が特定できた。
「え、それお前がずっと欲しがってたやつか。よかったじゃん。いくら課金した?」
「……お前。それは聞いちゃいかんのよ」
――こいつ、五千円は使ったな。
隣を歩くこの男はクラスメイトであり、普段つるんでいる友達のうちの一人だった。山本と言う。ゲーマーで、基本的にゲームか漫画の話しかしない。
「あ、そーいやLINEみた?吉川熱出たから休むって。俺ら今日の昼飯二人ですな」
「まじかよ。心配だな」
「お、早川、山本、おはよー!」
教室に入ると、今度は背が高く、少し雰囲気の軽い男が話しかけてくる。この感じはおそらくバスケ部の村田だろう。普通に挨拶を交わして自分の席に着く。すると今度は女子が話しかけてきた。
「早川おはよー。ねえ、今日の数学の宿題やった?」
「やったよ。見る?」
「まじ?助かる〜!問三以降全然わかんなくてさ〜」
「ああ、確かにちょっと難しかったね。もし見るだけじゃ分からなかったら説明するよ」
「神ー!」
差し出したノートを受け取ってペンを走らせている女子を眺める。髪の毛はセミロングくらいで、標準体型。筆箱はピンク色。そして自分への接し方からして、清水で間違い無いだろう。
和也の高校は元男子校で、さらにこのクラスは理系クラスであるため、女子生徒の数は少なく、八人しかいない。しかし、意外とその八人を区別することも、難しかったりする。何せ、女子は髪型がコロコロ変わるのだ。前日は髪を下ろしていたはずなのに、次の日には結んでいる、ということがざらにある。さらに悩ましいのは、一日の中でも結んだり解いたりで髪型の定まらない女子がたくさんいることだ。
普通の人は、相手を、髪型や使っている私物、声のトーンなどで判断したりはしないだろう。顔を見ればすぐに、相手が誰なのかがわかるはずだ。しかし和也にはそれができない。
和也は地誌的失認だけでなく、相貌失認も抱えている。これも同じ事故によって後天的に発症したものだ。人の顔を覚えたり、認識したりすることができなくなった。相貌失認を持つ人にとって、顔は人を識別するための決定的な手がかりにはならない。たとえ家族や友人であっても、声や髪型、服装といった顔以外の特徴を頼りに認識するしかない。しかし、それらが少しでも変われば、相手を見分けることが難しくなってしまう。和也にとって、人の顔は単なるパーツの集まりにすぎず、それを認識するのは、他の人が思うほど簡単なことではないのだ。
始業のチャイムが鳴り、担任の女性の先生が教室に入ってきた。生徒たちがちらほらと席に着く。
この朝の時間はかなり重要だ。自分の席の周りの生徒はもちろん、視界に入る生徒全員のその日の特徴を、メモ帳に記録していく。クラスの座席表は既に丸暗記済みだ。
大抵の生徒は、前日と変わらない。問題は、主に髪型が変化した生徒だ。
高校という空間では、全員が同じ制服を着ている。上履きも学校指定のものだ。そのため、髪型は相手を見分ける判断材料として重要である。しかし、この学校は県内トップの進学校。つまりガリ勉率が高く、男子の髪型は正直みんな同じようなものだ。しかし逆に良い点もある。それはメガネ率が高いことだ。クラスメイトの眼鏡のフレームを見ただけで、誰のものかがだいたいわかるようになった。
ガラッ――――。
毎日の日課であるメモ作りに勤しんでいると、教室の前の扉が開いた。男子用の学生服を着た、背の高い人物が教室に入ってくる。
「え、誰だ……?あいつ……」
「髪やば……」
「てかでかくね?」
教室がざわめきだす。
しかし和也にはクラスメイトの声など聞こえていなかった。
視線は、いきなり登場したその人物の頭に釘付けとなっている。
「……金髪」
その生徒は髪の毛を金髪に染め、よくみると耳にはたくさんのピアスをつけていた。
「彼、佐々木幸介君は、今日からこの学校に通う、新しいクラスメイトです。皆さん仲良くしてあげてください。じゃあ佐々木くん、軽く自己紹介して」
担任の先生に促されて、転入生が口を開く。
「……どうも」
なんとも愛想のない挨拶だ。先生も少し困っている。
「えーと……それじゃあ、佐々木くんはあっちの窓際の空いてる席に座ってね。それじゃあ、ホームルーム始めますね」
夏休みが終わってすぐの、高校二年生の九月。和也のクラスに季節外れの転校生がやってきたのだった。