理想論
追い討ちのようにかけられた言葉には気づかないふりをして、そのまま王の間を出た。出ると同時に、歩く速度を上げる。爵位を継いだ時点で人事については一新した。特に父や友人の殺害に関わった可能性がある者は残らずクビにしている。内部に内通者いる可能性は限りなく低いはずだが、それでも今一度確認しておかねばならない。手配にどれくらいかかるだろうかと頭の中で試算を始めた時だった。
「リアン」
声をかけられて足を止める。顔を上げると、レオニールがいた。
「……戻っていたのか」
「今しがたね」
レオニールは軽く肩をすくめる。昨日からエキナと共に北森へと行っていた。一泊して今しがた戻って来たのだろう。
「……お前、何かあったか?」
徐ろにそう尋ねたのは、なんとなく雰囲気が変わった気がしたからだ。レオニールはいつだって物事全部がどうでも良さそうな顔をしている。別に死んだって構わない、とでも言いたげな。そんな投げやりさがある。その無感動的な瞳に、生気……あるいは意思のようなものが、今は宿っている気がした。
「え、なんで?」
「…………いや、なんとなくだ。何もないならいい」
少し迷って首を振った。言ったところで仕方がない。単なる気のせいかもしれないのだ。
「ええ? 気になるなあ」
「悪いが急いでるんだ。また」
「あ、ちょっと待って」
引き留められて、進めかけていた足を止める。
「なんだ」
「……口止めされてないからいうんだけど、エキナが……教会に行きたいって」
リアンドは眉を上げた。
「教会だと?」
「うん。構わない……って答えたけど、リアンには話しておかないとなって思って」
「……理由は?」
「聞いてない」
「ッチ、この忙しい時に」
教会は獣隷を肯定する根拠とも言うべき存在だ。この国においては教会が絶対的な正義を持っている。リアンド自身幼い頃から刷り込まれた信心もあって近寄り難い場所である。自分のしていることは神への反逆にも等しいのだから。
「……それで。連れて行ってもいいかな?」
「いや……今夜にでも俺が話す」
「わかった」
同日の夜、エキナが自室でロゼと話していると不意に扉がノックされた。ロゼが扉を開けると、リアンドが厳しい顔つきで立っている。
「……レオから聞いたか」
「話が早くて助かる。ロゼ、悪いが席を外して」
「いや。ロゼにもいてもらう。ちょうどその話をしていたんだ」
「は、はい……! 同席、させていただきたいです!」
「……わかった。それでエキナ、どういうつもりだ」
歩み寄って来たリアンドの背後で、ロゼが静かに扉を閉める。
「私が教会に行くことに、不都合があるのか?」
「ある。あの場は絶対的な場所だ。神が……本当にいるのかはわからないが、司教様が『お前は悪である』と言えば、その場で殺されてもおかしくない。今死んでもらわれては困る」
「随分と物騒だな」
「お前の立場は、そういう物騒なものなんだよ」
エキナはふっと息を吐いた。
「私は……復讐をしたくない」
リアンドの表情が一気に鋭さを増した。冷たく鋭利な刃物でも眼前に突きつけられたような緊張感があたりを包む。
「なぜ」
「…………それが、一族の願いだ」
「願いだと? どれだけ虐げられて来たと思っている。お前の言う一族とやらに恨みも禍根もないとでも」
「ないわけがないだろう! 私だって、憎い。父母を殺した連中だ。貴様らばかりが豊かさを享受して、悪気のない顔で生きている。妬ましくて気が狂いそうだ。だが……それでも私は、お前やレオのことまで、害したくはない。お前の言う復讐は、そういう奴らまで含めてだろう」
「当然だ。傍観していた者に、罪はないとでも言うつもりか?」
「罪がないとは言わない。それでも、彼らを虐殺することが正義だとも、私は思いたくない。お前の言うように王を殺せば、革命は起こるだろう。だがそれでは同じことの繰り返しだ。私は、獣隷を解放したいが、お前やレオを奴隷に落としたいわけではない」
リアンドは僅かに俯き、笑った。
「ふっ、綺麗事だ。理想論だ。お前の願いは、叶わない。王を殺せ。お前は逸材だ。革命者は、蛇が良かった。だが、蛇では迫力に欠けるとも思っていた。その点、おまえは申し分ない。大蛇の姿、堂々とした態度。神がいたなら、俺に味方したとしか思えない。獣隷を扇動しろ。彼らが一斉に獣になれば、それで虐殺が起きる。文明を破壊しろ、この国を終わらせろ、協力は惜しまないと言っていただろう」
「……ああ。言ったな。私も、復讐したいと考えていた。だが、お前の言う通り里を見に行って、考えが変わった。一族が守って来た誇りを、私は守らねばならない。そのためにも、私はこの地のヌシに会いたい。教会にあるはずなんだ。西原の緑鹿に繋がるものが」
レオニールには話さなかった、もう一匹のヌシ。西原の緑鹿。今や完全に人に呑まれたこの地を治めていた一族だ。とっくにその血は途絶えたと、エキナも思っていた。だからこそレオニールにも言わなかった。だが、あの日。朽ち果てたかつての自宅の残骸で、一つの手記を見つけた。酷く古びたその手記は、おそらくはヌシの血筋に代々受け継がれてきたもので、あの襲撃がなければエキナが受け継ぐはずだったものだ。そこに記されていた。西原の緑鹿は人に降り命を繋ぐ。来たるべき日には再び手を取り合えるだろう、と。
「……私からも、お願いいたします。リアンド様」
震えるか細い声でこれまで控えていたロゼが進み出た。リアンドが厳しい視線でそれを振り返る。
「お前まで何を言う。正気か? 自分がされたことを忘れたわけではないだろう。こいつが言うのは、お前を凌辱した男を許せということだぞ」
「ッ……」
ロゼがビクッと身を強張らせた。拳は強く握りしめられ、顔面は蒼白だ。
「おい、何の話をしている」
エキナが口を挟むと、リアンドは口端を歪めて笑う。
「なんだ、話していないのか。話してやれロゼ。お前が、獣隷だった時に何をされたか」
「……お前、ロゼが獣人だと……いや、獣隷……だった?」
ロゼが獣人だと気がついたのは、ロゼが神への祝詞をエキナに向かって言ったときだ。あれはこの国では神に対してのみ使う言葉で、それ以外で使うことはない。だからこその、そうではない、正しい意味を理解しているのだと、ロゼがエキナに伝えるための言葉だった。だが、獣隷だったとは思わなかった。一度つけられた枷が外れることなど基本的にあり得ないからだ。隠れて人として生きているのかと、その程度にしか思わなかった。そんな者もいるのだと期待した。
「か、隠して、いたわけではございません。私は……獣隷の生まれです。母も、父も、獣隷でした。七歳まで……私は」
ロゼはつっかえるように言葉を止める。
「ッ……ロゼ、言いにくいことを無理に」
エキナの静止に、しかしロゼははっきりと首を振った。
「いいえ! 私は……っ、私は、当時の旦那様の、性処理用の獣隷として……ッ」
その言葉の意味するところは、エキナには咄嗟にわからなかった。大人びてはいてもまだ十四歳のエキナにとってそれは想像の埒外にあることだ。リアンドがそれを察したのか、後を引き取るように続ける。
「その家の旦那は、五十前後の男だった。幼女趣味があってな、所有している獣隷を番わせて、器量のいい娘が生まれるたびに手篭めにして楽しんでいたわけだ。ロゼは、耐えかねてそこから逃げ出した。捕まる前に、俺が保護した。枷を外して偽の身分を用意して、人として雇い入れた」
聞いているだけで胸糞が悪くてエキナは顔を顰める。
「……許せなくていい。ロゼ、私の味方などする必要は」
「いいえ。私は、エキナ様の味方です」
「なぜだ。どうしてそうも、私に入れ込む」
ロゼは考え込むように目を伏せた。
「……どうして、でしょう。エキナ様は、不思議な方です。本当に……特別なのだと思います。初めてお会いした時から、なんて……なんて、格好いい方なのだろうと思っていました。私は……私たち獣人は、虐げられることが当たり前になっていて、憤るという考えすら湧かなくなっていて、なのに、エキナ様は……。嬉しかったんです、エキナ様みたいな獣人が、まだいてくれたことが。だから……私は、エキナ様のお味方でいたい。申し訳ありません、リアンド様」
正面から対峙して、謝罪しようとしたロゼをリアンドは片手を上げて制した。
「謝る必要はない。わかった……教会に行けるようには考えておく。だから勝手に動くな。だが……綺麗事で国は変わらない。その毒牙は、振るってもらう」
「……ああ。感謝する」
何もなしで、民衆を抑えられるなどとはエキナとて思ってはいない。どの道、王は殺さざるを得ないのだろう。部屋を出て行くリアンドの背中を見送って、エキナは目を伏せた。生まれて初めて、重責を感じていた。里にいた時からエキナは特別だった。だがその一方で、幼い少女でもあった。褒め称えられこそすれ、何かを期待されたことはなかった。けれども今、同族たちの未来がエキナの両肩にのしかかっていた。
「……エキナ様?」
心配げなロゼの声に、ハッと目を上げる。意識して口角を上げた。特別たる自負が、エキナに弱音など許さない。
「私に、任せておけ」
「……はい!」
ほっとしたロゼの顔に、エキナは一層肩が重くなるのを感じた。