教会
レオニールが訪ねてきたのは、それから何日後かのことだった。彼が来ることは聞いていたから、今日のエキナはドレス姿である。いつもの通り読めない微笑を貼り付けた長髪の美男子は、隣に見慣れない騎士服の女性を引き連れていた。赤毛をきっちりお団子に結い上げた女性は鋭い眼光でもって、ほとんどエキナを睨みつけるように見る。
エキナの不躾な視線に、少しばかりムッとした様子で女性は自ら進み出ると端的に名乗った。
「リヴィアよ」
「……エキナだ」
出会って早々剣呑な雰囲気で睨み合う二人の間にレオニールが割って入る。
「リヴィアは、この国の第一王女様なんだ。エキナが教会に行くのに、僕やリアンの身分だけで守り切れるかわからなくてね。協力してもらうことにした。王族の血を引いてるだけでだいぶ違うからね」
リヴィアが不機嫌そうにレオニールを片手で退かす。
「説明が足りませんわ。私は、レオニール様の婚約者よ」
「……そうか」
「それだけ? もう少し驚かれるかと思ったけど」
事実を意図的に伏せていたらしいレオニールは特に悪いとも思っていない様子で笑う。
「別に……。お前の年齢であれば、いない方がおかしいだろう」
「まあ、獣人なのに意外と知恵があるのね」
リヴィアの言葉に、棘はなかった。馬鹿にしているとすら思っていないのだろう。素直に疑問を口にした様子に、エキナも気にせず笑って答えた。
「ああ、読み書きはできるからな。ここで書物も読んでいるし、ロゼやドルファからも話を聞いている」
「でも、敬語は知らないのね」
やはり悪気なく笑う。
「ああ。悪いな。言葉遣いだけはどうにも難しい」
しれっとエキナは答えるが、言葉遣いを変える気などさらさらなかった。そんなことをして舐められるのが嫌だった。獣人がへりくだった態度など見せれば、たちまち人間は調子に乗るだろう。
「エキナ。ロゼがいないようだけど……」
「ああ。今日は不在だ。三人で行くとしよう」
かくして馬車に揺られて辿り着いた街の中心部。荘厳な様子で佇む教会の前で、エキナは顔を顰めた。なんとなく、臭ったのだ。独特の芳香が漂っている。あまり好きな匂いではない。耐えきれない悪臭というわけではないが、思わず鼻を押さえたくなる、落ち着かない気持ちにさせる匂いだ。
「ふふ、やっぱり獣人なのね」
声に見上げれば、レオニールとリヴィアは平気な顔で立っていた。
「お前たちは……わからないのか?」
「この匂いのこと、かな。ちょっと独特だよね。僕は割と好きなんだけど」
「獣人はこの匂いを嫌悪するのだそうよ。呪われているからなのかしらね」
「……そうか」
エキナは改めてスンと匂いを嗅ぐ。やはり好きじゃないと思った。つまりこの匂いを嗅がせれば、人か獣人か判別できるというわけだ。
「エキナ、大丈夫? 無理そうなら帰ってもいいけど」
「いや、耐えられないほどじゃない。大丈夫だ」
「無理しなくてもいいのよ? あなたには辛いでしょう」
哀れむような視線に、エキナは苦笑する。そういうものだ。これが普通だ。何の悪気も悪意もなく、当たり前に人を見下す。それはエキナの年齢的な幼さのせいだけでなく、種族のせいでもあるのだろう。これが、彼らの常識なのだ。
「心配は無用だ」
「じゃあ行こうか。ああ、その前にエキナ。中ではできるだけ話さないで。話すなら僕らにだけ聞こえるように小声でね」
「わかった」
声を潜めて、エキナはこくりと頷く。エキナを間に挟むようにして歩き出したレオニールとリヴィアについて、足を踏み出した。
不快な芳香は、近づくにつれ濃くなっていった。それでも不快なだけで、不調になるというわけでもない。鼻を押さえるのは我慢して、荘厳な門をくぐる。そこには真っ白な巫女服を着た人々が多くいた。加えて、参拝客と思われる人々も。広い空間は壁も床も真っ白に磨き上げられている。物も必要最低限にしか置かれていない。正面奥に祭壇らしき大きな台と、壁際に休憩用らしき椅子が間隔を開けてぽつぽつとある。それだけだ。
レオニールたちは迷うことなく真っ直ぐに広間を突っ切って、祭壇の前まで行く。祭壇のさらに奥には、よくわからない巨大なモニュメントが鎮座している。スッと隣で跪いたレオニールたちに倣ってエキナも膝をつく。額に拳を当てて数秒の祈りの時間。それが終わって立ち上がったところで、背後から声をかけられた。
「ようこそ、レオニール様。リヴィア様。それに、可愛らしいお嬢さん」
そこにいたのは、やはり真っ白な服を纏った小太りの男だった。態度からして、おそらくエキナが獣人だとは知らないのだろう。
「ご無沙汰しております。司祭様」
「お久しぶりですわ。ご歓迎ありがとうございます」
「いえいえ、お二人が来られるのであれば当然ですよ。急なお越しでしたが……何かございましたかな?」
探るような目を向けた司祭にレオニールはいつも通りに笑う。
「いいえ。何もなくとも、足を運びたくなる何かがあるんですよ。この場所には」
「その通りですわ。本日はゆっくり見てまわろうかと思っておりますの」
「それは素晴らしい。神もお喜びになられるでしょう。ところで……そちらのお嬢様は?」
エキナはそっとレオニールの影に隠れる。あまり目立たない方が良いだろうという判断だ。
「僕の友人です。今日は一緒に見てまわろうかと。構わないでしょうか?」
司祭は人の良さそうな笑顔で答えた。
「ご友人ですか。もちろん構いませんとも。神は何人も歓迎いたします。どうぞごゆっくり」
立ち去る司祭を見送って、レオニールたちは反対の方向へと歩き出す。広間にある扉の一つから広間を出ると、不快な匂いが少しばかり薄くなる。相変わらず床も柱も白一色だが、その部屋の壁は書棚で埋まっていた。人二人ほどが並んで歩けるほどの通路を空けて、それ以外は一面が書棚になっている。見上げるような高い書棚を目で追っていくと、天井には豪勢なシャンデリアが釣り下がっていた。
「君の友人、のほうが良かったかな」
レオニールがぼそりと呟くと、リヴィアは嫌悪感も顕に即答した。
「獣人が友人など嫌ですわ。それに、変わらないでしょう。私も貴方も、友人なんてほとんどおりませんもの」
苦笑して、レオニールは改めて部屋を見まわす。
「さて……ここに欲しいものがあるといいけど」
そこから約半日。三人は端から書物を漁った。だが、結果から言えば求めるものは見つからなかった。図書館のような役割のあるこの場所には、教会に直接的な関係がない学術的な書物も多い。そういったものは除いて、神話や歴史書、国の成り立ちに関係のありそうなものをピックアップして読んでいるのだが、まるで成果がない。
わかったことといえば、エキナが思った通り新しく生まれた子供はまず教会であの匂いを嗅がされて選別されること。獣人が罪人であるということがいかにも本当であるかのようにどの書物にも書かれていること。神話についてもエキナが既知の情報しか書いていなかった。
いよいよそれらしい書物もなくなって来て、ダメ元で神話について描かれた絵本を開くと、ふと気になる絵を見つけた。エキナはページを繰る手を止めて、小声でレオニールに尋ねた。
「この……神の遣いとして鹿が描かれているのはどうしてだ?」
鹿なんて他の書物のどこにも出て来なかったし、絵本にも文章としては書かれていない。ただ、『神の御使いが千里を駆けて、種を運びました。』という一文があるだけで、その挿絵に鹿らしき獣が描かれていた。