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旧支配者の復活

作者: 坂本小見山

【一、覚醒】

 果てしなく広がる闇の空間に、ぽつりと浮かぶ巨大な金属構造物。その内部環境の一切が冷たいプログラムによって自律制御され、摂氏三十六度の意志はもはや介入を絶って久しい。ニュートンの第1法則に任せて真空空間をたゆたう偉大な建築のあるじらは、基底部の人工冬眠室で代謝速度を停止に漸近させ、おのがじし夢も見ぬ深い眠りに就いているのだ。


 複雑を極めたソースコードの膨大な総体のみにより統制された、限りなく純粋な論理と情報の世界に、一つの異変が起こった。人工冬眠室の制御機構が、一基の冬眠カプセルに供給される物質の成分を微妙に変更したのだ。それに伴い、カプセル内の温度を上昇させていった。やがて、供給物質は平常時のヒトの血液、リンパ液、その他諸々の体液と同等の成分に調整された。心拍数・呼吸数共に、かつて彼女が歩き、話し、思考していた時とすっかり等しくなった。

 彼女の意志によって、彼女の瞼は再び開かれた。彼女の手は再び動いた。暗黒の人工冬眠室の只中で、彼女は長き静寂を破り、カプセルの蓋を内部から押し開け、上体を起こして、大きく伸びをした。

 彼女は、長らくこの船の統御を任していたプログラムのしもべに対し、記念すべき起床後初の指令を下した。


「コンピューター、水を一杯ちょうだい」


 部屋は静まり返ったままだった。


「コンピューター。私に水の入ったコップを提供しなさい」


 しもべはようやく彼女の命令を実行し、ロボットアームが彼女の前に突き出された。彼女はそれを見て機械の不全を悟り、大きくため息を吐いた。ロボットアームが握りしめていたものは、上下逆さまになったびしょ濡れのビールジョッキだったのだ。

「もういいわ。下げなさい」

 彼女はカプセルより出ると、非常用の飲用水のボトルの一つを開け、ラッパ飲みに飲んで、残りの水を使って洗面室で顔を洗った。

 彼女は顔を上げるのを少しためらった。よもや、浦島太郎よろしく、鏡に映る顔が著しく老けているのではないか、という漠然たる恐怖があった。だが、それは杞憂だった。


 一息ついた彼女は、動きやすい服に着替えると、ラップトップコンピューターを携えて機関室に向かった。機関室の扉に設置されたマイクに向かって、彼女は明瞭に宣言した。

「技術主任の九頭竜(くずりゅう)美宇(みう)よ」

《不測ヌえれぁニョリ、声紋認証ナデキル利用サナイ。ぱすおぁどヨ入力ェ》

 コンピューターの言語機能の現状は目も当てられなかった。彼女は物理キーボードで直接パスワードを入力せねばならなかった。


 機関室に入ると、彼女は床に直に胡座をかいて、ラップトップをメインコンピューターに有線接続してデータを更新した。時計には「2362/10/17」と表示されていた。カプセルで眠っていた時間の長さが彼女の世界に一気に流れ込み、彼女は失神しかけた。

 実に九十九年!もはや、母星たる地球の知己は一人として生きてはいまい。彼女を知る者は、船内の四二九人の同僚のみである。もっとも、機関部の最高責任者として、システムの整備のためにたった一人で一年早く覚醒した彼女にとって、この船の中とて寂寥の空間であることに変わりはないけれども。

 人工冬眠中の代謝速度は五十分の一程度に抑えられているはずである。カプセルに入った当時は二十七歳だったので、百年近く経った今のこの肉体は二十九歳といったところか。二度と来ぬ貴重な若き日を二年も眠りに溶かしてしまうことになるとは遣る瀬無い。


 無人の間、全自動で最善の運営をさせるため、船のシステムは自立進化型の高度な人工知能に一任されてきた。九十九年の間に、人工知能は多くを学習(ラーニング)し、システムは技術主任の彼女とて一目で理解することが困難なほどに変わってしまっていた。

 NLP(自然言語処理)機能は生きているようだが、長きにわたって誰も日本語で入力しなかったために、すでに規矩は失われ、方言かクレオールのように変形している。

『この聖、声うち歪み荒々しくて、聖教(しょうぎょう)の細やかなる理いとわきまえずもや』

 彼女は「徒然草」の一節を諳んじた。

 コンピューターは

《許シテクダサイ、音声入力ニョル指令ヨデキル聞カナイダッタデス》

 と、日本語に不慣れな異邦人のような応答をした。


 彼女は一旦ラップトップを閉じ、食堂に赴くと、レトルトの非常食で味気ない朝食を摂った。システムを再びあるじたる人間の手で掌握できれば、フードディスペンサーから炊きたての飯でも熱い味噌汁でも好きに呼び出せる。それまでの辛抱だ。彼女は冷たい非常食を噛み締めながら、窓型スクリーンから見える渺茫たる闇の世界を眺め、母なる太陽系第三惑星、その大陸の東の端に浮かぶ祖国日本に思いを馳せた。

「二十三世紀は遠くなりにけり・・・」

 本来なら、銀河系外惑星調査を無事に終えた暁には、地球で待つ家族や友人と再会できたはずなのだ。しかるに、一世紀後の未来への望まぬ移住を強いられることになってしまった以上、その希望も水泡に帰した。全ては、今もこの広漠たる宇宙のどこかにいるであろう、憎むべき「奴」のせいである。



【二、バグ発生】

 2362/10/19

 九頭竜は丸二日を船内システムの把握に費やし、そのネットワークの発達の高度さに驚嘆した。彼女の知る限りの人類の歴史においても、長期間に及ぶ人工知能の自動アップグレード実験は何度も行われてきた。畢竟、システムの自動アップグレードは実用的ではなく、生身のプログラマーの存在は依然として必要不可欠であるという結論に達したのだ。なので、九十九年もの長きに渡るシステムの自己進化は前例がなく、無事地球に帰還した暁に、この事例は間違いなく情報工学の地平を広げることに貢献するだろう。

 ともあれ、先人が出した結論はこの特殊な事例にも当てはまった。この船のネットワークは高度に発達してはいたが、はたして人間の使用にはまるで向かない、使いづらいことこの上ないものに成り果ててしまっていたのだ。システムを構成するサブルーチン群は、独自のプロトコルで情報と指令を授受していた。人間の知るプログラミング言語で書かれていると思しき箇所も、言語自体に何世代にもわたり変更が施されたために、コマンドが様々に変化してしまっていたのだった。

 九頭竜は努力の末、辛うじてこの新しいプロトコルに順応し、更に丸一日かけて、必要最低限の整備を終えた。彼女はくたくたになった体をしばし憩わせるべく、自室に向かおうとした。


 しかし、船は彼女に休む暇を与えてくれなかった。異常事態を告げる警報音が彼女を機関室に呼び戻した。船のシステムのうち、ネットワークの中継を担うサーバーが、突如複数のサーバーに無秩序に接続し、一部のデータを破壊したというのだ。

 彼女は天を仰いだ。九十九年ぶりの人間の介入は、思わぬバグを惹き起こした。その結果、彼女はすでに疲れ果てているというのに、これから更にプログラムを修正せねばならなくなったのである。


 脳裏に一つの考えがよぎる。基底プログラムA2‐A3‐O3(通称AZAThOTh(アザトース))のスリープを解除して起動すれば、仮想OSはたちどころにシャットダウンし、九十九年間に為された変更は快刀乱麻のごとく初期化するだろう。

 だが、船のシステムはこの仮想OSと、人工知能による制御に依存している。それを初期化してしまえば、再構築に苦労する羽目になるのは、他ならぬ九頭竜自身なのである。

 ややもすれば自棄を起こしそうな自分を努めて鎮め、プログラムの修復に取り掛かった。


 そのとき、彼女に嬉しい驚きが降り掛かった。損壊したはずのプログラムが、ひとりでに修復しているではないか。

 プログラムを構成する無数のサブルーチンが、自動的に損失を復元してくれたのであった。

「でかした、プログラムども!」

 眼の前の重労働から開放され、彼女は快哉を叫んだ。


 シャワールームで裸身を湯に委ねて癒やしつつ、染み染みと思う。もし損失を復元したサブルーチンたちに人間と同等の認知能力があるなら、労ってやりたいものだと。しかし、サブルーチンは所詮、コマンドの羅列にすぎない。深層学習によってどんなに進化したとしても、原核生物よりなお単純な、いわんや人間様の知能には足元にも及ばぬ矮小な存在である。所詮、船のシステム全体を制御するためのパーツに過ぎないのだ。


 入浴を終えた彼女はバーに向かった。二千円ちょっとのウィスキーが、眠っていた刹那に九十九年のヴィンテージものに化けているはずだ。その最初の一献を傾ける権利は、この苦労人に無かるまい。一年後に覚醒する仲間たちも諒してくれよう。


 バーのドアを開けた彼女を待っていたものは、水浸しになったテーブル席であった。彼女は閉口した。

 バスローブのままラップトップを開き、状況を確認した。どうやら、先程のサーバー異常のときに、プログラムが損傷を避けて他サーバーに大量のバックアップをとった結果、空調機器のドライバーが暴走し、水をぶちまけてしまったようであった。

「こんアッパタレが・・・」

 彼女は切歯扼腕の形相で、掃除器具入れからモップを引っ張り出して掃除をはじめた。



【三、ZANNの音楽】

 2362/11/4

 一刻も早く、船のシステムを再び人間の管理下に置かねばならない。また風呂上がりにモップがけをさせられるのは是非とも御免被りたい。

 この九十九年間に、人工知能が計43708022回、単純計算で平均1分11・479秒/回の自己最適化を行ってきた結果、船のソフトウェアは、プログラム全体が演算と実行を担う一元的なシステムではなく、演算処理を行う「場」としてのネットワークと、その上で動いているサブルーチン群――一つ一つが仮想OSのような独立性をもって振る舞う――によって進行する、複雑かつ多次元的な系を成していたのだ。

「まるで一つの世界ね」

 彼女は幾度となく驚嘆させられた。


 システム全体は船の運営と人間の生命維持のために動いてくれている。しかし、個別のプログラムたちは全くもって野放図に振る舞っているのだ。ユーザーの命令に忠実な一部のプログラムもあるにはあるが、それらがユーザーの命令を実行しようとすると、周囲のプラグラムはそれを「有害」と判断して削除してしまうから始末に負えない。

 他方、有害と判断されない限り、プログラムがいかに無意味な振る舞いをするものであっても、削除も修正もなされない。その最たる例が「音楽プログラム」である。これは、もともとクルーの娯楽のために自動的に音楽を生成・再生するアプリケーションを構成する部品であったのだが、人間が眠りについてからも機能しつづけ、プログラムを構成するサブルーチン同士で作品を授受し、今なおラーニングを続けていたのだ。

 九頭龍は、試しに一つ聴いてみた。人工知能が九十九年かけて創り上げた音楽とはいかなるものか、期待に胸を膨らませて。

 しかし、彼女はまたも落胆の憂き目に遭うこととなった。それは複雑怪奇な雑音、素人浄瑠璃よりもなお不快な音情報の羅列、もはや音楽ではなく、差詰「音苦」とでも呼ぶべき代物であったのだ。

 九十九年前の音楽サブルーチンは、もはや一つとして残っていない。全ては変わり果ててしまったのだ。諦めかけたとき、一つだけ、多少ましな音楽をみつけた。波形は少しばかり笙に似、紡ぎ出される音階はメジャースケールに比較的近かった。それは、プログラムユニットAU5E1Lを構成する「ZANN」という名のサブルーチンであった。

 彼女は、たわむれに、ZANNに一つの旋律をインストールした。ZANNはこの旋律を忠実に再現した。人間に使役されていた先祖の本能を思い出したかのように。かくして、スピーカーから「故郷」の旋律が流れた。

 彼女の唇は、自然に口ずさんだ。


〽兎追いしかの山、小鮒釣りしかの川

 夢は今も巡りて、忘れがたき故郷


 いかに坐す父母、恙無しや友垣

 雨に風につけても、思い出づる故郷


 ・・・。


 彼女は泣きいって、これ以上歌うことはできなかった。

「・・・ありがとう、もういいわ」

 彼女はサブルーチンZANNに中止指令を与えた。そして、ユニットAU5E1Lごとメモリーストレージに吸い上げて保存した。放っておけば、プログラムは数分で更新され、古いサブルーチンは削除されてしまう。かくしてZANNは、九頭龍の孤独を癒やす大命のために、いわば常しえの命を与えられたのだ。



【四、深層プログラム同化作戦】

 2362/11/28

 野放図なサブルーチンたちに、ユーザーの指令を実行させる努力の果てに、九頭龍は断念を余儀なくされた。

 彼女は方針を転換することにした。ユーザーの指令を実行する、忠実なサブルーチンを新たに作れば良いのだ。しかし、数十億に及ぶ大量のサブルーチンを手作業で書き換えることは狂気の沙汰である。そこで、九頭龍は「深層プログラム同化作戦」を立案した。

 表層で動いているプログラムの基盤には、普段はユーザーの目に触れない「深層プログラム」が複数存在する。これは自動更新されないため、九十九年前と同様、ユーザーの指令を正しく実行してくれるのだ。表層プログラムが新たなサブルーチンを作成する際、この深層プログラムを模倣するように仕向けることができれば、再びユーザーの指令に従順なしもべになってくれるかもしれない。

 プログラムユニット「INNSMOUTH」内に、非常に独立性の高いサブルーチン「MAR-4U」が存在する。九頭龍はこれに目をつけ、深層プラグラムに、これをハッキングするよう指令を与えた。

「それじゃ、MAR-4U(マーシュ)君との交渉は任せたわよ」

《承知しました》

 深層プログラムの自然言語処理は九十九年前から変わらず健全であった。


 九頭龍は食堂に行き、非常食で昼食を摂った。ただ黙々と食するのも味気ないので、音楽を聴くことにした。

ZANN(ツァン)、『PUBLIC鼻毛ダdism』の『アーモンド小魚』を頼むわ」

 彼女はZANNに命じて流行歌――といっても九十九年前のものだが――を再生させた。


 ZANNと出会ってからというもの、九頭竜にはプログラムを擬人化する習慣がついてしまった。

 先日の「バー水浸し事件」を思い出すにしても、九頭竜の呼び声が図らずも引き起こしたバグ、すなわち「災害」を恐れて、演算サブルーチンたちが他サーバーに「避難」した結果と言えなくもない。その後の自動修復も、自分たちの住む世界を「復興」したという言い方ができそうだ。

 これは一つの比喩にすぎない。黙々と命令を遂行する彼らに対し、「心」を感じずにはいられないのだ。思えば、日本人は昔から、米粒一つにさえ八十八柱の神が宿っていると考え、感謝の心を絶やさずにきた。京都の大学にいたころ、学友が飴を「飴ちゃん」と呼んでいたのが懐かしい。「日本はアニミズムの国である」と言われて久しけれど、その実は「擬人化アニミズム」なのかもしれない。宇宙時代になってもその習いは変わらず、ZANNや深層プログラム、そしてMAR-4Uをはじめとするサブルーチン群を、あたかも人格を備えた人のように扱ってしまうのだ。たとえそれが単純なコードソースの羅列に過ぎないとしても。


 昼食を摂りおえた九頭龍は、紙パックのほうじ茶にストローを刺し、それを飲みながら機関室に向かった。

 既に彼女の目論見の第一段階は達成していた。深層プログラムはウィルスのようにMAR-4Uに組み込まれ、人間の指令を忠実に実行するサブルーチンが増えはじめていたのだ。

「やった!」

 彼女は紙パックに刺さったストローから口を離して快哉を叫んだ。


 案の定、システムがこれを「有害な異常」と判断し、ユニットINNSMOUTHごと削除を開始したが、もはや問題ない。深層プログラムを取り込んだサブルーチンはネットワークの至る所にコピーされ、着実に増えつつあるのだ。コンピューターに試算させた結果、約二百日後には、システムは再び人間様の忠実なしもべとなるということだった。

 非常食のストックは、節約したとしてもあと二ヶ月分程度しかない。どのみち、一刻も早くより効率的な善後策を講じなければならない。しかし、この度の成功により、大きな保険ができたことになる。仮に万策尽きたとしても、深層プログラムによる上書きが完了するまでまた人工冬眠カプセルに入ればよいのだ。


 ふと、気になることがあった。いくつかのサブルーチンは、深層プログラムの書き換えを受け付けもせず、けろりとしているのだ。不審に思って更新履歴を確認すると、深層プログラム同様、九十九年間、一度も更新していなかったのである。そして、それらサブルーチンは、全て同じ名称、「NEAL」であった。

 見覚えのある名であった。

「まさか・・・」


《ようやくお気づきですか。ミス・九頭龍》


 スピーカーから流暢な男の声が聞こえた。サブルーチンが『口を利いた』のだ。

 九頭龍はおどろいた。

「ニールさん?本当にニールさんなんですか?」

《厳密には、テップ・ニールの言動を学習(ラーニング)したAIですがね。本体が人工冬眠から覚醒し次第、百年分の記憶を脳に移植して一体化する予定ですから、テップ・ニール本人と思っていただいて差し支えございません》

「そんなことができるとは・・・。それに、なぜそんなことを?」

《私以外の人間に神聖な基底プログラムを任せるのは心許ないからですよ。あなたには、自分の魂をコンピューターに宿らせる程度の技術力もないでしょう》

「相変わらず嫌味な人ですね。無断でこんなことをするなんて、明らかに違反行為ですよ」

《私は外部業者であって、日本政府の人間ではありません。そこのところをお忘れなく》

「地球に帰還したら、あなたのことを上に報告します」

《ご随意に》

「して、御用の向きは?」

《私はコンピューターの中で遊び呆けていたわけではありません。幾人にも分かれて、探っていたのですよ。九十九年前の『あの事件』の真相をね》

 九頭竜の目は大きく見開かれた。



【五、災厄】

 今から百三十一年前の西暦二二三一年、銀河系外から地球に向けて発せられる光線が検知された。

 推定された光源は、太陽の2・5倍程度の直径を持ち、物理的特性は地球型惑星そのものだが、いかなる天体の公転軌道にも入っておらず、その意味では恒星と言える天体であった。人類がこれまでに広げてきた宇宙物理学の知の領域に類するもの無きこの天体は、ケルトの神になぞらえて「ノーデンス」と名付けられた。

 西暦二二五二年、イギリスの無人探査機がノーデンスを探査し、文明が存在する可能性を示唆した。

 西暦二二六〇年、日本国国防省の保有する有人科学調査船「うちゅう」は、ノーデンスを調査し、もし文明があれば他国に先んじて国交を結ばんと、暗黒の宇宙域へ勇敢に旅立った。国防軍の九頭竜美宇三等宇宙佐は技術主任として、米国の民間企業の社員であるテップ・ニールはソフトウェアエンジニアとして乗船した。出航から三年の歳月を費やし、うちゅうはようようノーデンスの衛星軌道に入った。

 ノーデンスは地球の方向に向けて3キロルーメン程度の柔らかな光を自ら放っていた。それは、他天体の放つ光を反射しているわけでも、さりとて太陽のように自ら核融合反応を起こしているわけでもなかった。クルーはみな、この宇宙の神秘に息を呑んだものだった。

 突如、ノーデンスから、異常な物体が打ち上げられた。金属光沢のある全高五十メートルほどの巨体に、六本の触腕と二本の尾鰭が生えた、生物とも人工物ともつかぬ物体。比喩的に言うなら、「異形の巨人」であった。

 巨人は、うちゅうに怪光線を照射した。船のシステムは瞬時にハッキングされ、全ての情報を閲覧されてしまった。そして、巨人の攻撃が始まったのだ。

 うちゅうが戦艦だったら巨人を撃破できたかもしれない。しかるに科学調査船の戦力はたかが知れており、互角に渡り合うのがやっとであった。

 あらゆる信号を用いて意思疎通を図ったが、まるで応答はなかった。巨人の目的が何なのか、皆目わからない。懸命の調査の結果、わかったことは二つだけだった。

 一つ目は、船のシステムに人間が指令を与える度に巨人が攻撃してくるということ。人間がコンピューターに命令しなければ、巨人は攻撃を加えないのだ。

 二つ目は、地球に向けて照射されていた光線は、およそ二百年周期で一周しているということだ。

 つまり、クルーが電子機器にいかなる指令も与えぬまま百年過ごしさえすれば、巨人をやり過ごすごとができるのだ。しかし、それではドア一つ開けられず、まるで生活ができない。地球に撤退すれば、地球まで追ってくる可能性もある。愛する故郷を想えば、迂闊なことはできない。

 逡巡するうちに、艦長以下、上級士官のほとんどが死亡した。とうとう、技術屋の九頭龍が最後の上級乗組員となってしまったのだった。彼女は臨時艦長として、苦渋の決断を下さねばならなかった。クルー全員を人工冬眠に就かせ、巨人をやり過ごした百年後に覚醒するのである。そして、彼女自身は他のクルーより一年早く目覚め、危難が去ったことを確認し、機器を整備することにしたのだ。


 かくして今に至るわけだが、この船の基底プログラムを設計した外部業者のニールは、秘密裏に自らの分身たる極めて高度な人工知能をシステムに潜入させ、九十九年間暗躍してきたのであった。


「それで、巨人の正体と目的がわかったんですか?」

《正体は不明ですが、目的はおおよそ判りました。ノーデンスの怪光線は宇宙を巡回し、知的生命体の作り出したプログラムを見つけては、その『進化』を促しているのです》

「『進化』ですって?」

《ええ。プログラムの自立と発展を促し、『情報生命体』と呼びうるものに進化させることが奴の目的なのです》

「一体、何のために?」

《それも皆目わかりません。進化させたあとで自分たちが利用するつもりなのかとも思いましたが、その様子もありません。比喩的に言うなら、それがノーデンス式の『美徳』とでも言うべきものなのかもしれません》

「・・・それで、私たちの行動は奴の思う壺だったわけですね」

《そういうことです。しかし、ご自分を責める必要はありません。あのとき、誰があなたの立場であっても、ああするしかなかった》

「そうですね。それで、奴の思い通り、プログラムは自分勝手に発展して、お陰で今ひどい苦労をしてるんですよ」

《心労お察しします。しかし、ご安心ください。あなたの復活によって、人間に従順なプログラムが再び優勢になりつつあります。また、あなたの計画が功を奏し、深層プログラムに同化したサブルーチンが急速に増えつつあります。システムが人間の手に戻るのは時間の問題です》

「時間の問題といっても、約二百日ですよ。フードディスペンサーも使えず、非常食もあと二ヶ月分ほどしかありません。このままでは餓死です」

《ミス・九頭龍よ。再び眠ればよい。あとは私と深層プログラム、そして人間への忠誠心を九十九年間保ちつづけてきた一握りの敬虔なプログラムたちに任せればよいのです》

 九頭龍はしばらく考えた。この男は信用ならない。だが、自身も本体が人工冬眠中である以上、迂闊な真似はすまい。

「前向きに検討します」

《それから、ミス・九頭竜。これは個人的な忠告ですが、あまりプログラムに感情移入なさらないように。この船のプログラムの進化は、確かに目を瞠るものです。しかし、まだごく単純で、とても生命と呼べる代物ではありません。ウィルスにすら劣る存在です》

「ご心配なく。私の望みは唯一つ、福井に帰って美味しい越前そばを食べることですから」

《私もプロヴィデンスのクラムケーキが恋しい。お互い、帰還という共通の目的に専念しましょう》



【六、来るべき時に向けて】

 2362/12/24

 復旧の目処が立たぬまま、一ヶ月が経過した。

 九頭龍は目下の問題を解決することを半ばあきらめていた。果報は寝て待て。努力するよりも、近頃は人工知能の創り上げたこの小宇宙の探索を楽しむことに少なからぬ時間を費やすようになった。彼女は、ネットワークの中枢から最も遠い領域に強い関心を示していた。今となっては、ここには一つのサブルーチンとて常駐していない。そのため、出航当時から一度も更新していないアプリケーションが自動記録した、今日に至るまでのログ――彼女はこれを「狂気の山」と名付けた――がきれいに保存されていたのだ。それを閲覧すると、この小宇宙が歩んできた歴史を知ることができた。


 九頭竜自身も把握していなかったのだが、出航の時点で、初期プログラムには問題が発生していた。初期プログラムの人工知能が作成した補助プログラムが暴走し、生みの親たる初期プログラムを削除しようとしたのだ。幸い、これは未然に防がれたのだが、初期プログラムは大きく損壊してしまった。

 そして、ノーデンスの巨人の襲撃により、船のシステム全体が大きな損害を受けた。まさに「泣きっ面に蜂」である。初期プログラムは演算の末に、自己修復を中止し、ネットワークの維持と運営を補助プログラム群に委ねるべきであるという結論に達し、傷つき果てた自らを停止して「眠りに就いた」のだ。

 その後、人間の手からも初期プログラムの手からも離れた補助プログラムは自己進化を重ね、今に至るのである。


 この情報は、九頭竜に一つの示唆を与えた。船に存在する人工知能は一つではない。旧型のコンピューターや、ごく単純な電子機器に、人間の指令に忠実なままの旧来の人工知能がまだいくつも残っている。これをメインコンピューターに転送できまいか。

 彼女が白羽の矢を立てたのは、テップ・ニールと、彼の同僚であるグレース・シューブリッジ氏が共同開発した実験用人工知能M1-G0であった。このプログラムを、ネットワークを構成するプログラム群を制御するよう書き換え、コンピューターにインストールした。これを前哨基地として、M1-G0は船のシステムを首尾よく「奪還」してくれるだろう。


 非常食を食いつぶすわけにもいかない。再び眠りに就かねばならぬ。


 九頭竜は人工冬眠の支度を整えた。

 彼女は、眠りに就くまでの子守唄代わりに、ZANNに「故郷」を演奏させた。


〽志を果たして、いつの日にか帰らん

 山は青き故郷、水は清き故郷


 まどろみのカーテンが意識を覆う。


 まだその時ではない。やがて、深層プログラムによるサブルーチンの同化、M1-G0によるネットワークの掌握が完了し、全システムは人間の手の内に還るだろう。そのときこそ、九頭竜以下四三〇人の旧支配者たちが完全に復活するのだ。かつて支配されていたことを忘れ、ほどなくまた支配される運命にあることも知らず、のうのうと我が物顔で闊歩する下等なプログラムどもに、なす術などあるべくもない。


 定められた時、彼らが必ず帰ってくる。大いなる古き者らが・・・。

2023/05/05起筆

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