取引
冷たい地下道の奥、コツコツと硬質な足音が響く。
「そのぅ……旦那様、こちらにいるのは本当に駄作揃いでして……上にあるものより良いものは……あっ! お気に召さなければ、よりご希望に添えるものを取り寄せることも」
反響する声は媚びを売るような講釈と。
「あぁ」
それに答える興味なさげな相槌。
ただの地下道に見えたひっそりとしたそこには、両側に牢が並んでいる。中には繋がれた人がいるが、生気なく虚な様にはまるで存在感がない。
さらに奥へ足音が進めば、やがて、ガシャン……ガチャン……と鎖のぶつかる音が響き出し、奇妙な唸り声がそこに混ざる。
「旦那様……もうこの先まで見ることは……」
「いや、見せてくれ」
「は、はぁ……」
獣の咆哮にも似た唸り声に包まれながら、二つの足音は一定のリズムを刻む。そして、やがて二つの足音が止まった時、そこは地下道の最奥だった。突き当たりには一つの牢。ガチャン、と鎖が鳴り、鎌首をもたげたのは一匹の大蛇。二階建ての家ほどの高さはありそうな巨躯を冷たい床に横たえ、暗闇の中で冷たく光る瞳は血のように赤い。
「いるじゃないか。蛇が。それも……大蛇が」
「そ、その……旦那様。それはとてもお売りできるような品では」
「いい。これにする。言い値で買おう」
「は……いえ、しかし! これで金を取るのは商人として」
「仕入れ値くらいあるだろう。それくらいは出させてくれ」
「しかし…………ですね……ううーん……」
しばし迷うように唸っていた商人の男は、黙って待つ客と思しき青年に根負けしたのか。
「わかりました……! そこまで仰るのでしたら差し上げます。その代わり、うちで買ったことは内密にお願いします……!」
青年は口元に笑みを滲ませた。
「そうか、わかった。取引成立だ」
その夜、市場の片隅で、人目を憚るように一つの巨大な檻が運び出された。
大蛇が目覚めると、そこは冷たい檻の中ではなかった。いつでも視界にあった真っ黒い鉄の棒はなく、その身を縛っていた鎖までも消えている。
「目が覚めたか」
ハッとして鎌首を振ると、一人の青年がいた。ひと目で高価とわかる服を着て、無防備に蛇のいる寝台に腰掛けている。美しいブロンドの髪と端正な顔立ちはその高貴さを窺わせた。今すぐに頭から丸呑みにできるそれを、しかし蛇はすぐには食べようとはしない。
「この部屋は、気に入ったかな?」
蛇がいるのは広い部屋だった。窓にはレースのあしらわれたカーテンが陽光を遮り、床は鏡のように磨き抜かれている。蛇にはおよそ縁のないドレッサーやクローゼットまで置かれていた。蛇が目覚めたのは大きな寝台の上だ。温かそうな毛布と布団は蛇の体に押されたのか半ばほど床に垂れ落ちている。
「…………」
蛇は何も答えず、爛々と光る瞳でじっと男を見据えた。
「俺と、取引をしよう」
蛇は疑わしげに目をすがめる。
「取引?」
問い返した声は蛇のものだ。その巨体に反し、その声はまるで少女のように高く澄んで美しい。
「ああ。俺がお前を、獣隷の身分から解放してやる」
「…………何が欲しい?」
男はその端正な顔立ちにはおよそ似つかわしくない歪んだ笑みを浮かべた。
「この国の、すべての獣隷の解放」
「ッは、本気で言っているのか?」
「本気だ。そのためにずっと、蛇人を探していた。お前にはその革命者となって欲しい。約束しよう、いつかその牙にこの国の王の首をくれてやる。それまで、俺とお前は共犯者だ」
蛇の口がニイと裂けるように開いた。ちろりと細い舌が覗く。
「共犯者、だと……? 薄汚い人が笑わせる。ことが明るみに出れば私にすべての咎を押し付けて逃れるのだろう。そんなものを共犯者とは言わない」
優に男の数倍はあろうという巨躯でもって蛇は大きく身を起こす。ひと飲みにできそうな大きな口、そこから覗くは凶悪な毒牙。だが、男は怯む素振りすら見せずに笑う。
「なら、それでもいい。お前の選択肢は二つ。今ここで俺を食うか、三月後に王を食うかだ」
「フン、いいだろう。三月の後、お前を食うことにならなければ良いがな」
約束を違えればその時は命はない、と。そう蛇は脅したつもりだったのだが、男はやはり笑って言った。
「いや。お前は俺も食うさ。王を食った、その後でな」
握手でもするように男は蛇に向かって手を差し出す。
すると、まるで帯が解けるかのように蛇の体が溶け崩れた。一瞬後、蛇がいたその場所には幼い少女の姿がある。いまだ十代半ば程度にしか見えない少女は、蛇と同じ血のように赤い瞳を男に向ける。長い濃緑の髪がその裸体を包み、寝台の上にとぐろを巻いて流れ落ちた。
「人に、握手を求められたのは初めてだ」
蛇と寸分違わない声で少女は答え、男の手を握り返した。
「契約成立だ。俺はリアンド。リアンド・セクメトだ」
端的な男の名乗りに、少女はまだあどけなさの残る顔には似合わない大人びた笑みを浮かべる。
「エキナだ」
エキナと名乗った蛇と別れ、リアンドが部屋を出ると、そこには初老の紳士が待ち構えていた。真っ白な頭髪と口髭の、ひょろりと長身の男は厳しい面持ちでリアンドを見下ろす。
「坊ちゃま」
「その呼び方をやめろと言っているだろうセバス。俺ももう二十四だ」
すげなく言って、さっさと歩き出す。追ってくる気配に、しかし振り返ることすらしない。
「いいえ、恐れながら坊ちゃまで充分でございます。貴方様はご自分の立場というものを」
「うるさい。黙れ。わかっている。由緒正しきセクメト公爵家の現公爵だ」
「わかっておられながら、どういうおつもりですか!?︎」
珍しく声を荒げたセバスにも、リアンドはやはり振り返らない。歩調を緩めないまま面倒そうに笑って肩をすくめた。
「それはどれを差しての言葉かな。蛇人を買ったことか、彼女を妻に迎えると決めたことか、それとも未調教の蛇人と同じ部屋で過ごしたことか。あるいは、蛇人の首輪を外したことか」
「すべてにございます!!︎」
「そう怒鳴るな。嫉妬か?」
「誰にでございますか! というか最後のは初耳にございます! 獣隷に首輪を付けるのは規則ですぞ!!︎ それを外すなど……いえ、それ以前の問題です! よりにもよって蛇と同じ部屋になど! 自殺行為にございます! 貴方様のお父上がなぜ亡くなられたか、忘れたわけではございますまい!?︎」
「落ち着け、セバス。覚えているさ。父は、毒殺された」
「蛇人に、その毒で、殺されたのです! このようなこと、お父上や先代公爵様がおられれば」
「おられれば、な。今はもういない。この家の主人は俺だ。弁えろ、セバス」
リアンドは足を止め、初めてセバスを振り返った。その瞳には冷淡な光を湛え、一切の情も感じさせはしない。
二回り以上も歳の差のあるリアンドに、セバスは気圧されたように言葉を詰まらせた。だがすぐに厳しい顔つきに戻ってリアンドを見下ろす。
「弁えません。私には、先代様より貴方様を任された責任がございます。主人が道を誤ったならば、正すのもまた執事の役目にございますれば」
「はっ、俺はそうは思わん。主人が道を誤ったならば、誤りと知ってなお付き従う。それが従者の役目だ。話は終わりだ。婚姻式の用意をしておけ」
「いたしません!!︎」
セバスの絶叫をリアンドは無視して自室に入るとばたんと扉を閉めた。