故郷
それから、沈鬱な日々が続いた。レオニールがあれから訪ねてくることもなく、一人で街へ出る気にもならない。することと言えば、リアンドに言われた公爵夫人として使える金の、その使い道を考えるくらいだ。だが、それは結論の出ない問いの答えを考えるようなものだった。
誰を救い、誰を救わないのか。命に重さをつけるにも等しい行い。それを断じるにはエキナは未だ幼すぎた。
そんな果て無く続くかにも思われた沈鬱な日々は、意外にも十日を数えたところで終わりを迎えた。
「久しぶり」
いっそ清々しいほどにあっさりと、何事もなかったかのようにレオニールが訪ねてきたのだ。あまりにも平然としているから、怒るのも忘れて呆れてしまう。
「お前……よく顔を出せたな」
「これでも、約束は守る主義でね。北森に行ける手筈を整えた。一週間後、空けておいてくれるかな」
言われて思い出した。そういえば、そんなことを言ったのだった。だが、既に行く気は失せていた。行ってどうするというのか。また無力を痛感するだけだ。
「行って」
どうする、まで言う前に声が割り込んだ。
「行ってくるといい」
伏せていた目をハッと上げると、リアンドがいた。なかなか会うことがないから、随分と久しぶりに感じる。ここのところは部屋に篭っていたから、そもそもロゼとしか顔を合わせない。なんとなく部屋が賑やかになったようで居心地が悪い。
「リアン、いたんだ」
レオニールが朗らかに笑う。
「お前が来たと聞いたからな。よくも抜け抜けと顔を出せたものだと思ったが、そういうことか。エキナ」
「なんだ」
「嫌でないなら、行ってくるといい。あと……レオは悪いやつじゃない。嫌うのは構わないが、あまり責めないでやってくれ」
エキナは目を瞬いた。リアンドがそんなことを言うとは意外だったのだ。
「できれば嫌ってほしくもないんだけどな」
「それはお前が悪い」
リアンドの苦言はスルーして、レオニールがエキナに向き直る。
「それで、どうする?」
行くか、行かないか。正直に言えば、行くのは怖かった。父母の遺骸が、ともすれば残されているかもしれない。潰れた家屋、倒れた仲間。脳裏に蘇るそれらを再び見ることになるのかもしれない。
「……リアンド」
「なんだ」
「どうして、行けばいいと思う?」
エキナの問いに、リアンドは少し迷うように視線を泳がせて、ふっと息を吐いた。
「……そこに、お前の恨みがあると思ったからだ」
「恨み、だと」
「契約者が、その調子では困る」
恨みを思い出せ、と暗に告げていた。恨みを。憎しみを。復讐の原動力を。
「…………わかった。行こう。レオ、連れて行ってくれるか」
レオニールは、やはりいつも通り穏やかに笑って答えた。
「もちろん」
約束の一週間後。エキナはレオニールと共に馬車に揺られていた。今日はロゼも一緒だ。この馬車には御者がいる。そのことに少し安堵した。この馬は獣人ではない。
車内は静かだった。誰も口を開かない。エキナは見るともなく車窓を眺め、斜向かいの席でレオニールも反対側の車窓を眺めている。ロゼだけが落ち着かなさげにエキナの隣で俯いていた。
「……レオ」
エキナは車窓から目を離さずに声をかける。
「うん?」
「今更だが、北森で見たものは他言無用で頼む」
「それは構わないけど……見せてくれるの?」
どんな顔をしているかはエキナにはわからなかったが、その声には意外の念が滲んでいた。
「ああ。置いていったところで、信用できないからな」
口ではそう言うが、本音は単に恐ろしいからだ。懐かしく感じてしまう程度には久しぶりな故郷も、今となっては安全な隠れ里ではない。
そんな内心を知ってか知らずか、レオニールはくすりと笑う。
「なのに、僕が他言しない、と言った言葉は信じられるの?」
「リアンドの奴が信用しているようだったからな。それに……どうせ、大したものは見れない」
声には、意図せず僅かな寂しさが滲んだ。そう、どうせもう、何も残ってはいないのだ。それを見てしまうのが怖くもあり、けれども何かあって欲しいと期待もしてしまう。
レオニールは何か言おうか迷ったようだったが、結局何も言わず再びの静寂が馬車を満たした。
馬車は北森最寄りの村を通り過ぎて、森のすぐ前で止まった。この先は徒歩だ。目の前に茂る森をエキナはぼんやりと見る。記憶にある森の中の景色と、目の前の森がうまく結びつかない。ただそれでも、何者をも寄せつけぬように鬱蒼とした森は、まるでエキナを歓迎しているかに見えた。本能が知っているのか、自然とどう歩けばいいのかがわかった。
ふらりと森へ向かって歩き出したエキナを先頭に、ロゼとレオニールも後に続く。森へ一歩踏み入ると、空気が変わった気がした。懐かしい樹木の香りがエキナの鼻腔をつく。長いこと思い出すこともなかった香りだ。その場にいたときには意識すらしていなかったそれを、たしかに懐かしいと感じた。静謐な空気を吸い込み、吐き出す。いつしかエキナの顔には笑みが滲んでいた。
歩く速度は次第に早まり、記憶と景色が重なっていく。ぐいぐいと進むエキナに、ロゼとレオニールは少しばかり苦労しながら、けれども身軽な様子で歩を進める。
唐突に、木々が途切れた。現れたのは、森を横切るように流れる川だ。涼やかな音を立てて水が流れ落ちる。木々の葉が途切れたことで、まるでスポットライトが当たったようにそこだけが陽に照らされる。
その自然が魅せる美しさに、レオニールは束の間見惚れた。
「……きれいな場所だ」
「ああ、そうだろう。もう少し……なんだが、この姿で行くには難儀するな」
そう呟くと、エキナはおもむろに服を脱ぎ始めた。
「エキナ様!?︎」
ロゼが焦ったように叫ぶが、エキナは平然と、服を脱ぎ捨てる。レオニールは苦笑すると目を逸らした。こういうところは、獣らしい。
「別にいいだろう。獣が服を着ている方が馬鹿らしい」
自嘲するようにエキナが言う。直後、背後に巨大な体積が現れた気配がして振り返れば大蛇がいた。ロゼがエキナが抜いだ服を拾っている。
「……乗せてくれるの?」
「仕方あるまい。貴様らではこの川と崖を越えられないだろう」
口が動いていないのに、声が聞こえるというのも奇妙なものだ。水飛沫を上げながら川にかかる橋が如く横たわった大蛇によじ登る。ロゼにも手を貸して、硬い鱗に服を引っ掛けそうになりながらも頭の上まで行くと、大蛇はのっそりと体を起こした。
「すごいな、あっという間だ」
大蛇の頭から崖の上に降りると、すぐさま大蛇も登ってきてシュルリと元の少女の姿に戻った。ロゼが慌てて服を持っていくのを見ながら、レオニールはくるりと視線を逸らして、そこにあった光景に目を見開いた。
木椀や食器類、だけではない。家財や、何らかの木片、縄や農具。そんなものが、いずれも無惨に破損した状態で点々と転がっている。その先へと視線を向けていった先にあったものに、ひゅっと息を呑んだ。獣の頭蓋が、落ちている。おそらくは虎か何か。それには、槍のような何かが貫通していた。
「……この先だ」
その声にハッと目を向けると、すぐ隣にエキナが立っている。今はもうきちんと服を着ていた。背丈の差があって、レオニールからはつむじしか見えず、その表情は窺えない。
先に立って歩き出したエキナを追っていくと、間もなく建物の残骸が見えた。家屋はまるで何か巨大なものに踏みつぶされでもしたかのように潰れている。それも一つや二つではない。まるで木々と共存するかのように、整理なく乱雑に、空いた空間を見つけては無作為に建てたかのようにある……いや、あった建物はそのどれもが圧し潰され、あるいは薙ぎ払われていた。