鹿
覗き込んだレオニールが首を捻る。
「さあ。神の御使いが鹿、なんて話は聞いたことないけど。たしかにそう見えるね」
「私も知らないわね。でも、それがどうか」
「や、遊びに来たぞ」
唐突に割って入った声に一同は弾かれたように顔を上げた。茶髪を編み込みにして、元は上等であろう服を着崩した男は顔に軽薄そうな笑みを浮かべている。
「アルヴィス様でしたか」
「このような場所で何をしておられるのですか」
レオニールがほっと息を吐き、リヴィアは呆れたように嘆息する。エキナはアルヴィスが誰かわからず、とりあえず黙っていた。
「このような場所、なんて言っていいのか? 敬虔な信徒が教会に来て何がおかしい?」
「お言葉ですが、殿下は敬虔な信徒ではないでしょう」
「本当にお言葉だな……まあ、それはどっちでもいい。別に神に祈りに来たわけじゃないしな。本題は……お前がそうか……。へえ……意外と幼女趣味だなあいつも」
じいっと無遠慮な視線を向けられてエキナは僅かに身を引く。
「それより。殿下はご存知ありませんか? 神の御使いに鹿が描かれている理由について」
レオニールがエキナを庇うように身を乗り出す。アルヴィスはそれで気が逸れたのか、視線がエキナから外れて絵本に向いた。
「ああ……知ってる」
あまり期待していなかっただけに、三人の視線は一斉にアルヴィスに向いた。そのことに僅かに怯んだ素振りを見せつつ、アルヴィスは続く言葉を濁らせた。
「なんだ……ここだと話しにくいな。見せた方が早いか。来い」
書物を棚に戻して、アルヴィスについて行くと向かった先は大広間にある祭壇。その奥にある謎のモニュメントのさらに奥だった。モニュメントに隠れて死角になっていた場所に、小さな扉がある。アルヴィスが扉を押すと、軽く軋みながらもあっさりと扉は開いた。中にいた聖職者らしき男が振り返る。
「こちらへの立ち入りは……ああ、殿下でしたか」
「邪魔するぞ」
そこはあまり広くはない小部屋だった。壁際には何に使うのか、小さな檻が並んでいる。
「どうぞ」
男の目が探るようにエキナたちを見るが、結局何も言わずに道を空けた。アルヴィスは気にした様子もなくさっさと先に進み、部屋の奥にある扉を抜ける。
後を追うと、そこは地下へ続く下り階段になっていた。点々と灯火があるが、それでも奥は薄暗くてよく見えない。
「……ここは」
リヴィアがそっとレオニールの腕を掴んで寄り添う。狭い階段を、先頭にアルヴィス。続いてエキナ。最後にレオニールとリヴィアの順で降りて行く。階段を降りるほどに、悪臭が漂った。教会の独特の香りとはまったくの別物。生理的に吐き気を催すような悪臭にエキナは顔を顰める。その先にあるものは、なんとなく予想がついた。四年の間囚われた地下を思い出す。
降りた先には、予想した通りのものがあった。いや、予想以上のものがあった。左右の壁に並ぶ鉄格子と、その奥には暗闇の中で瞳を光らせる獣人たち。獣人と、ただの獣は、見かけでは区別がつかない。だが、よく見ればわかる。その瞳にある理性の光は、ただの獣にはないものだ。
「…………ここは、獣人の処刑場だ。獣隷としての価値なしとされた獣人はここに来る。教会で罪を浄化してやろうってわけだ。だが実態は、ここで餓死だ。使えない獣に割いてやる食糧も人員もないからな。ここに放り込んでおいて、檻が空になったタイミングで死体を回収して軽く掃除する。そしてまた次を放り込む」
「ッ……私は、この場所は好きではございません。殿下、このような場所に何の用が」
リヴィアの抗議の声にアルヴィスは足を止めることも振り返ることもせずに答える。
「鹿だ。気になるんだろ? この奥にいる」
この奥にいる。その言葉にエキナは気分が高揚するのを感じた。期待に胸が高まった。ようやく同族に会える。西方のヌシの一族であるなら、きっと誇りを失っていない。囚われた牢獄で、誰もが「馬鹿なことは言わないから従っておけ」とエキナに言った。意地を張っても死ぬだけだ、と。それなら死んだ方がマシだと思った。だがきっと、ヌシならばエキナのことを認めてくれるはずだ。よくぞ誇りを守り抜いたと言ってくれるはずだ。
アルヴィスはさっさと先に進む。飢餓に苦しむ獣人たちからは意識して視線を逸らして、エキナもその後を追う。
「リヴィア?」
不意に聞こえたレオニールの声に、アルヴィスが足を止めた。エキナも振り返るとリヴィアがレオニールに縋るように頭を俯けていた。脂汗をかき、その手は僅かに震えている。見るからに調子が悪そうな様子にレオニールも気遣うようにその顔を覗き込んだ。
「申し訳ございません。気分が……」
「ごめん、悪いけど僕たちは先に上に戻ってるよ」
「わかった」
「気にしないで。姉上まで連れてきて悪かったよ。君は……大丈夫?」
アルヴィスに見下ろされて、エキナはこくりと頷く。
「問題ない」
「よかった。まだもう少し歩くからね」
レオニールたちと別れて、さらに先に進む。左右の牢は相変わらずだが、いつしかその中は空になっていった。僅かに獣の骨のカケラが落ちているようだがそれだけだ。悪臭も遠のき、随分と広い地下だなと思い始めた頃。不意に前方に光が見えた。燭台の灯りには見えない。
「……太陽光、か?」
「お、正解。この上には尖塔が立ってて、その天辺から光を取り込んでる」
そのまま近づいて行くと、やがて全容が見えた。地下廊下の突き当たりにある鉄格子の奥、少し広めの部屋のようになっているそこにだけ、上から太陽光が降っていた。床も無骨な石ではなく、緑の草が生えて湧き水もある。そしてそこに、鹿がいた。一匹の雌鹿と一匹の牡鹿。それに、子鹿も一匹。
「………………」
エキナは、言葉を失った。それは奇異な光景だった。牡鹿の瞳には理性の光が見て取れた。おそらく獣人だ。けれど、雌鹿の瞳にはそれがない。それはただの獣の瞳だった。子鹿はというと、こちらに背を向けて寝ていてわからなかった。
「期待したものはなかったかな? ここにいるのはただの鹿だからね」
「…………なぜ、鹿がこの場所に?」
「鹿は神の御使い、だった。たしかにその記述は最初期には存在していた。でも、もうない。全部消された。あの絵本も、存在がバレれば処分される。だって、呪いを受けた人間が獣になるのに、神の使いが獣なんて矛盾もいいとこだろ? それで鹿の存在は忘れ去られて、でも保守的な連中はこいつらを殺すに殺せなくてこんな場所で生かしてる。たびたび外から鹿を連れ込んで血が絶えないようにしてね」
馬鹿にしたように笑い混じりに話すアルヴィスに、エキナは怒る気すら湧かなかった。期待が急速に萎んでいく。ふらりと前へ出て、目の前の鉄格子を握りしめた。多少他の獣人より環境が良いだけに過ぎない。飼い殺しも同然。狭い牢に押し込められた体からはすっかり筋肉が削げ落ちている。
「…………なんだ……なんだ、これは。何をしている。こんな場所で、獣と交わって子を残し続けてると言うのか? お前は、ヌシじゃないのか。それが……! それが……私は…………」
予感はしていた。人の世の中で獣人が誇りを守ったまま生きるなど無理なことだと。それでも期待した。もしかしたら、何か方法があるのかもしれないと。だって、ヌシなのだ。誰よりも強く気高く、その一帯を縄張りとする者なのだ。
「へえ……君がそう言うってことは、やっぱりこいつは獣人なんだな」
アルヴィスの言葉など、もはや耳に入っていなかった。ようやく見つけた希望が音を立てて崩れ落ちる。ヌシでさえ、この状態。協力が仰げれば、それでなくとも話ができれば、糸口を見つけられればと思っていたのに。
「ッ…………残念だ」
エキナはギリっと唇を噛む。どの道、エキナがすべきことは変わらない。生きていたなら、それで充分と見るべきだ。
呆然とするエキナの横にアルヴィスが進み出て、一転した真面目な声音で話し始めた。
「……鹿くん。この子は蛇人だ。話してくれないか? いつまでもだんまりじゃ困るんだよ。ここの神話はおかしい。いや、神話が正しいとしてもだ。ここの神様とやらはどうかしてる。本当に獣人は罪人なのか?」