侍女と祝詞
「身の回りのお世話をさせていただくことになりました。ロゼと申します」
目の前で恭しく頭を下げた、自分より少し歳上に見える少女にエキナは小首を傾げた。
「ああ……」
「早速ですが、お身体をお拭きしても?」
色素の薄い茶色の髪と華奢な手足。見かけは普通の少女なのに、その少女はエキナの前で平然としているばかりか、穏やかに笑みすら浮かべているのが奇妙だった。人というものは蛇人を恐れ、蔑むものだ。恐怖を押し隠し、強気に武器を振り上げる。そういう人間を、エキナは見飽きるほどに見てきた。
「自分でできる」
「私の仕事がなくなってしまいます」
「お前だって私に触れたくなどないだろう。いいからその手拭いを寄越せ」
「だめです。私がやります」
おどけたように答えて、ロゼは笑う。
「お前……私が怖くないのか?」
エキナの問いに、ロゼはふっと笑みを引っ込めた。
「怖くない、わけじゃないです。エキナ様からすれば、私はただの人ですから。ただ……もっと、ずっと、怖いものを知っているので」
「……そうか」
深くは聞くまいと思った。きっとそれは、思い出したくもない記憶だろうから。謝罪の代わりに、エキナは濃緑の長い髪を肩に掛けつつロゼに背を向けた。
「……拭きますね」
「早くしろ」
悪いことを聞いたと、思わないわけじゃない。ただそれでも、人に謝る気になどならなかった。
丁寧な手付きで、ロゼはエキナの体を拭う。獣隷として檻の中に囚われていたのはおおよそ四年といったところか。捕らわれた時は十歳だったから、今は十四ということになる。窓から入ってくる明るい太陽光に目を細めた。ずっと地下にいた。陽の光を見るのも四年ぶりだ。冷たい枷の感触が消えたのも四年ぶりだ。鞭の痛みではない、柔らかく暖かい感触が肌を滑る。
本当に解放されたのだと、じんわりと実感が湧いてきた。不安や恐れにも似た何かが忍び寄る。現状を疑いたくなる。今もあの場で虐げられる同族がいる。一刻も早く助けなければという焦燥に、唇を噛んだ。
その時、ノックもなく唐突に扉が開く音がして、エキナは首だけで振り返る。そこには初老の男が立っていた。堅苦しい執事服を着た男は、その手に大仰なクロスボウを持っている。どう見ても穏やかならざる様子だ。
「セバス様。どうなされたのですか?」
問うたロゼの声は、硬く強張っている。
「ロゼ。そこを離れなさい。危険だ」
「なぜですか」
「それが蛇人だからに決まっているだろう」
「なぜそれが危険であるのか分かりかねます。セバス様、エキナ様に対して無礼です」
「何が無礼なものか。蛇を妻に迎えるなどと、君は本気にしているのかね?」
「当然です。リアンド様がそう」
「待て」
言いかけたロゼの言葉を遮ってエキナは体ごと向き直った。聞き捨てならない言葉を聞いた気がして、聞き返そうと思っただけなのだが、瞬間セバスがクロスボウを構えた。
「ッロゼ! 伏せろ!」
矢が放たれる。
「ッエキナ様……!」
ロゼが庇うようにエキナの前に出ようとして、しかし失敗した。
「愚かな」
瞬時に大蛇に変現したエキナの巨体に押し返されたからだ。勢いよく放たれたはずの矢は、エキナの強靭な鱗に傷一つつけることなく、弾き返されて地に落ちる。
「ッ……」
恐れたように息を呑んだセバスを一瞥してエキナは少女の姿へと戻ると平然と話を続けた。
「話を戻すぞ。妻に迎える? 私を? 誰が」
答えたのは、セバスだった。相変わらず厳しい顔つきでいながらも腰が引けている。
「セクメト公爵家が若き公爵、セクメト・リアンド様が貴様を自分の妻に迎えると言い張っている。だが、獣隷を妻にするなどあり得ない。あ、あまり、調子に乗らないことだ」
「ッふ。調子に乗るな? 私の台詞だ人間。よくもそのような貧弱な装備で私の前に立てたな」
威圧するでもなく、エキナは世間話でもする調子でセバスに語りかける。冷や汗を流しているのが手に取るようにわかった。そう、これが人間の反応として正しい。決して敵わぬ存在に畏怖を抱く。縛り付けておかねば安心できない弱い生き物。
「だから言っただろう! ロゼ、すぐさまそこを離れなさい! その蛇も今はおとなしいかもしれないが、いつお前を襲うか」
「襲われておりませんし、襲われることもございません。そうでしょう、エキナ様」
「そうだな……。私は、お前のように愚かではない。自分の力量は理解しているつもりだ。ここでお前たちを食ってしまうのは簡単だが、そんなことをすれば私は殺されるのだろう。ならば、今しばらくは大人しくしておく」
三月後、王の首を食うために、と心の中で続ける。耐えることならば慣れている。四年間、あの劣悪な環境に耐えてきたのだ。いまさら数ヶ月程度、それも檻の外でなど、大したことではない。
「セバス様。ご理解くださったなら、ご退室ください」
「……食われても知らんぞ」
言い捨てて部屋を出て行ったセバスを見送って、ロゼは息を吐いた。
「申し訳ございません。エキナ様」
「気にしていない」
「エキナ様は、ご寛大ですね」
「そんなことはない。ただ……無力なだけだ」
呟いて、エキナは再びロゼに背を向けた。
ロゼは再びその体を拭うべく桶に手拭いを浸しながら遠慮がちに尋ねる。
「……失礼ですが、エキナ様は、人の姿になられなかったのですか?」
一瞬言葉の意図を汲みかねた。
「ん……? それは……地下で、か?」
「はい。人の姿でいることは、真っ先に仕込まれます。できなければ、朝も夕も鞭で打たれる。満足に眠ることすら許されず、衰弱していく……。ですが……その、お体の傷は……」
この四年でついた傷の数々が、エキナの素肌には刻まれている。ロゼはそのことを言っていた。それだけの傷を、人の、少女の身で耐えられるはずはない。まして檻の中では、少し深い傷を負えばあっという間に化膿して命に関わる。蛇の巨体であればこそ耐えられる傷も、人の身では致命傷になる。ならばその体の傷はすべて、蛇の姿で受けて蛇の姿で治癒したということだ。
「ならなかった」
「一度も?」
「ああ」
「…………なぜ、ですか?」
愚問とばかりに、エキナは歪んだ笑みを浮かべた。他の者らは違うのだろう。誰もがそれに屈したのだろう。だが、自分だけは違う。自分だけは特別だという自負が、エキナにはあった。
「貴様ら人間ごとき劣等種に屈するくらいならば、死んだ方がマシだ」
怒気を滲ませた声音に、その背を拭おうとしていたロゼの手が怯んだように止まる。
「れ……劣等……ですか?」
それは、絶対に許されない言葉。教会の定める教義に真っ向から喧嘩を売る発言。そんな発言を堂々とした日には、背教者として良くて斬首、悪くて火あぶり。それを承知の上でエキナは敢えてそう口にした。ロゼが怯むのも当然だ。
「獣の姿は神の呪いである……だったか? ふざけた言い分もあったものだ。そんなもの……私たちから抵抗の意志を削ぐための建前に決まっている」
吐き捨てるようにエキナは言う。死ぬわけにはいかない。斬首も火あぶりもごめんだ。だがそれでも、それだけは。そんなふざけたことを吹き込もうとした人間に対してだけは、どうしたって怒りが勝った。
さしものロゼも怒るかと思ったが、しばしの間の後で発せられたロゼの声は責める調子のものではなかった。
「………………エキナ様」
静かに、何かを決意したかのような声音に、エキナは振り返る。
「なんだ」
ロゼはおもむろに、深々と頭を下げた。床に額がつくほどにエキナに向かって平伏する。
「…………主より、授かりし祝福を……愛し君の為に捧ぐことを誓います」
それは、神への祝詞だった。少なくともエキナは囚われた後にそう教えられた。罰当たりなものだと思う。この言葉は捕まる以前からエキナも知っていたが、神への祝詞としてではない。その言葉の意味するところを忘れたばかりか、神への祝詞とは反吐が出る。
「……それは神への祝詞だろう。私が神だとでも?」
「いいえ」
エキナは少し眉を寄せて、答えた。真摯に、真っ直ぐに、ロゼを見つめる。
「その言葉は、私にはもったいない。言うべき時まで取っておけ」
「はい……ありがとうございます」
顔を上げて、綻ぶように笑ったロゼにエキナも笑い返す。その笑顔は先程までよりも、少しばかり親しげだった。