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死神シリーズ

永遠のトロイメライ〜幽霊になった僕は妻を見守る〜

作者: 咲来青

なろうの短編の中では長めな方かもしれませんが、お読みいただけますと幸いです。


ジャンルはどれにしていいかわからず、〝純文学〟→〝ホラー〟→〝ヒューマンドラマ〟と転々としてしまいましたが、やはりヒューマンドラマが一番合うかな……と思っております。(たぶん……)

「絶対に、私より先に逝かないでね」


 それが彼女の口癖だった。


 呪縛とも取れる言葉。

 だが、彼にとっては、己を奮い立たせる糧でもあった。



「あなたがいなくなってしまったら、私……」


 言葉に詰まり、彼女はうつむく。長いまつ毛が震え、今にも涙がこぼれ落ちそうだった。


「その先を、どう生きて行けばいいかわからない。光を失ったみたいに……魂のない人形のように、生きて行かなければならなくなるわ」


 司は優しく微笑み、紗那の頬にそっと手を添えた。『大丈夫だよ』と――願いにも似た祈りを込めて。まるで当然を装うように。


「君を置いて、死ねるわけがないだろう?」


 力強くそう言うと、彼は紗那を抱き寄せ、華奢な体をしっかりと抱きしめた。

 彼女の温もりを感じながら、司は心の中で誓う。絶対に、この腕の中から彼女を失うようなことはないと。


「僕たちは、ずっと一緒だ。たとえ何があっても、決して離れない」


 司の言葉と温もりに、紗那の心は少しずつほどけて行く。不安は和らぎ、ようやく柔らかな笑みがこぼれた。

 心からの笑顔は、司の胸に強く――深く染み渡った。




 ……そう、約束した。


 約束したのに。



 彼は約束を守れなかった。






 〝彼〟の名は七瀬司(ななせつかさ)

 〝彼女〟の名は七瀬紗那(ななせさな)


 共に二十代後半。

 結婚五年目の仲睦まじい夫婦だ。


 子供はいない。

 互いに望んではいたが、授からなかったのだ。


 それでも――彼らは幸せだった。


 休日には二人で出掛け、互いの誕生日や記念日にはプレゼントを送り合った。

 ケンカらしいケンカもなく、穏やかで、それなりに充実した日々を送っていた。



 しかし、ある日のこと。

 紗那は司と連絡が取れなくなった。



 残業していて連絡する暇もないのだろうと、最初は気にも留めていなかったのだが。

 通常の帰宅時刻から一時間経っても、ニ時間経っても、夜中になっても帰って来ない。

 電話をしてみても繋がらず、メッセージを送っても、返信どころか既読にすらならなかった。



 嫌な予感がする。

 胸騒ぎが止まらない。


 何かあったのだろうか?

 まさか、事故にでも遭っているのでは?


 夜間から降り出していた大雨が、さらに不安を掻き立てる。



 まんじりともしない夜を過ごし、朝を迎えた頃。

 ようやくスマートフォンの着信音が鳴った。





 嫌な予感は当たってしまった。

 司は交通事故に遭い、帰らぬ人となった。

 即死だったという。


 事故に遭ったのは、夜七時頃。


 見通しの悪いカーブで車がスリップし、対向車線を越えて大型トラックに衝突。

 側面への衝突だったため、トラックの方は多少壊れた程度で済み、運転手も無事だったそうなのだが。


 司の車は衝突した後、さらにガードレールに勢いよく突っ込み、大破。

 携帯電話も、身分を確認できるものが入った鞄も、車外に放り出されてしまった。

 それらがなかなか見つけられなかったせいで、連絡が翌日になってしまったということだった。



 司も紗那も、天涯孤独に近い身の上だ。

 遠い親戚くらいはいたのかもしれないが、交流した記憶すらない。

 そのため連絡先もわからず、結局、葬式に参列してくれたのは、会社の人達や、数人の知り合いだけだった。



 参列者の中には、司の親友である笹倉和樹(ささくらかずき)の姿もあった。


 司とは高校からの付き合い。

 同じ大学に進み、卒業後は、互いにIT関係の企業に就職した。


 就職してからも二人の友情は続いていたが、紗那は、笹倉には数回しか会ったことがなかった。

 人見知りの彼女を気遣い、司はいつも、笹倉とは外で会っていたからだ。



 司の死を聞き付け、笹倉はすぐに駆けつけてくれた。

 紗那の顔を見るなり涙を浮かべ、深く頭を下げてきた。


 親友が亡くなったことに対する悲しみは、もちろんあるだろう。 

 だが、それとは異なる理由で、笹倉は後悔しているように見えた。


 その理由が何なのか、その時の紗那には見当もつかなかったけれど。




 葬儀が終わった後。紗那は笹倉に誘われ、近くの喫茶店に入った。

 席に着いてからしばらくして、彼は重い口を開いた。


「実は、司が事故に遭った日のことなんですが。あの日、仕事が終わったら、司と会う約束をしていたんです」

「え?」


 思いもよらない話だった。


 いつもの司なら、飲みに行く約束などしていたら、必ず前日には知らせてくれていた。

 よほど急な話だったというのなら、また別だが。

 紗那に一切知らせないまま外で人と会うなど、今まで一度もなかった。



 笹倉の話によると。

 その日は久しぶりに、二人で飲みに行くことになっていたのだそうだ。

 だが、そんな日に限って、仕事が次から次へと舞い込んで来た。

 おまけに、トラブルばかり起こる始末で、飲みに行けるような状況ではなくなってしまったのだという。


 司が事故に遭ったのは自分のせいかもしれないと、笹倉は悔やんでいた。


 自分が早く仕事を終わらせ、待ち合わせ場所に行っていれば、司が事故に遭うことはなかったはずだと。

 いや。せめて、遅れるという連絡だけでもしていればと、笹倉は涙を流して悔しがった。


 笹倉のせいではない。誰が悪いわけでもない。

 強いて言うなら、運が悪かっただけだ。

 もしもここに司がいたら、同じように言っていたはずだ。


 そう伝えると、笹倉は辛そうに顔を歪め、もう一度深々と頭を下げた。





 喫茶店から自宅へと戻った紗那は、ダイニングキッチンのテーブルの上にバッグを置く。


 ゆっくりと部屋を見回しても、ガランとした空間が広がるだけ。

 静寂に包まれた空間には、誰の息遣いも感じられなかった。


 当然司の姿も――どこにもありはしない。


 紗那はふらつく足取りでリビングへと向かった。

 カーペットの上にぺたりと座り込み、放心したように一点を見つめる。


 それからしばらくの間、紗那はピクリとも動かなかった。



 そんな紗那を、少し離れたところから、心配そうに見つめる者がいた。

 ――司だ。


 いや。もっと正確に言えば、司の幽体だ。


 彼は死亡した後、幽霊となって、ずっと紗那の側にいた。

 自分の死後、紗那がどうなってしまうのか、心配で堪らなかったのだ。


 彼は死んだ身。紗那に触れることも、声を届けることもできない。


 何度も彼女に手を伸ばした。

 だが――温もりを感じることはできないまま、その手は虚しく彼女の体をすり抜けた。

 どれだけ呼びかけても、彼女の耳には届かない。

 言葉は、ただ空気に溶けて消えるだけだった。


 紗那の体温も、自分に向けられる柔らかな笑顔も、もう二度と、感じることはできないのだ。

 ……それが、何よりも苦しかった。



 それでも彼は、紗那を見守ることを選んだ。少しでも長く、彼女の側にいたいと願った。

 たとえこの先永遠に――彼女に自分の姿が見えないとしても。





 彼が最後に目を覚ました時。

 そこは真っ暗な世界だった。


「ここはどこだ? 俺は……何をしていたんだっけ?」


 暗闇の中で、彼は必死に記憶を辿った。

 自分がどうしてここにいるのか、思い出そうとした。


「おまえは死んだんだよ」

「えっ?」


 突然聞こえてきた声に、司は驚いて振り返った。

 そこには一人の男が立っていた。背の高い男だった。


「だ、誰ですか?」

「死神だ」


 男はぶっきらぼうに答えた。

 死神と名乗ったその男の顔は、白い仮面で覆われていた。

 黒いローブのようなものを着ていて、背丈以上もある大きな鎌を手にしていた。



(死神? 死神って、本当に大きな鎌なんて持ってるんだな)



 頭の隅で思いながら、司は『死神』と名乗る男に訊ねた。


「死神って……。俺、死んだんですか?」

「そうだ」


 死神はあっさりとうなずいた。

 司は呆然としながら、もう一度周りを見回す。


 やはり、そこは暗闇の世界だった。

 目の前にいる男の姿だけは、何故かハッキリと認識できたが。


「おまえの魂は、現実世界から、まだ完全には離れていない。まあ、それも時間の問題だがな」


 そう言うと、死神はゆっくりと大鎌を構えた。


「そろそろ、覚悟を決めろ。おまえの魂を、現実世界から切り離し、あの世に連れて行かねばならん」

「あの……世?」

「そうだ。この世とは、全く異なる世界だ」


 司はゴクリと唾を飲み込んだ。

 それはつまり、もう二度と、紗那や和樹に会えないということか。


 理解したとたん、胸の奥から悲しみが込み上げて来た。

 いつも紗那が言っていた、『絶対に、私より先に逝かないでね』という台詞が、脳裏をよぎる。


「紗那……。俺、どうしたら……」


 司の目から涙が溢れ出した。


「どうしようもない。このままだと、おまえは消えてしまうんだぞ」

「でも、俺……紗那と……妻と約束したんです。絶対に、妻より先に逝かないって。約束……約束したのに……」


 泣き崩れる司の前で、死神は大鎌を振り上げた。


「では、こうしよう。ひと月だけ、おまえに時間をやる。その間に、妻への未練を断ち切れ」

「未練を、断ち切る……?」

「そうだ。それができなければ、おまえは成仏することなく、現世に留まり続けることになる。おまえの妻が逝った後も、永遠にな」

「そんな……!」

「それが嫌なら、ひと月のうちに、妻への未練を断ち切るんだ。そうすれば、おまえの魂は輪廻の輪に戻り、生まれ変わることができる」

「…………」

「さあ、早くしろ! もう時間がないぞ!」


 死神は鎌を構えながら怒鳴った。


「……わかりました。ひと月でもいい。紗那の側にいます」

「未練を断ち切れるんだな?」

「……努力、します」

「フン。煮え切らない答えだが、いいだろう。妻の元に戻してやる」

「ありがとうございます!」


 司は深々と頭を下げた。


「忘れるなよ、期限はひと月だ。一秒でも過ぎたら、おまえの魂は消滅するまで、この世をさまようことになる」

「はい。ひと月ですね。わかりました」


 死神は大鎌を一振りすると、そのまま姿を消した。

 司の幽体は、しばらくその場に留まった後、紗那の元へ向かった。





 紗那がカーペットの上に座り込んでから、数十分ほどが過ぎた。

 見守ることしかできない司は、だんだんと不安になって来ていた。


(どうしよう。さっきから、ピクリとも動かない)


 まるで、紗那の時だけが止まってしまったようだった。

 ぼうっと、焦点が定まらないような表情で、カーペットの隅を見つめている。


 司はハラハラしながらも、ひたすら紗那を見守り続けた。

 自分はここにいると、伝えたくて仕方がなかったが、幽体では、物に触れることさえできない。

 ましてや、声を届けることなど、できるはずもなかった。


「紗那――」


 彼女には届かないとわかりつつ、司が声を発した時だった。

 紗那はすっくと立ち上がり、


「さ、夕食の準備をしましょ!」


 胸の前で両手を打ち合わせ、ニコリと笑って宣言した。


(……え?)


 今度は司が呆然とし、ゆるゆると振り返る。

 そこには、まるで吹っ切れたかのように鼻歌など歌っている、紗那の後ろ姿があった。


(紗那……?)


 戸惑いつつ後を追うと、彼女はリビングからキッチンへと移動し、冷蔵庫を開けた。

 数秒ほど食材をチェックし、満足げな笑みを浮かべる。

 次に、冷蔵庫側面のマグネットフックに掛けてあるエプロンを外し、素早く身に着けると、慣れた手つきで夕食の準備を始めた。


 司は呆気に取られながら、紗那の後ろ姿を眺めるばかりだった。

 先ほどまでの、魂が抜けたかのような状態とは打って変わり、テキパキと動き回り、手際良く料理をこなしていく。

 その姿は、普段通りの彼女と、何ら変わりなく……。


「はい、できましたー! さあさあ、熱いうちに食べちゃいましょ」


 司が呆然としている間に、テーブルの上には数品の料理が並べられていた。

 紗那は箸を手に取り、満面の笑みを浮かべる。


「いただきまーす!」


 紗那は明るい声で手を合わせると、目の前のおかずに手を付けた。


 その様子を、司は少し離れた場所から見守っていた。

 何事もなかったかのように、黙々と食事を続ける紗那を。

 司がいないことを気にも留めていないように、薄く笑みなど浮かべながら食べ続ける紗那を。


(嘘だろう? もう立ち直ったって言うのか?)


 司は信じられない気持ちで、目の前の光景を見つめていた。


 つい先ほどまで、魂が抜けたような状態だった紗那が。

 今は、普段と変わらない様子で夕食をとっている。

 憑き物が落ちたかのような、晴れやかな表情で。


(いくらなんでも、気持ち切り替えるの、早すぎやしないか? 俺の葬式って、今日だったんだよな?)


 司は呆然としながら、自分の身体を見下ろした。

 半透明の頼りなげな幽体が、ふわふわと宙に浮かんでいる。


(いつも、『私より先に逝かないでね』なんて、心細そうな顔で言ってたから、心配で来てみたのに……。なんだ。現実はこんなものか。紗那は、俺がいなくても平気なんだな。……なんだ)


 司は『うん、美味しい』『我ながら上出来ね』などと言いながら、片っ端からおかずを平らげて行く紗那を、複雑な気持ちで眺めていた。

 彼女が泣いていなくてホッとした部分も、確かにあったけれど。

 自分がいなくなっても、こんなすぐに立ち直れてしまうのかと、寂しくてたまらなかった。


(結局俺は、紗那にとって、かけがえのない存在ではなかったってことか。……なんだか虚しくなって来たな)


 紗那の元にいられるのは、ひと月という約束だ。

 一秒でも期限が過ぎれば、司は輪廻の輪に戻れない。


(紗那が平気だっていうなら、俺がここに留まる理由もない……か。死神に頼んで、連れて行ってもらおうかな?……でも死神って、どうやって呼び出すんだ? 呼べば、すぐ来てくれるのか?)


「呼んだか?」

「わあッ!?」


 いきなり目の前に死神が現れ、司はギョッとして声を上げた。

 声も出さずに呼ぶことができるのだろうか? それにしても神出鬼没すぎやしないかと、司は目を丸くした。


 死神は、うろたえる司のことなどお構いなしで、淡々とした口調で訊ねる。


「もう未練を断ち切ったのか? 思ったより早かったな。まあ、こちらとしては、その方が都合がいいが」


 死神は大鎌を振り上げ、司に向かって振り下ろそうとした。

 司は慌てて両手を前に出し、


「ちょっ、ちょっと待ってくれ! 完全に未練を断てたわけじゃないんだ!」


 死神の行動を止めようと、必死に訴える。

 死神は『なんだ、違うのか』とつぶやき、鎌を下ろした。


「こちらも忙しいんだ。気軽に呼ぶのはやめてくれないか」

「は、はいっすみません! 心で思っただけで迎えに来てくれるなんて、知らなかったものですから」


 司はひたすら恐縮し、ペコペコと頭を下げる。

 死神はフンと鼻を鳴らし、『わかればいい。次こそは、完全に未練を断ち切ってから呼ぶんだぞ』と言い残し、再び姿を消した。


(ハァ。……危なかった。もう少しで、連れて行かれるところだった)


 司は冷や汗を拭い、安堵のため息をついた。

 自分がいなくても大丈夫そうだとしても、そう簡単に踏ん切りがつけられるものでもない。

 できれば期限ギリギリまで、紗那の側にいたかった。


(約束を破って先に死んだクセに、勝手かもしれないけど……。もう少しだけ、側にいさせてもらうよ)


 そんなことを思いながら、司はダイニングに視線を移したが、そこに紗那はいなかった。

 彼女はとうに夕食を終え、キッチンに立って、鼻歌を歌いながら皿洗いをしていた。





 司が亡くなってから、三週間ほどが経った。


 紗那は毎日、普段通りの生活を送っている。

 司の死など、まるで気にしていないかのように。


 それでも、司は満足していた。

 幸せそうに暮らしている紗那を見ると安心できたし、自分も満ち足りた気持ちになれた。

 期限のひと月まではもうすぐだが、『このままずっと見守っていたい』とまで、思うようになっていた。


 いつまでもこうしているわけにはいかないと、わかってはいるけれど。

 司はどうしても、未練を断ち切れずにいた。


 それでも、期限は刻々と近付いている。


 どうしたものだろうと悩みながらも。

 司は今日もまた、紗那の後をついて回るのだった。





 彼女の一日は、朝食作りから始まる。

 朝六時に起床し、顔を洗って身支度を整えてから、台所に立つのだ。


 理想はご飯、みそ汁、卵焼き、焼き魚辺りなのだが。

 時間がないため、朝はパン中心の献立になってしまっていた。


 トースターで食パンを焼き、フライパンを熱してベーコンエッグを作る。

 昨夜のうちに作っておいたサラダと共に皿に載せ、コーヒーを淹れてでき上がりだ。


(紗那の作ってくれた料理、もう食べられないのか……)


 紗那の食事風景をぼんやりと眺めながら、司は大きなため息をつく。


 彼女の側にいて、ストレスを感じることのひとつが、〝共に食事することができない〟ということだった。

 どんなに美味しそうなメニューが目の前に並べられていたとしても、匂いを嗅ぎ取ることも、箸を手にすることだってできない。


 生前は当たり前にできたことが、何ひとつできなくなってしまったことが悲しくて、胸の奥がギュッとなるのを感じた。

 涙を流すことはできないが、泣きたい気分だった。



 紗那の側で見守り始めてからというもの、司は毎日、彼女のことばかり考えていた。


 一緒に買い物に行った時の、楽しかった思い出や、何かプレゼントした時の、嬉しそうな笑顔。


 司が病気になった時、付きっきりで看病してくれたことや、結婚式での綺麗な花嫁姿。


 二人で旅行に出かけた時に見た、美しい景色。緊張してどもりまくったプロポーズの時、笑い泣きしながら、何度もうなずいてくれたこと。


 結婚記念日に、毎年贈っていた花束――……。



「……ん? 結婚記念日?」


 司は慌ててカレンダーに目をやった。



 ――そうだ。もうすぐ結婚記念日ではないか。

 五年目の記念日だからと、特別なことをしようとしていたはず。


 だが、それが何だったのかが、どうしても思い出せない。

 とても大切な――二人にとって、思い出深い何かだった気がするのに。



 司は結構長い間、うんうんうなりながら考えていたが。

 とうとう、思い出すことはできなかった。



 しかし、これで良かったのかもしれない。

 何をしようとしていたかを思い出せたところで、彼はもう、彼女に何ひとつしてやることはできないのだから。


 ならばいっそ、このまま忘れてしまっていた方が、自分にとっては幸せなことなのかもしれなかった。


(……だよな。紗那だって、過去にとらわれて生きるのは嫌だろうし。俺のことなんて、綺麗サッパリ忘れてしまった方がいいに決まっている)


 そう思い直し、司は結婚記念日について考えることをやめた。





 司がこの世に留まれるリミットが、明日に迫った日の昼過ぎ。

 紗那が昼食を済ませ、ソファに座って、観るともなしにテレビの画面を眺めていた時だった。

 インターホンのチャイムが鳴った。


 紗那は慌てて立ち上がり、モニター付きインターホンの応答ボタンを押す。


「はい」

「あ、すいませーん。七瀬紗那様にお届け物でーす」


 モニター画面には、見慣れた宅配便会社のユニフォームを着た男が映っていた。小さめの段ボール箱を両手に抱えている。


「はい。少々お待ちください」


 パタパタとスリッパの音を立て、紗那は玄関へと向かった。


(お届け物? ここ数日、紗那が何かを買った気配はなかったし、お歳暮なんかの季節でもないし……。いったいどこからだろう?)


 司が首をかしげていると、紗那がダンボールの小箱と小さな花束を抱え、リビングに戻って来た。

 彼女の顔からは表情が消え、心なしか、顔色も悪くなっているようだ。


 司は慌てて彼女の背後に回り、小箱の送り状を覗き込んだ。


「えっ?……俺?」


 送り主の欄に自分の名を見つけ、司は思わず声を上げた。

 紗那には聞こえるはずもなかったが、それでもとっさに口元を押さえ、司は彼女の方を盗み見た。


 聞こえていないらしいことに安堵し、もう一度、そろそろと発送先を確認する。


(あ。この店って、確か……)


 店の名に思い当たったとたん、司はようやく思い出した。


 新婚旅行で訪れた、小さなオルゴール専門店だ。

 その店のオルゴール付きジュエリーボックスを、紗那がいたく気に入っていたのを、司はずっと忘れられずにいて……。

 五年目の結婚記念日に、贈ろうと考えていたのだった。


(そうか。オルゴールは好きな曲を選べるんだけど、生産開始から出荷まで一~二ヶ月掛かるってことだったから、早めに注文しておいたんだった。確か、オプションで花束も付けられたんだよな。すっかり忘れてた)


 紗那は気に入ってくれるだろうか?

 ……いや。そもそも、新婚旅行の出来事など覚えているだろうか?


 そんなことを思いながら紗那に目を移す。

 彼女は緊張しているような顔つきで段ボール箱を開け、上品な柄の包装紙で包まれた、更に小さな箱を取り出した。

 小さいと言っても、手のひらサイズではない。縦十六センチ、横二十ニセンチ、高さ八センチほどの長方形の箱だ。

 紗那は慎重に包装紙を剥がし、箱の蓋を開けると、中に入っているオルゴールの本体を取り出してテーブルの上に置いた。


(あ……。やっぱりそうだった。紗那の欲しがっていたオルゴール。オルゴール付きのジュエリーボックス)


 司は小さくうなずいてから、恐る恐る紗那の顔色を窺う。

 彼女は呆然とした顔つきで、しばらくの間ジュエリーボックスを見つめていた。


 ふいに、ハッとしたように顔を上げ、小刻みに震える指先で蓋を開く。

 すでにネジが巻かれていたのか、美しいメロディが流れ始めた。


 紗那は胸の前に片手を当てると、うっとりと聴き入るように目を閉じる。

 オルゴールが奏でるメロディは、紗那の大好きなクラシックの名曲。シューマン作曲の『トロイメライ』だった。


 優しい調べに聴き入っている紗那の肩越しに、司は彼女の顔を覗き込む。

 彼女の目尻からは、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちていた。悲しみだけではなく、愛おしさと感謝の気持ちが混ざり合った涙だった。


「ありがとう、司くん。覚えててくれたんだ」


 紗那がしみじみした口調でつぶやく。


「これって、新婚旅行の時に私が一目惚れしたオルゴールでしょう? 見惚れながらオルゴールの音色に聴き入ってたら、『それ、気に入ったの?』って訊いてくれて。でも値段を確かめたら、意外と高価で。司くん、『そんなにするんだ?』って、目をまん丸くしてたよね。あの頃は結婚したばかりで余裕なかったし、無理してほしくなくて、『好きな曲だったから、聴き惚れちゃってただけ。欲しいわけじゃないの』って、慌てて否定したけど……」


 そこまで言うと、紗那は『うっ』と声を詰まらせ、嗚咽を漏らし始めた。

 司は彼女の肩を抱き寄せようと手を伸ばすが、もちろん、触れることはできない。

 もどかしさに唇を噛み締めていると、紗那は涙で濡れた頬を指先で拭い、健気に笑顔を作った。


「ちゃんとわかっててくれたんだ? 『欲しいわけじゃない』って、私が強がってたこと。だからあの時のお店調べて、結婚記念日に間に合うようにって、このオルゴールを贈ってくれたのね?」


 紗那は涙で潤んだ瞳で(くう)を見上げ、切なげに微笑む。

 その視線の先にいる司は、彼女に認識されていないことをわかっていながらも、照れ臭そうに微笑み返し、小さくうなずいた。


 紗那は笑っていた。

 笑ってはいたが、目尻からは再び涙が溢れ、幾粒も頬を伝い落ちていた。


「ありがとう、司くん。……大好き。大好きだよ」


 しみじみとつぶやいた後。

 紗那は両手で顔を覆い、体を丸めて、幼子のように泣き出した。


「司くん……! 司くん、ヤダよぉ……。やっぱりヤダよぉ! あなたがいないなんて。もうどこにもいないなんて。……ヤダ! ヤダぁああッ!!」


 喉が裂けてしまうのではと、心配になるほどに。

 紗那はわぁわぁと絶叫し、激しく頭を振り乱した。


 ここ数週間ほどの落ち着きが、信じられないほどの慟哭。

 聞いている者の胸をキリキリと締め付ける、痛切な叫びだった。


 司は動揺した。

 妻の急激な変化についてい行けず、ただオロオロと、号泣する姿を眺めていた。


(紗那。紗那、どうして……。さっきまで、穏やかな日常を過ごしていたのに……)


 しばらくは、呆然と立ち尽くすのみだった。

 今の彼には、妻の涙を拭ってやることも、思い切り抱きしめてやることもできない。


 無力感に打ちのめされ、司は両手で頭を抱えた。

 瞬間、彼の脳裏にある言葉が浮かび、ハッとして顔を上げる。



「昔ね? 両親が交通事故でいっぺんに亡くなっちゃった時。私がわんわん泣いてたら、祖母が言ったの。『紗那、そんなに声を上げて泣いてはダメだよ。紗那が泣き続けていたら、お父さんもお母さんも、おまえのことが心配で、成仏できなくなってしまうから』って。『泣くのなら、もっと静かにお泣き。悲しみを主張するように、大声で泣いてはいけないよ』って」


「だから私、人が亡くなって悲しい時は、夜、布団を頭からすっぽり被って、声を殺して泣くことにしてるの。大切な人が、私のせいで天国に行けなかったりしたら、イヤだもの」



 ……ああ、そうだ。

 いつだったか、紗那は俺に、そんな話をしてくれたっけ。


 ……そうか、だからか。

 だから紗那は、今日まで泣かなかったんだ。……いや、泣けなかったんだ。


 声を上げて泣いたら、俺が成仏できなくなると思って。

 悲しみを主張して泣き続けていたら、俺が天国に行けなくなると思って……。



 どうしてそんな大切なことを、今まで忘れていたのだろう?

 紗那はずっと、我慢してくれていたのに。

 それなのに自分は……悲しんでくれていないのかと、一瞬、彼女の心を疑った。

 涙を見せないのは、自分が紗那にとって、大した存在じゃなかったからなのかと、いじけたりもして……。


「ごめん。ごめん紗那。君の心を疑ったりして、本当にすまなかった――!」


 オルゴールを抱き締めたまま床の上にへたり込み、紗那はわぁわぁと泣き続けた。

 司は彼女の後方に回り込むと、包むように抱き締める。


 もちろん、触れることはできない。

 それでも、ありったけの想いが伝わりますようにと願いながら、華奢な妻の体を抱き締め続けた。




 ――それから、どれほどの時間が経っただろう。

 泣き止んだ紗那は、ただぼうっと、オルゴールを見つめていた。


 彼女の気持ちが和らいだのを感じ、司はそっと腕を解いて体を離す。

 前に回って様子を窺い、妻の口元に笑みが浮かんでいることを確認したところで、司はようやく安堵のため息を漏らした。


「ごめんね司くん、泣いたりして。せめて四十九日までは我慢しようって、頑張ってたつもりだったのに……。ごめんね、こんな弱虫で」


 紗那は申し訳なさそうに言った後、オルゴールに向かって頭を下げた。

 司が見えない紗那にとって、この日のために彼が贈ってくれた最後のプレゼントが、彼の代わりに思えるのだろう。


 司は無言で首を振り、柔らかく微笑む。

 心で『いいや、君は頑張ったよ』『やはり君は、俺の最愛の人だ』とつぶやきながら……。


「ごめんね、もう泣かない! いつだって司くんは、私の側にいてくれるもの。たくさんの思い出と一緒に……ずっとずっと、これからも私の中で、生き続けてくれるもの」


 紗那は明るい顔で宣言すると、オルゴールを机の上に置き、小さな仏壇の前まで歩いて行った。

 両手を合わせ、目を閉じて静かに祈りを捧げた後、吹っ切れたかのように満面の笑みを浮かべる。


 紗那の様子を見守っていた司は、胸の奥に、じんわりと温かさが広がって行くのを感じた。


(俺達の思い出のオルゴール……無事届けられてよかった。もしかして、俺の未練はこれだったのかもしれないな……)


 フッと微笑み、司は紗那の笑顔を胸に刻みつけた。

 それから『もう、大丈夫だよな』と、己に言い聞かせるようにつぶやく。


「死神さん、お願いします!」


 声を上げたとたん、黒いローブに身を包んだ死神が現れた。

 死神は司の顔をじっと見つめてから、念押しするかのように訊ねる。


「未練は断ち切れたんだな?」


 司はにこりと微笑み、


「はい!」


 清々しい声色で、キッパリと言い切った。迷いのない、澄みきった瞳で。

 死神はうなずき、黙って鎌を振り上げた。


 司は振り返り、もう一度だけ妻に向かって微笑む。


「さよなら、紗那。またきっと、どこかで」


 その言葉だけを残し、彼の幽体はかき消えた。



◇◇◇◇◇



 司の死から数十年後。

 紗那は、夫と暮らしていたところから数百メートルほど先の閑静な住宅街の一角に居を構え、一人で小さな雑貨店を営んでいた。


 夫が亡くなって以降も、再婚はしていない。

 まだ二十代だった頃は、心配した笹倉があれこれ世話を焼いてくれ、時には、見合い話を持ち込んでくれたりもした。

 だが、どうしても乗り気にはなれず、悪いと思いながらも、全て断ってきた。


 特に無理をしていたわけではない。意地を張ってきたつもりもなかった。

 ただ、司と過ごした日々が、紗那にとっては何よりも大切で、かけがえのないものだったから。

 他の誰かと新しい関係を築いて行くことが、想像すらできなかったのだ。


 一人で店を切り盛りして行くのは、大変ではあったが。

 好きな物ばかりに囲まれているので、辛いとは思わなかった。


 それでも、疲れが溜まった時などは、司が遺してくれたオルゴールをそっと開き、トロイメライの美しい音色に耳を傾けた。

 そうしていると、いつの間にか心が静まり、温かなもので胸が満たされて行く気がした。


 司は、今も紗那の中で生きている。

 彼との思い出が詰まったオルゴールは、彼の魂そのものなのだ。




 その日。

 閉店時刻まで数分を切った、誰もいない店内で。紗那は、司からのプレゼントであるオルゴールを聴いていた。


 今日はもう、客は来ないだろう。

 すっかり気を抜き、オルゴールの奏でる旋律に意識を集中させていたからだろうか。一人の客が店の前に立ち、じっと店内を見つめていたことに、紗那は気付かなかった。


 カランコロン。


 ドアベルの音が鳴り響き、紗那はハッとして顔を上げた。

 そこには小学生くらいの男の子が立っていて、彼女にニコリと微笑み掛けてきた。


「ご、ごめんなさいね、気が付かなくて。――いらっしゃいませ。今日は、どういったものをお探しですか?」


 慌ててレジ横の椅子から立ち上がり、男の子の笑顔につられて笑い掛ける。

 しかし彼は何も言わず、微笑みをたたえたまま、紗那の顔を見つめるばかりだった。


(どうしたのかしら?……もしかして、店の者がサボっているなんてと、呆れられてしまった……?)


 あと数分で閉店とは言え、店のドアノブに掛けられた木札は〝営業中〟だ。サボっていると思われても無理はない。

 孫ほど離れた歳の子にとがめられている気がして、恥ずかしくなった紗那は、慌ててオルゴールの蓋を閉じた。


「本当にごめんなさい。まだ営業中なのに。サボっていると思われちゃったかしら?」

「…………」

「あのね、このオルゴールは――」

「それ、『トロイメライ』だよね?」

「えっ?」


 ずっと黙ったままだった男の子から、唐突に訊ねられ、紗那はギョッとして固まった。

 男の子はまっすぐ紗那を見つめ、念押しするように訊ねる。


「今聴いてた曲。『トロイメライ』でしょう?」


 紗那は目を丸くし、戸惑いながらもうなずいた。


(トロイメライなんて、よく知ってるわね。クラシックが好きなのかしら? それとも……何か楽器でも習っているとか?)


 ぼんやりと考えながら、紗那はオルゴールを元の場所に戻す。

 男の子はキラキラと目を輝かせながら、


「僕、大好きなんだ『トロイメライ』」


 弾んだ声で告げた後、可愛らしくニコリと笑った。




 その日から、男の子は毎日のように、店に遊びにくるようになった。


 小学生の男の子だ。店の商品を買ってくれることはほどんどない。

 年に一~ニ度、数百円のキーホルダーや、母親に贈るプレゼントなどを買って行ってくれるだけだ。

 店内を見回ったり、紗那と話をしたりすることが、彼の目的の全てのようだった。


 老婆一人いる店の、いったい何が楽しくて、毎日のように通ってくれるのだろう?

 紗那は不思議でたまらなかったが、数週間、数ヶ月と経つうちに、


(初めてあの子が店に来た日。一人でオルゴールを聴いている私が、寂しそうに見えたのかしら? だから可哀想に思って、話し相手になってくれようとしているとか……?)


 だんだん、そんな風に考えるようになっていた。


 きっと、心の優しい子なのだ。

 老婆一人を放っておけないと、心配してくれているのかもしれない。


(そうね。きっと、ボランティア感覚なんだわ。老人ホームに通って、話し相手になってくれるような……。フフっ。奉仕精神あふれる子なのね)


 ならば、素直に甘えさせてもらうことにしよう。

 紗那はやわらかく微笑んで、いつものように店の品々を見て回っている少年に近付き、話し掛けた。



◇◇◇◇◇



 それからまた、十数年の時が過ぎ。

 少年は立派な青年になった。


 背も伸び、体つきもしっかりしてきた彼は。

 今も変わらず、ふらりと雑貨屋に立ち寄っては、紗那の話し相手になったり、店の仕事を手伝ったりしている。

 紗那にとって彼は、息子のようでもあり、孫のようでもあった。

 血の繋がりはなくとも、お互いのことを心から大切に思っていた。



 そんなささやかな、幸せに満ちた日々にも。

 等しく終わりは訪れる。



 紗那は接客中に発作に襲われ、救急車で病院に運ばれた。

 もともと、胸部に疾患があったのだという。病院に着いた時には、手遅れの状態だった。


 駆け付けてきた青年から、紗那は天涯孤独の身の上だとの説明を受けた医師は、紗那の最後を看取ることを、特別に彼に許した。

 青年は深々と医師に一礼し、彼が病室から出て行くのを確認すると、ベッド脇のパイプ椅子に腰を下ろす。


 もう、ほとんど意識はないようだった。

 目を閉じ、息をしているのかしていないのか、見ただけではわからないほど、静かに眠っている。


「……紗那」


 辛そうにまつ毛を伏せ、青年が彼女の名を呼んだ。

 彼が彼女のことを下の名で呼ぶのは、その時が初めてだった。


 当然だろう。

 幼い頃からの知り合いとは言え、五十ほど年齢差のある二人だ。どんなに近しい間柄だったとしても、下の名――しかも呼び捨てなどあり得ない。敬称くらいは付けるはずだ。


 それでも青年は、七十はとうに過ぎているであろう老女のことを、愛しげに『紗那』と呼んだ。


 それだけではない。

 彼の表情や口調からは、特別な感情――深い愛情のようなものが感じられた。



 青年は片手で彼女の手を握り、もう片方の手で、そっと彼女の頬に触れた。

 若い頃に比べたら、かなり年月の経過を感じさせる、乾いた肌の質感。シミはそれほど目立たないが、シワは深く刻まれている。


 それらは、彼女が生きてきた証。

 寂しくても決してくじけることなく、生きてきた証なのだ。


「……頑張ったね、紗那。俺がいなくなった後も、たった一人で。本当によく頑張った」


 青年の瞳から、自然に涙があふれ出す。

 彼は穏やかな笑みをたたえたまま、彼女の手を強く握った。


 ――その時。

 紗那がうっすらと目を開いた。


「紗那!」


 名を呼ばれ、彼女はゆっくりと、声のする方へ視線を移す。

 目の前には、どこか懐かしくも感じられる、青年の姿。


 姿形は、全く違う。

 それなのに、在りし日の夫の顔が重なって……。


(ああ……そう。そう……だったの)


 ぼんやりとした意識の中で、彼女はようやく青年の正体に気付く。

 彼がトロイメライを知っていた訳も。

 ずっとずっと、店に通い続けてくれていた訳も。

 そして今、『紗那』と名前で呼んでくれた訳も……。


(そう。そうだったのね。やはりあなたは……いつも私の側にいてくれた――)


 紗那は美しく微笑むと、微かに口を動かし、再び眠るようにまぶたを閉じた。


 声は聞こえなかったが、青年には理解できた。

 最後の力を振り絞り、彼女はこう言ってくれたのだ。


(ありがとう)


 青年は首を横に振ってから、深く頭を垂れ、小刻みに肩を震わせた。



 数分後。

 彼はおもむろに立ち上がり、彼女の耳元に口を寄せると、


「次はいつ会えるかな。……楽しみにしているよ、紗那」


 そっとささやいて、ナースコールに手を伸ばした。

最後までお読みくださり、ありがとうございました。

もしよろしければ、感想や★などでの評価をしていただけますと幸いです。


2025.04.23:タイトルを変更し、本分も加筆(約1000文字ほど)修正いたしました。


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[良い点] 生きている妻を死んだ夫が見守るという、一見するとホラーに感じるタイトルとテーマから想像できないほど、あまりにも美しい作品でした。 紗那のその明るさには何か事情があるのだろう、そうであって欲…
[良い点] 短編小説を読んで泣いたのは久しぶりな気がします。 ストーリーも表現も、とても美しい作品でした。 ジャンルについては、「純文学」を辞書で引くと ①純粋な芸術性を目的とする文学 ②美的感覚に…
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