神話
この問いはエキナが否定した。
「違う。ロゼが聞いてるのは、それだけか?」
「はい。具体的な話までは……」
「そうか……本当に要点だけだな。私の知る神話はこうだ。昔……原初のその時、この大地には獣しかいなかった。人間は存在していなかった。それでこの世界は成り立っていた。だが、ある時から突然変異的な個体が生まれるようになった。知恵を持った獣だ。理性を得た彼らは、当然だが同族と分かり合えなかった。異物として排除され、迫害され、そんな中で出会ったのが異種族の変異体だった」
「……知恵を持った獣」
「ああ。そこには多くの出会いがあったらしいが、私が聞いたパターンは大蛇と兎だな。出会った彼らは惹かれ合った。獣には今現在しかない。だが理性を得た彼らには昨日があり、明日があった。過去を分かち合い、未来を語り合える初めての相手だ。愛し合うようになった彼らはしかし、異種族ゆえに結ばれることは叶わなかった。兎を押しつぶすことのない弱い体を蛇は願い、蛇を抱ける腕を兎は願った。そして、神は応えた。その二匹に同じ体を与えた。相手を潰さない弱い体。鋭い牙も爪もなく、硬い鱗も毛皮もない。ただ相手を愛するためだけの体を」
「それが……人か」
「ああ。祝詞の意味も、それでわかるだろう」
アルヴィスはきょとんとして、ぶつぶつと祝詞を唱えた。
「主より授かりし祝福を、愛し君のために捧ぐ……もしかして、言葉通りの意味なのか? 愛し君と言うのは文字通り、愛する人。だとしたら祝福は」
「そうだ。主より授かりし祝福は人の体。愛し君は愛する者。誰かを愛するためだけにこの体を使うと、愛する者に対して誓う言葉だ」
アルヴィスは苦い笑みを浮かべる。
「……よくもまあ、ここまで意味を捻じ曲げたもんだ」
「神の誤算は、異種族間の交配が増えすぎたことだな。二人が成した子供は蛇の血と兎の血と、加えて人の血を持っていた。だが、異なる獣の血は本来相入れない。兎の血を濃く受け継げば兎人に、蛇の血を濃く受け継げば蛇人になる。しかし……人の血だけは誰もが共通に持てた」
「そうか。その子孫たちが交われば」
察しがいいアルヴィスはわかったらしい。エキナは頷く。
「当然、それぞれの獣の血は薄くなる。そして遂には、獣の体を持たない純粋な人が生まれた。弱い体なのだから淘汰されるとでも神は考えたのかもしれないが、他者を愛撫するために与えた器用な指でもって彼らは技術と力を得てしまった。人同士が交配し、やがて獣だったことなど忘れ去られていった。だが、別に受け継がれた血が消えたわけじゃない。ただ人として生まれる確率が高くなっただけだ。今でも、人から獣人は生まれるのだろう?」
だからこそ教会がある。生まれた子はまずあそこで匂いを嗅がされる。それは、今でも獣人が生まれるからに他ならない。
「…………皮肉だね。種族を越えるために生まれた種族が、今異種族を迫害してる」
「確かにな。だから……私も虐殺なんて起こしたくはない。それが一族の願いで、祖先の誓いだ。同族同士で殺し合うものじゃない。リアンドの奴には、理想論だと言われてしまったが」
エキナの言葉に、アルヴィスはくすりと笑った。
「君は……家族の仇を同族と言うんだな」
「…………不本意だがな」
本心を言うならば、この街に生きる人間たちなど劣等種だと思う。獣の、強者の、知恵ある者としての誇りを忘れた者たち。ただそれでも、元を辿れば自分と血を分けた者たちだ。獣の体を持たない者なら里でも生まれることはあった。彼らまでをも一緒くたにした言い方は、あまりしたくない。
「けど…………どうするか」
アルヴィスは仰け反るように椅子に深く沈み込んで天を仰いだ。
「どうする……って、無策なのか?」
「俺としては父上の退任までに反対勢力を押さえて地盤を固めるつもりだったんだ。けど、そうも言ってられなくなった。リアンドが君という逸材を見つけてしまった。俺が王位を継ぐまで待つだなんて悠長なことはしていられない」
「…………リアンドの説得、は、無理だろうな」
復讐に拘るリアンドの様子を思い出す。王が代替わりするまで待てと言っても聞かないだろう。そんなことを考えてアルヴィスの方を見ると、アルヴィスは奇妙なものでも見るような顔をしていた。
「……君は…………いや、いいなら、いいんだけど……」
「なんだ。歯切れが悪いな」
「…………君こそ、構わないのかと思ったんだ。さっさと行動を起こしたいのは、むしろ君だろうと……」
アルヴィスの言葉にぐっと眉根を寄せる。当たり前だ、と叫びたいくらいだ。だがふっと息を吐いて努めて冷静に答える。
「…………それは、そうだ。だが……仕方ないだろう。無策に動いて失敗するくらいならば待つべきだ」
「…………君、実は結構歳いってる?」
「失礼な奴だな。私はまだ十四だ」
エキナの答えにアルヴィスはなおも何か言いたそうにエキナを見ていたが、やがてスッと目を逸らして言った。
「悪い」
「いや。それで……私に何かできることはあるか?」
「いや……具体的にどうするかは考えておく。君には、できればリアンドの意図を聞き出して欲しい。今日はもう行くよ。貴重な話をありがとう。また来る」
「……わかった」
レオニールは謁見の間で王の前に跪いていた。
「占いの結果は?」
威厳に満ちた言葉にレオニールは頭を下げたまま淡々と応える。
「吉兆が出ております。動くのは早い方がよろしいでしょう」
「ふふふ、よし。あの家は先代から鬱陶しかったが、この機に潰してしまおう。なあ? レオニール」
「……僕はしがない占い師ですので。吉凶を占うことしか」
「ふはは、そうだったな。だが、お前の占いはよく当たる。今度も期待しているとも。すぐさま手配しよう……。不運な蛇は、保護してやらねばな」
「では……僕はこれで」
「ああ、いや……待てレオニール。もう一つ占って欲しい」
「なんでしょうか」
「公爵と蛇に味方する者の存在だ。何か見えるか?」
王の言葉に、レオニールは静かに目を閉じる。世の中には水晶占いやカード占いなどがあるが、レオニールはそういった道具は何も使わない。単純に始める時に何も持っていなかったからだ。考えをまとめて、目を開ける。それだけで見る者には、レオニールに何かが降りて来たように見える。
「…………はい。人数までは分かりませんが、味方する者は見えます。特に……おそらくこれは……若い女性」
「女性?」
「はい。使用人か……あるいは獣隷か、そこまではわかりませんが」
「……なるほど。若い女、か。気にしておくとしよう。下がって良いぞ」
「失礼いたします」
退出したレオニールは、半ば以上ぼんやりとしたまま城内の一画にある自室へと向かう。足はほとんど自動的にそこを目指していた。
「レオニール様」
声をかけられたことに気がついて目を上げるとリヴィアがいた。待ち伏せていたらしく、騎士らしいピシリとした姿勢でカツカツと歩いてくる。結い上げた赤毛のお団子がそれに合わせて規則正しく揺れていた。背丈がリヴィアの方が僅かに低いから、見下げる体勢になる。
「リヴィア、待ってたの?」
「ええ……顔色が悪いですわ。大丈夫ですか?」
そっと頬に添えられた手を掴んで、やんわりと離す。
「大丈夫だよ」
それでも納得しないようにリヴィアはレオニールを見上げていたが、やがて視線を逸らして言った。
「……あの獣人ですか?」
「……何が?」
「ッ……とぼけないでください。あの獣人なのでしょう? 陛下に従いたくないのなら出て行けば良いではないですか!」
「ッ……そんなことは」
「そんなことでしょう! 貴方だけは……貴方だけは、獣人の血を引く妾腹の私にも、それと知って変わらずに接してくれました。そんな貴方だから、きっと獣人にも同じように接する。そして……貴方はあの蛇に惹かれているのですよね」
「それは……」
否定しようとして、迷う自分がいた。別に恋愛対象として見ているわけではない。それを考えるにはエキナは幼過ぎる。だがそんなことはリヴィアもわかっていて、それでも『惹かれる』という言葉を選んだのだろう。
「…………北森に、行ってからです。貴方は変わりました」
「そうかな」
「はい、笑わなくなりました。いつも笑っていた貴方が」
「えっと……ごめ」
「どうして。どうして、あんな獣人に。罪人に。私に、同じように接することができるんですか? 貴方は人間で、彼らは人間じゃないのに。人間じゃないのにどうして、私にできなかったことができたの。どうして、私ではだめだったの」
「……リヴィア?」
リヴィアはキッとレオニールを見上げる。その瞳の端には涙が滲んでいて、レオニールは胸が痛んだのを自覚した。
「レオニール様。私は……獣人を同じとは思えません。お父様を好きにもなれません。ですが、貴方の味方をします。どちらを選んでも、私だけは貴方につきます。そのことをどうか、覚えていてください」
微笑んで、ありがとう。それがレオニールの思うこの場での正解で、無難な回答だ。それでも、声が出なかった。感じたことのない何かが胸の中で渦巻いているような、言葉にできない何かが胸の奥で煮えたぎっているような。狼狽して、困惑した。
「僕は……」
言いかけた言葉に、レオニールは驚いて口を噤む。その後に何を続けようとしたのか。ただ『自分自身のことを話そうとして、言い淀んだ』事実に驚いた。
「私は……ずっと、待っています。貴方は、優しくて、残酷です。それでも……貴方がちゃんと、貴方のことを思い出したら、聞かせてください。それが嘆きでも復讐でも、私はそばにいます。言いましたよね? 私の剣は、貴方に捧げますと」
リヴィアは涙を滲ませたままでくすりと笑うと、レオニールの横を通って大股に歩き去って行った。コツコツと軍靴が床を踏む硬質な音が辺りに響き、やがて消える。
「…………僕は」
レオニールは立ち尽くしたまま、しばしリヴィアの言った言葉に思いを巡らせていた。