優しい人
エキナの話しぶりからも、彼女の故郷が既にないことはわかっていた。だが、獣隷狩りとはこれほどのものだったのかと戦慄した。まるでこの地に、凄絶と悪意がこびりついているかのように思えて、激しい忌避感を覚える。思わず足を止めたレオニールを置いて、エキナとロゼが先へ行く。
「っひ……こんな……こんなの……」
ロゼの声に目を向けると、朽ちた集落の中央で、エキナとロゼが俯き立っていた。容易に声をかけるのも憚られて歩み寄り、そっとエキナの背後から見つめる先をのぞき込んで、次いで耐え切れずに目を逸らした。
「っ……」
バクバクと心臓が脈打った。レオニールとて、決して楽な道を生きてきたわけではない。むしろ、そこらの人々よりは余程苦労してきた。人の悪意も汚さも知っているつもりでいた。いつしか慣れ切り、顔には微笑がこびりつき、感情は動くことを忘れたかに思えた。だが、この瞬間。レオニールは酷く懐かしい、憤りか、あるいはやるせなさとでも呼ぶべきものを感じていた。忘れたと思っていた。だが、忘れられるはずのなかった。その感情。
「…………」
エキナは一言も言葉を発することなく、そのまま目の前のそれを跨ぎ超えて先へ進む。エキナの小さな背が隠していたものが、それが消えたことでよく見えた。
そこにあったのは、人の頭蓋の骨だった。ただ頭蓋だけがぽつんと転がっていた。折れたナイフの刃先が歯を抉るように貫かれ、折れたナイフの柄の方は眼窩に突き刺さっている。頭は陥没し、ひび割れ、砕けた破片は風にでも飛ばされてしまったのか。
死んでなお弄ばれたとでもいうのか、悪意に染め抜かれたようなそれが、かつて人の一部であったことを上手く理解できなかった。
その場で腰を抜かしたようにへたり込んだロゼを置いて、レオニールはエキナの後を追った。
他の建物よりひと回り大きな建物、その残骸の前でエキナは蹲っていた。泣いている風ではない。何かを一心に見つめている様子で、けれどその手元まではよく見えない。重苦しいほどの沈黙が流れていた。呼吸することさえ憚られる静寂とプレッシャー。それを生み出している目の前の小さな背。声をかけることもできず、寄り添うことも拒む背に、レオニールはただ立ち尽くすしかできない。
手持ち無沙汰に辺りを見回すと、巨大な骨が目についた。一瞬、何の骨なのかわからなかった。それほどにその骨は巨大で、白い何かにしか見えなかった。だが、冷静にその形状を追えばわかる。大蛇の骨だ。ならばこれは。
「父さまだ」
ハッと振り返ると、いつの間にか立ち上がったエキナが同じように白骨化した大蛇を見ていた。静かな瞳に、涙は見えない。かといって感情が死んでいるわけでもない。ただ淡々と、事実を見つめている。レオニールが何も言わずにいると、エキナはふっとレオニールの方に、いや、その先に目を向ける。レオニールよりさらに向こうにあるものは。ロゼと、その前に。
「向こうは、母さまだ」
気持ちが悪かった。酷く胸がむかついた。エキナのことは色々と質問責めにしたからなんとなくわかっている気がしていた。わかっている気になっていた。その深淵の、本当に僅かした覗いていなかったことを痛感した。自分が酷く矮小な存在に思えて恥ずかしくなる。
それと同時に、少しだけ、羨ましかった。
「…………エキナ」
「なんだ」
「どうして……君の目は死んでいないんだ」
「なんだ、藪から棒に。私はまだ生きている。死んでいないのは当然だろう」
「ッ……そうじゃない。どうして、絶望していないんだ。どうしてそんな目でいられる。僕は……僕には、無理だった。母さんを殺されて、弟妹たちも死んで、僕は、それだけで」
それだけで、もう何もかもわからなくなったのに。
エキナの答えは、端的だった。
「私が、特別だからだ」
「特別……」
「ああ。私には、特別たる自負がある。こんなことで絶望していては、父さまに合わせる顔がない」
「………………そう、か。特別、か」
視線を感じて、伏せていた目を上げるとエキナと目が合った。エキナは、どこか意外そうな表情をしていて、レオニールと目が合うと、ふっと笑った。両親の遺骨を前にしているとは思えないくらい、余裕の笑みで。
「…………意外だ。そんな顔も、できるんだな」
「そんな顔?」
「真顔が、微笑んでいる顔しか見たことがなかったからな。そうか……お前も、家族を失くしたのか」
言われて驚いた。思わず、自分の顔を撫でる。自分が今、どんな顔をしているのかわからなかった。たったそれだけのことも、わからなくなっていた。静謐だった胸の奥が、いつの間にか熱く滾っていた。
「僕は……僕の家は、貧しかった。母と父は仲が良くなくて、ある日……父さんが母さんを殺した」
語りながら、脳裏にあの時の血飛沫が蘇った。暗い部屋の中、後ろでは弟と妹が震えていた。父親が、母親の小さな体を組み敷いて、その胸に刃を突き立てていた。飛んだ母の血が、自分の顔にまで飛んで来て、熱かった。
この話を誰かにするのは初めてだ。リアンドにも、詳しいことまでは話していない。それを、どうして今更話したくなったのかわからなかったが、エキナは先を促すように黙ってレオニールを見ていた。
「……妹と、弟がいて、父さんは家に寄り付かなくなって、僕が養わないといけなかった。それで、占い師を始めたんだ」
楽に稼げそうだと、あの時は思ったのだ。実際はそうでもなかったけれど。だがどの道、他にできる仕事もなかった。非力な少年一人、住み込みならばともかく、幼い弟妹もろとも雇ってくれる人間などいない。
「最初はろくに稼げなくて、それでもぎりぎり食い繋いで、少しずつ稼ぎが増えて、有名になって、僕も……夢中になってた。でも、王宮に行けることが決まって、少し帰りが遅くなった日」
その時のことを思い出しそうになって、胸が詰まった。思い出してはいけないと直感する。無理矢理引き出せば、きっと思い出せる。思い出してしまう。けれど、この先を、思い出したくない。
いくら稼げるようになったとはいえ、レオニール一人ならともかく弟妹まで養うには厳しかった。まして、長い貧困生活で病気を患っていた二人に、薬まで買ってやれる余裕はなかった。ようやく大金が入ってくると期待したその日。
帰宅した家とも呼べぬ小屋で、弟妹にウジが沸いていた。
その瞬間、世界が彩度を失った。何のために生きているのかわからなくなった。たぶんそれが、絶望というやつだった。父親が死んでいたことは後から知ったが、もうその頃にはそんなことはどうだって良くなっていた。
黙り込んだレオニールに、その先を察したのかエキナはふいと視線を逸らした。
「…………そうか」
「うん」
本当に、どうして今更こんな話をしたのだろう。同情して欲しかったのか、笑い飛ばして欲しかったのかもわからない。ただ、隣にいる若干十四歳の小さな少女が、眩しく見えたのは確かだ。その強さが、羨ましかった。すべてを失くしてそれでもなお前を向いていられる強さが。
「……お前は、優しいな。リアンドが『悪い奴じゃない』と言ったのが少しわかった」
「ええ? 僕が? 自分で言うのもなんだけど、詐欺師だよ、僕」
「そうだな。ずっと、おかしな奴だと思っていた。お前、私のことを下に見ないだろう」
「え?」
言われた意味がわかりかねて、レオニールは小首を傾げる。
「私は獣人だぞ。お前の世界の常識で言うところの、罪人だろう。先祖が罪を犯し、神が獣の呪いを与えた。その呪いは子々孫々に受け継がれる。獣人であることすなわち、穢れある罪人の証である」
エキナが語ったのは、この国の教義だった。罪人がその罪を一人で贖えないならば、その子や孫が罪を受け継ぐ。その前提に立った上で、罪人である獣人はすべからく隷属すべきであるとする教え。
「……それは、君が僕にとって価値があるから」
「違う。価値があるから、というのは、下に見ない理由にはならない。私は蛇人として価値があった。だから四年の間殺されなかった。だが、調教師どもは私を見下していたぞ。そもそも、どうして絶望した人間が占い師になって人の背など押している。お前が助けている連中は、幼かったお前とその弟妹を助けなかった奴らだとは思わないのか? なぜ不幸を予言しない? どうしていつも笑っている。絶望をしたと言うなら、自棄になってもいいはずだ。お前は……お前を絶望させた世界でなお、他者を傷つけまいとしているようにしか私には見えない。それを、優しいと言わずに何と言う」
まっすぐに見つめて、心底不思議そうに、そんなことを言われてレオニールは虚を突かれたように固まった。
「……いや、違う。優しいっていうのは、リアンのような人を言うんだよ。僕は、蛇人を妻にするような真似はできない。君も聞いたでしょ。悲痛な叫びに、何も感じないのかって。何も感じないんだよ、僕は」
「ふはっ……リアンドが優しいだと? 私にはそうは見えないがな。あれはただ……」
エキナは中途半端に言葉を途切れさせた。先程までレオニールを捉えていた瞳は僅かに視線を下げ、今はただ何もない宙空を見つめる。
「ただ……何?」
エキナはそれには答えず、ぼんやりと今はもう潰れた家の方を振り返った。
「…………主より、授かりし祝福を、愛し君のために捧ぐ」
独り言のように囁かれたその言葉は。
「祝詞……?」
神への祈りの言葉。意味はそのまま、神に授かったものはすべて神のために捧げる。それを、獣人であるエキナが口にするのは奇妙だった。
「……やはり、リアンドは優しくはない。レオ。お前は、獣隷を憐れだと思うか?」
唐突な問いに、レオニールは答えに迷った。考えたことがない、というのが正直なところ……いや、あるいは考えまいとしていたのだろうか。
「…………どちらかと言えば、気の毒な人たちだとは思うよ」
だからといって、リアンドのように助けてやろうなんてことは思わないけれど。
「なら、人間はどうだ?」
「人間?」
「獣隷を憐れと思うなら、お前は人間を、酷い連中だと思うか?」
「……思わない。僕は獣人ではないから、というのもあるけど……僕たちは生まれた時から、ただそこに当たり前にあったものを享受してきただけだ。君には悪いけど」
「いや。私も、そう思う」
話が見えずにレオニールは眉根を寄せる。
「エキナ……?」
「レオニール、お前の占いは当たるな」
レオニールの方を振り返ったエキナは清々しく不敵な顔をしていた。その瞳は未来を見据え、既に過去を見てはいない。十四歳のまだ幼さの残る顔には、およそ似つかわしくない堂々たる表情。