毒
「…………いいな。お前には、時間があって」
見れば、エキナも強く手を握り締めていた。その、いまだ幼い少女の姿が、過去の自分に重なる。無力に歯を食いしばり、それでもいつかすべてに復讐するのだと、誓えた自分。彼女にもう、後はない。失敗すれば死ぬ。何もせずとも死ぬ。
「……ああ。十七年だ。七歳だったあの時から十七年。俺がかけた時間すべて、お前に託す」
「私が蛇でなければ、まだ待っていたのか?」
エキナは顔を上げて、リアンドの方を見た。その表情は悲嘆に暮れるどころか、微笑すら浮かべる。そんな表情でさえ、リアンドはかつての自分に重ねてしまう。憎しみと恨みを押し殺して、自分の感情に見ないふりをして、大人に媚を売り始めたあの頃の自分。そんな記憶に蓋をして、リアンドは淡々と答えた。
「いや。蛇は確かに理想的だった。蛇人を殺したあいつらが、蛇人に殺されたら爽快だろう。だが……別に獣人ならば構わないと思っていた。夫人を陛下の御前まで連れて行ける機会から長くとも半年以内。そこで革命者に相応しい獣人が見つかれば決行する気でいた。人間に憎しみを持ち、他の獣人を従えられるだけの迫力を持つ獣人が」
それはなかなか見つからなかった。目が死んでいるような獣人では、例え強靭な肉食獣であっても足りない。一度も屈したことがない、人に屈する気がない大蛇。エキナを見た時、他にないと思った。遂に時は来たと確信した。そして、実際に話してみれば彼女は期待以上に求めた革命者そのものだった。だからこそ、その憎しみを放棄しようとする彼女に苛立つ。
きっと彼女であれば、人を絶滅にすら追い込めるのに。
「…………リアンド。頼みがある」
「……なんだ。聞ける頼みなら聞いてやる」
「私に自由になる金があると言ったな。それで……今から言うものを調達して欲しい」
そう言ったエキナの瞳には、決意の灯が宿っていた。
それから、ひと月が過ぎた。
「リアンド様。お茶をお持ちいたしました」
夜も更けた時分、珍しくも執務室に現れたロゼにリアンドは眉根を寄せつつ顔を上げた。以前はよくリアンドが呼んでいたが、ここ最近はエキナに付かせているからこうして顔を合わせる機会はない。
「珍しいな」
「セバス様が……本日は用があるから代わりに持って行くように、と」
ロゼもまた怪訝そうに首を傾げて言う。その気持ちはよくわかった。セバスはロゼのことをあまり快く思っていない。ロゼの出自が貧しいからだろう。獣隷であったロゼは、表向きには孤児ということになっている。例え本当に別件があったとして、普段のセバスならば主人にお茶を淹れるという役をロゼに頼むはずがない。
リアンドは受け取ったカップをじっと見つめる。琥珀色の液体に、特に不審な点はない。だが……、リアンドはふっと息を吐いた。
「毒、だろうな」
そろそろ何かしてくる頃合いだとは思っていた。だがまさか、先々代から使える執事長を籠絡するとは。少しばかり国王のことを甘く見ていたかもしれない。
「ど、毒ですか!?︎」
「……念の為だ。銀食器を、持って来てくれるか?」
「はい!!︎」
パタパタと部屋を出て行くロゼを見送って、リアンドは立ち上がった。ロゼの後を追うようにそのまま部屋を出る。向かう先はエキナの部屋だ。
ノックをするとしばらくしてから扉が空いた。
「こんな時間に珍しいな」
男性として長身なリアンドとエキナの身長差は頭二つ分ほど違う。見上げるエキナは、こうしていればやはり普通の少女にしか見えない。ゆったりとした薄緑のネグリジェが深緑の髪色によく似合っていた。
「夜分に悪いな。お前……蛇毒は見分けられるか?」
「…………盛られたのか?」
「話が早くて助かる。飲んではいないから推測の域だ。来てくれるか?」
「構わないが、さすがに見ただけではわからないと思うぞ」
「……まあ、それでいい」
リアンドがエキナを連れて戻ると、既にロゼは戻って来ていた。なぜかセバスもいるのはロゼについて来たのだろう。
「リアンド様……」
戸惑うようにロゼが差し出したカップには、銀の匙が入っている。だが、特に変色している様子はない。少なくとも銀に反応する類の毒は含まれていないらしいが、蛇の毒であれば銀は反応しない。
「エキナ。わかるか?」
リアンドはロゼの手からカップを受け取ってエキナに差し出す。
「だから見ただけでわかるわけ」
それでも一応は顔を寄せたエキナは言いかけて言葉を止めた。
「どうした?」
「蛇毒だ」
「わかるのか」
「ああ。さすがに、これだけ劣化していればな。匂いがきつい……」
そう言ってエキナは顔を背ける。リアンドも嗅いでみたが、エキナの言う匂いはわからなかった。普通にいつものお茶の匂いが仄かに香る。
「匂いなど。出鱈目を言うな! 何もしないではないか!」
セバスが声を荒げた。普段は冷静沈着なのに、焦ると声が大きくなる男だ。
「へえ、お前たちにはわからないのか。やはり獣人と人間は嗅覚が違うらしいな」
「……劣化、か」
蛇毒だと思ったのは、エキナに罪を着せたいならばそうするはずという推測からだ。蛇人は希少だが、それでもまったくいないわけではない。多少手間はかかるだろうが、どこぞの蛇人から採取する程度のことはできるはずだ。それか、普通に毒蛇を探すのでもいい。にも関わらず、それが古かったとなると、なんらかの意図を考えてしまう。
エキナも同じことを考えたらしく、ぽつりと呟く声が聞こえた。
「お前の父親を殺したというのと、同じ毒だろうな。劣化具合からして、時期もそれくらいだろう」
「…………これが、彼女の……」
手の中の琥珀色の液体を、じっと見つめる。遠い思い出の中にいる彼女の、実在を感じた。それはただの毒で、けれど確かに彼女の一部だったもの。幾度となく思った。切望した。どうして自分を、共に殺さなかったのかと。彼女が殺したのなら、そこに彼女の意思が少しでもあったなら、自分を殺す機会などいくらでもあったはずなのだ。
彼女の毒で、自分も殺されればいいのに。
「飲むなよ」
エキナの声に、リアンドははたと我に返った。
「ああ……飲まないさ」
「しかし……蛇毒であれば、犯人は決まったも同然ですな。リアンド様、やはりこの蛇とその卑賎な娘など直ちに」
慇懃無礼な態度でセバスが語り出したのを遮ってリアンドは口を開いた。
「そうだな。犯人はお前だ」
「な、なぜ私なのですか! その茶を淹れたのはロゼでしょう!?︎」
「だが、毒を盛ったのは彼女ではない」
「なぜ言い切れるのです! それに、その毒は蛇毒なのでしょう! その蛇が仕向けたに決まっております!」
「劣化していると言っている上に、エキナに本当に殺意があるならば蛇毒だなどと言うわけがないだろう。エキナと、ついでにロゼに罪を着せたかったらしいが。お粗末が過ぎるぞ」
呆れてそう言うと、エキナもやはり呆れたように言った。
「だいたい、リアンドが死ねば私の立場が悪くなるだけだろう。何の益もないどころか害しかない。そもそも、殺意があれば頭から食ってやるさ。毒を盛るような真似をする必要もない」
「ッ……し、しかし! それは、そう思わせて罪を免れようと」
往生際の悪いセバスに、リアンドは面倒そうに髪をかき上げる。意識的に封印していた、彼女の記憶が思い起こされていた。記憶の中の彼女が「許さない」と叫ぶ。憎悪を抱けと責め立てる。声を荒げたい気持ちを押し殺して、務めて冷静に尋ねた。
「……セバス。お前の後ろにいるのは、陛下だな?」
「な、何をおっしゃるのですか……」
「陛下から蛇毒を譲り受け、それをカップに塗布するなどして俺を殺そうとした」
「こっ、殺すなど……! あんまりにございます! 私に貴方様を殺す気などあるはずが……!」
「そう言うならば、こいつを飲んでみろ!!︎」
リアンドが突きつけたカップに、セバスは一瞬怯んだようだったが気丈にもそのカップを受け取った。
「それで……信じてくださるのでしたら」
飲めるはずがないと思って渡した。だから、その返答は想定外ではあった。だが、焦る感情も湧かなかった。死んでも死ななくてもいい。そんな投げやりな感情は、リアンドに傍観を選択させるには充分だった。




