弱者
馬車はセクメト家でエキナとアルヴィスを下ろすと、レオニールとリヴィアを乗せたまま王城へと向かって行った。それを見送って屋敷に入る。エキナがここで暮らし始めて一月。それなりにエキナの存在にも慣れたのか、使用人たちは距離を取りながらも気付かぬふりを貫いている。
「あ、お帰りなさ……」
部屋に入ると、戻っていたロゼが出迎えの言葉を言いかけて硬直した。
「へえ、侍女がいるのか。初めまして、可愛いお嬢さん」
アルヴィスが進み出たかと思うと、自然な動作でロゼの手を取ってその甲にキスをした。
「ッひえあっ!?︎ あっ、あのっ、どうしてこちらに……!」
「お前、何してる……」
「何って、挨拶をね? エキナの侍女なら、仲良くしとかなきゃ」
「おお、お茶を、今すぐご用意いたします!」
ロゼはキスされた手の甲をこそこそと服の裾で拭いながらパタパタとキッチンへ向かって行った。
「あれ……嫌われたかな?」
「突然あんなことをすれば当たり前だろう」
「そう? みんな喜ぶんだけどな。ほら、俺顔がいいから」
本気か冗談かわかりにくいことを言う。たしかに容姿は整っているとはエキナも思うが、結局無視していつもの窓際の席に座った。アルヴィスも小さなテーブルを挟んだ向かいに腰を下ろす。アルヴィスの話に前置きはなかった。
「それで、鹿とは話せた?」
エキナは軽く目を伏せて頷く。
「……一応な」
「その感じじゃ、いい話は聞けなかった、か」
「そうだな……まあ、それでも血脈が途絶えていなかったことを喜ぶべきなんだろう」
「それでも、約束の話くらいは聞かせてもらわないとな。あの鹿は何者で、どうしてあそこにいるのか……とか」
「ああ。話すさ」
エキナはレオニールに話したのと同じ内容をアルヴィスにも語った。ただし、レオニールには伏せていた西原の緑鹿の存在にも言及する。エキナがひと通りを話し終えるとアルヴィスは興味深げに頷いた。
「ヌシ……か。俺も聞いたことないな」
「……そうか」
やはり忘れられているらしい。そも、誰も記録に残していないのだろう。
「訪ねた北森で、その鹿が生存していることがわかった。だから、教会に会いに来た、と。それで……お前は会ってどうするつもりだったんだ?」
「…………別に、同胞に会いたいと思うのは、何もおかしくないだろう」
「ああ、そりゃそうだ。まどろっこしい話はだめだな。単刀直入に聞こう」
アルヴィスがそう言ったところでお茶とマカロンを持ったロゼが戻って来た。
「お待たせいたしました」
お茶を差し出したロゼを一瞥してアルヴィスは続ける。
「リアンドは……お前に、国王を殺させる気でいる。違うか?」
「ッ……」
瞬間。ロゼは硬直し、エキナの脳裏をめまぐるしく思考が巡った。なぜ、どこまで知っているのか。いや、知らないから「違うか?」と確認した。リアンドの言葉を信じるなら、知っているのはリアンドとエキナ、それにロゼ。それだけのはずだ。なのにこの確信に満ちた聞き方は。
そんな逡巡の間で、アルヴィスには充分だった。
「当たりかな。まさかとは思ったけど、あいつがそんなこと考えてたとはなあ」
「…………告発でもする気か?」
エキナは殺気を漲らせたが、アルヴィスはリラックスした様子で背もたれに背を預ける。
「まさか。むしろ、それが本当なら俺たちは協力できるはずだ。俺の目的は、獣隷制度の撤廃だからな」
アルヴィスの言葉にエキナは眉間に皺を寄せる。
「……正気か?」
「至って正気だ。それで、そっちの目的は?」
「……同じだ。獣隷を解放したい」
エキナの返答にアルヴィスは考え込むように顎に手を当てて、慎重に口を開いた。
「いや、それにしては……方法が強引過ぎる。リアンドは実力者だ。それだけが目的なら、それこそ俺が王位を継いでから法改正を働きかけるくらいはできるはず。王殺しなんてしたら、それこそ積み上げたものが崩れ去りかねない。リスクが大きすぎる。何か急ぐ理由でもあるのか……あるいは、強引な方法自体が目的のはずだ」
じっ、と見られてエキナはごくりと唾を飲む。軽薄そうに見えて、意外と頭のまわる男だ。どの道、ここまで見破られて隠しても仕方がない。
「ああ……リアンドの目的は、復讐だ。獣人に反逆させて、人を虐殺し、国自体を壊そうとしている。だが、私は違う。できることなら……血を流したくない。人の血も、獣人の血も」
エキナの返答が予想外だったのかアルヴィスは軽く目を見張った。
「復讐? あいつがそんな、いや、それより、君が復讐を望んでない? 逆じゃなくて?」
「言ったことは事実だ。というか、驚きたいのは私なんだが……。お前はこの国の王子じゃなかったのか? それがどうして獣人の解放なんて考える」
「ああ……ま、それはそうか。けど……ははっ、どうしよう。面白いことになった」
アルヴィスは心底楽しげに笑う。そうしていると、どことなく少年のような幼さが見えた。いや、実際年齢としては青年に満たないのだろう。やたらと大人びて見えるだけで。
「面白い?」
「面白いさ。自分の立場がわかってるのか? リアンドの目論み、失われた獣人たちの知識、それに王族の俺しか知り得ない情報。今君は、それらすべてに手が届く。ん、それに。侍女の君も、ひょっとして獣人なのかな」
ロゼの全身が固く緊張した。アルヴィスにはそれで充分に答えになる。
「内密に頼むぞ」
エキナの言葉にアルヴィスは朗らかに笑う。
「もちろん。エキナ、俺は君に全面的に協力しよう。情報は出し惜しまない。できればそっちの情報も出して欲しい。獣人に反逆させると言ったけど、具体的にどう考えてる?」
「具体的もなにも……私が王を殺せば、他の獣人たちも私を旗頭として動けるだろう。彼らが一斉に立ち上がれば、人間に勝ち目はない。獣隷制度などそもそも立ち行かなく」
エキナが皆まで言う前に、アルヴィスは口の端を歪めるように笑って言った。
「ならない。なるほど……リアンドもそういう考えだとしたら、残念だけど、そもそもを誤解してる。ロゼ、だったか?」
「は、はい!」
唐突に名前を呼ばれたロゼは慌てたように背筋を伸ばす。
「お前は、機会さえあれば人に復讐したいと思っているか? 牙を向いてこの首を切り裂きたいと」
何を当たり前なことを、とエキナは思った。本当にそんな機会があるならばしたいと思う。自分の両親を殺した者、そんなことは知らず平穏に暮らす者、当たり前に強者の地位を享受する者、憎くないといえば嘘になる。それでも、憎みたくないとも思うのだ。
だが、ロゼは答えに窮した。
「ッそれは…………それ、は……」
「これが答えだ。復讐、なんてもの大半の獣隷は望んじゃいない。いや、考えられない。そんなことをすれば、殺されるから」
「望んでいない……? この状況に憤っていないとでも言う気か?」
俄には信じ難くエキナが言うと、アルヴィスはふっと笑って肯定した。
「……冷たいことを言うようだけど、それは期待し過ぎだ。誰もが君みたいに憎しみを持ち続けられるわけじゃない。希望の見えない毎日。隣で死んでいく同胞。神にさえ罪人と見放され、自尊心を傷つけられ続けて、それでもなお恨みや憎しみを持てるほど獣人は……いや、獣人だけじゃないな。人は強くない」
アルヴィスは淡々と語って目を伏せる。ロゼを見やると、沈鬱な表情で俯いていた。
「憎めない……だと。これを、甘受しているというのか? おかしいだろう! どう考えても間違ってる。それに、獣人は神に見放されてなどいない!!︎」
怒りに任せてエキナは思わず立ち上がっていた。やるせなかった。囚われていた時、幾人もの同胞がエキナを諭した。諦めて従えと。それはきっと、本心から言っていて、あの場にいる誰もが諦めていたのだと、この瞬間初めて理解してしまった。