味方
「お前、何を言っている」
黙っていられず、口を挟んだのはエキナだ。殿下と呼ばれていた。リヴィアのことを姉とも。ならばこの男は王族のはずだ。それが、国教に対して異を唱えている。
「……そうか。君でもいいのか。ははっ、俺としたことが、気が急いていたな。君も知っているのか? 正しい神話を。それなら教えて欲しいんだが」
「……ああ、知ってる。だが」
瞬間、アルヴィスとエキナがハッと通路の入り口の方向を振り返ったのは同時だった。同時に振り返ったことに互いに驚き、アルヴィスが楽しげな笑みを浮かべる。
「追い返しておこう。その鹿に用があったんだろ? その代わり、話は後でじっくり聞かせてもらうからな」
何の気負いもなくそう言って、アルヴィスは気楽な足取りで去って行く。その先にまだ人影は見えない。けれど、アルヴィスも気づいたのなら間違いないだろう。人が来た。それも、それなりの人数がいる。エキナは立ち上がると鹿に向き直った。
「時間がない。教えてくれ。お前は、西原の緑鹿なのか?」
牡鹿の瞳が、瞬いた。
「蛇人……だっけか? まだ、その名を知ってる奴がいたとはな」
牡鹿はそう気怠げに答えた。
「私はエキナ。白蛇の末裔だ。獣隷を解放したい。お前の力を、借りられればと思い、探していた」
「クッ……! はははは、解放だ? できるわけないだろ。ヌシの話なら聞いてる。けど、もうとっくにおっ死んでると思ってたよ。よくここがわかったな」
「手記が、残っていた。緑鹿は教会の下で生きると。その時が来たなら、また手を取り合おうと。だが……お前にもう、ヌシの誇りはないらしい」
「……そうさな。最初はあったんだろうさ。けど、人に取り入って神の御使いってのにしてもらって見逃してもらった。その時に誇りなんざ捨てたんだろ。少なくとも今の俺には残ってないよ。こっから出してくれるってんなら協力してえのは山々だが、今の俺にもうそんな力はねえ。緑鹿は獣と交わり過ぎた。人の血はどんどん薄れてる。もうあと何代か重ねりゃあ、ただの鹿になると思うぜ。遅過ぎたな、お嬢ちゃん」
「ッ……そうだな。私たちは、遅すぎた。機会を待つ間にも外で生きる獣人は数を減らして、囚われている者を助け出そうなんて気も薄れていって、ただ自分たちが捕まらないことに必死で。今は里を守る時だと……。今ならわかる。父さまも、内心は悔しかったのだろうと。だが、時は来た。遅くはなかった。お前はまだ、獣人だ。これを逃しては次はないだろう。私がやる。私が、なんとしても」
鹿は残念そうに僅かに顔を俯ける。
「ま、せいぜい頑張ればいいさ。あんたがどんな立場なのか知らねえが、俺はこっから出られない。出られたところで、今の俺の力は全盛期の緑鹿からは程遠いだろう。どの道、俺には出せる手も口もねえのよ」
「そうだな。だから、私がやるんだ。待っていろ。二月後、私がお前を自由にしてやる」
緑鹿はそれきり何も言わなかった。何も言わずに頭を垂れた。重かった肩に、更に重みが増す。エキナは自分を鼓舞するように笑うと、踵を返した。
一本道の通路を戻ると、階段の下でアルヴィスが待っていた。エキナを見て片手を上げる。
「話はできたか?」
「ああ……」
礼を言うべきか迷って、エキナの言葉は曖昧に消える。何を考えているのか、よくわからなかった。敵か、あるいは味方か。そんな警戒が顔に出ていたのか、アルヴィスは肩をすくめる。
「そんな怖い顔をするなよ。それに……気負い過ぎだ」
「どういう意味だ」
眉を顰めるが、アルヴィスはそれを無視して階段に向き直った。
「上に怖い人たちがいると思うけど、俺が守るから。行こうか」
アルヴィスについて階段を上ると、引き攣った笑みを浮かべる司祭がいた。その周りではなぜか武装兵が睨みを効かせている。あまり広くない部屋だから少しばかり窮屈そうだった。
「お久しゅうございます殿下」
「ああ、久しぶり。随分と気合の入った出迎えだな」
「ええ、下までお迎えに上がらせたのですが……上で待つようにとお優しいお言葉をいただいたそうで」
「ああ。あそこは空気が悪いからな。あまり長居したいところじゃないだろ」
「その割に殿下は足繁くこちらへ通っていらっしゃると伺っておりますが」
アルヴィスは笑って肩を竦める。
「そりゃあな。獣人だって民の一人だ。せっかく教会で保護されているんだから、会いに来てやらないと」
「殿下は罪人に対しても慈悲の心をお持ちなのですね。ですが、あまり優し過ぎるのもいかがなものかと……そちらの娘は、獣人ですね?」
「セクメト公爵夫人を娘呼ばわりとは。俺が言うのもなんだが、礼に欠いてるんじゃないか?」
顔だけはにこにこと、しかし敵意を隠そうともせずに司祭とアルヴィスは睨み合う。そこにどんな腹の探り合いがあったのかまではエキナにはわからないが、司祭の方が道を開けた。
「そうですね。この場は、非礼をお詫びします。行きますよ皆さん」
司祭はそう言って背を向ける。大股に部屋を出て行く司祭を追って、窮屈に詰めていた兵たちも黙ってそれについて行った。緊張を解いてエキナはふっとを息を吐く。
「……なんだったんだ」
「司祭としては、この場で君を『保護』したかったんだろうな。けど、俺が君についた。だからこの場は大人しく引き下がった、んじゃないかな? 次期国王様相手に喧嘩するつもりはないらしい」
その時、司祭たちと入れ代わりにレオニールが駆け込んできた。
「エキナ、大丈夫だった?」
その後ろには既に体調は回復したらしいリヴィアがいる。先程までの様子とは打って変わって、凛々しい騎士の佇まいに戻っていた。
「あなたも保護してもらえばよかったのに」
レオニールは苦笑し、アルヴィスも肩をすくめる。
「まだ俺が少し用があってさ。保護されると困るんだよ姉上」
「用……ですか?」
レオニールが僅かに顔を曇らせる。
「ああ……ふっ、そうか心配だよな、俺なんかに大事なエキナちゃんを預けられない、か」
「ええ、まあ……」
「はははっ、否定しないのはお前らしい。けど、俺からしたらお前に預けとく方が心配……っと、人が戻って来るな。続きは帰ってからにするか」
アルヴィスに尋ね返そうとしたレオニールだったが、その前に扉が開いて見張り番と思しき兵が戻ってきた。その場で話し続けることもできず、会釈ですれ違って外に出る。教会からも出て、馬車に乗ると当然のようにアルヴィスも付いてきた。
「殿下。行き先はきちんと城の者に告げてきたのでしょうね?」
馬車が発車すると同時にリヴィアが釘を刺すように尋ねたが、アルヴィスは笑って無視した。
「姉上たちはこの後すぐ戻るんだろ? 俺は寄っていっていいかな、エキナ」
「……ああ。約束だからな」
少なくとも緑鹿と話す時間を作ってくれたことは確かなのだ。
「……ごめん、僕はこの後用事があって」
レオニールが申し訳なさそうに言う隣で、リヴィアが不機嫌そうに窓の外へと視線を向けた。エキナはくすりと笑う。
「お前らしくもないな。何を気にしているんだ?」
「何って」
「まさかとは思うが、私の心配か?」
レオニールが驚いたような顔をして言葉に詰まった。
「……確かにそうだ。僕が口出すことじゃなかったね」