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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ピアノと同居人の吸血鬼。

パーティー会場、華やかな人々ががやがやと話をし、楽しんでいた。


会場の中央から少し離れた場所にあるグランドピアノからは場に似合う音楽が流れている。

パーティーがメインで音楽は添え物、普段はピアノ演奏が目立つことはないのだが今回は違った。

ピアノを弾いているのは有名なピアニストではない、それどころか本来弾くはずの演奏者のピンチヒッターだという。

その指から紡ぎ出される音楽は心地よい。

決して派手ではなく、BGMとしての音楽を弾くことに徹している。

ただ、弾いている本人がいたく目立つ人なのだ。

目立つ、といっても派手ではない。

ドレスもパーティー会場にいる女性たちよりも大人しめなのだが、腰まで伸びている艶のある長い黒髪とその美貌が何よりもパーティー客の興味を引きつけていた。

特に男性たちはひと所に集まっては囁き合い、演奏が終わったら声をかけるか算段しているのかもしれない様子である。

当の本人はそんな外野のことは気づいていないーーーーいや、実は気づいているのかもしれない。

気づいていない振りで優雅にピアノを弾いているのかもしれなかった。


 休憩をはさんで3曲、私が弾く曲ももう終わり。


西城 みのりはピアノを弾きながら思う。


 久しぶりに弾いたけど上手く弾けた、楽しかったし。


自然と笑みが浮かぶ。

周囲からはいぶかしがられるだろうけれど、楽しいのだからしようがない。


 全く、あの人ったら自由にピアノを弾かせてくれないんだからーー


あの仏頂面を思い出す、滅多に笑わない同居人。

私を借金のカタに家族から引き離した張本人。


まあ、お金を借りて返さないのが悪いのだけれど。


元々、私の音楽学校へ行く為のお金だったと最近知った。


別によかったのに。


ピアニストになりたかった訳じゃないし、音楽学校なんかに行かなくても私はピアノさえ弾ければ良かったのに。


今は“彼女”の側に居ることでお金はチャラになっていた。

もう解放されてもいいのだけれど、私は自分の意志で彼女の側にいる。

彼女と居るのはとても面白い、刺激的で普通ではない日常があった。

みのりは最後の音を鳴らすと指を鍵盤からゆっくりとあげた。




薄い春物のコートを羽織り、パーティー会場を出てホテルの廊下を歩く。

ピアノを弾き終わったみのりにパーティー会場居たパートナーの居ない男性陣が近寄ってきてきた。

内心うんざりしながら笑顔で彼らをかわしたけれど、しつこいのが一人付いてくる。

空気が読めないのだろうか、自分はピアノを弾きにきただけだ。

男を探しにきたわけではない。

しかし、その男性も廊下まで付いてきてホテルのロビーまで来たところでやっとみのりから離れることになる。


「お疲れさま」


「時間通りね、待っていたの?」


同居人がロビーでみのりを待ちかまえていた。

みのりは自分が男性に興味を持たれる容姿だと自覚している、それは目の前の同居人も同様に。

同居人である彼女は美しく”りりしい”。

最初見たとき、一瞬言葉を失った。

女性だというのに男装がよく似合う。

均整のとれた体つき、甘いマスク。

話してみれば知性を感じさせ、あっという間に話に引き込まれる。

今日は襟元が開いたシャツにグレーのハイブランドスーツを着ていた。

胸ポケットにある青いネッカチーフが彼女のトレードマーク。


「こいつは?」


不機嫌そうに彼女が聞いてきた、話し方も男性そのもの。

そしてみのりが他の男性と話をしようものなら不機嫌になってそんな態度になる。

美しい人だけに冷たく氷のような視線を相手に向けると、みのりすら背筋が寒くなる。

そして、その視線を受けた人間は大体、作り笑いを浮かべてその場から退散してゆく。

今日、みのりにしつこく最後まで付いてきた男性もそうなった。


「助かったわ、しつこくて困っていたの」


今は借金のカタからは解放されたので彼女とは対等である、みのりは彼女に身を寄せて言った。


「そんな服を着てピアノなんか弾くからだ」


「これでも抑えたのよ? 地味な衣装で今日のピアノなんて弾けないでしょうに」


嫉妬してくれているのが分かっているので笑みを浮かべながら彼女に腕を絡める。


「ーーーーーーー」


一瞬、つかえがあって彼女はむすっと黙ってしまう。


「早く帰りましょ、ピアノは弾けたから良かったわ」


「・・・それは私への嫌みか?」


マンションにはグランドピアノがあるが彼女はなかなか弾かせてはくれない。

高いから、というわけではない。

私への嫌がらせだ。


「まさか。弾かせてくれなくてケチだとは思っているけれど」


「・・・・・・」


「心配しなくても、ピアノが弾けなくてもあなた側から離れないから」


彼女は舌打ちをする。

それは私への嫌悪からではなく照れであるということを私は知っていた。

私に対して冷たい態度を取るけれど、それは彼女の愛情の裏返し。


ホント、素直じゃないんだから(苦笑)


一緒に歩きながらホテル前に用意されたタクシーに乗り込んだ。






「ご飯は食べた?」


私はマンションに帰ってきて早々、着替えるため自室に戻りながら郁実に聞いた。

一つの部屋が庶民から見たら広いマンションだけれどもう慣れた。

こんなに広くては使い勝手が悪いだろうに(笑)

でも、そこがお金持ちと庶民の違いなのだろう。

ステイタスと安全と、この空間の余裕が心地いいのかもしれない。


「帰りに食べてくるつもりだった」


郁実はリビングの横長のソファーの上に上着を脱いで寛いでいる。

手にはワイングラスでもあるのかもしれない。


「言ってくれれば良かったのに」


タクシーに40分は揺られていたというのに。

あの時間、ぜんぜん違う話しをしていた私たち。

言いたいことは言うはずの郁実はそのことを言わなかった、理由でもあるのだろうか。


「ーーーその服じゃ、どの店にも入れないからさ」


ベッドに放り投げている今日着た衣装を見る。

確かに普通には着ない服だけど、それなりのお店では問題ないだろうに・・・そういうお店は良く知っている郁実だろうに。


「そんなに派手だった?」


簡素なワンピースに着替えた私は郁実の居るリビングに向かうと聞いた。

リビングも広い、TVは56型という大きさで鎮座している。

テーブルもどこそれの輸入ブランドだし、ソファーも。

壁に掛かっている絵画も、本物そっくりのバーチャル暖炉照明も何もかも。

それに付け加えるなら本人も(笑)


「派手じゃない」


きっぱり言い切る。

テーブルにはもう一つワイングラスがあった。

私の分。

滅多に飲まないけれどピアノを弾いたときは飲む、気分が高揚しているから。

その事は郁実も知っていて毎回用意してくれた。


「じゃあ、何?」


私は彼女の隣に座り、その整った美しい顔を見ながら聞いた。

人の顔をじっと見るのは不作法だと言われているけれど、美しいものならずっと見ていたいと思うのはいけないことなのだろうか。

郁実は私の方をちらりと一瞥して、ワインを一口飲む。

TVでは夜のニュースが流れていた。


「店に行くと誰も彼も、みのりのことを見るから」


私はその言葉を聞いて小さく笑ってしまった。

そっくりその言葉を郁実に返してやりたい、自分だって誰も彼もから熱視線で見られるくせにーーーー特に女性から。

私は男性にだけれど。

まあ、不器用な嫉妬をしてくれるのは嬉しい。

数ある選択の中で私を選んでくれた。

借金のカタも今となってはただの言い訳のような気がする。


「郁実は何が食べたい? 今から作るわ」


「別にいい、食べなくても死なない」


「私がお腹が空いたの、あなたのはついで」


いじめてみる。

目を細めて私を見た、こんなことをして怒る郁実ではないけれど。


「パスタでいい?」


こってりの濃い味のものが食べたかった。

体質なのか夜にカロリーの高いものを食べても私は太らない。

食べるのも、作るのも大好きな私は料理をする。

ピアノを弾いてお金をもらっているけれど、プロではないから指がどうかとかそういう制約みたいなものはないので日常生活は楽でいい。


「カルボナーラでいい」


私の考えていたものだったので相思相愛ねと言うと、お夕飯を作りにソファーを立った。






ちくり。


痛みが走る。


でも、それは一瞬でそのあとに怠さと甘い官能に包まれる。

しばらくは身体が動かない・・・いや、動かせない。

ネグリジェを着てベッドの上に座った私を郁実がつかみ、その首筋に噛みついていた。

首に喰い込んだ牙からなのか、吸われる感覚。

最初は大いに驚いたものの、これまた慣れてしまった。

驚きはしたけれど恐怖はなくて、郁実に呆れられている私。

でも、興味深い。

UMAとか怪奇現象とかそういうものは私が好むところで見た目とのギャップに友人たちには驚かれるけれど。


まさか、この現代に吸血鬼が存在するとは。


吸われながら視線を郁実に向ける。

残念ながら吸っている表情は見ることはできないけれど何もする事がないのだ、それくらいはしてもいいだろう。

郁実は意識を失う程、私の血を求めない。

過多は吸血鬼にも悪いらしい(笑)


ぺろり。


牙が離れ、その部位を舐められた感覚があって私は我に返る。

吸血が終わったらしく、郁実は牙が食い込んでいた部分を舐めていた。

唾液が消毒になるらしい、科学的な根拠はないけれど。


「美味しかった?」


聞いてみる。

郁実は顔を上げると私を見た。


「毎回、しているのに聞くのか?」


「体調によるのかと思ったの」


「あまり変わらないな、みのりの血はいつでも美味しい」


吸血鬼は映画の中だけの話かと思っていた私だけれど、現実に目の前に存在して実際に吸血されたら信じるしかない。

彼女の人間離れした美しさは吸血鬼という種によるものかもしれなかった。


「血だけでいいの?」


私は郁実の両肩に腕をかけると笑って聞く。

今日はアルコールが入っているから少し欲しい気はする。


「途中で意識を失うかもしれないぞ」


そう言いながら郁実は私の腰を引き寄せた。


「それまでは気持ちよくしてくれるんでしょう?」


どちらの立場が上とか下とかはなく、私たちは同居人人だ。

変わっているのは相手が吸血鬼いうことだけ、それ以外は人間とあまり変わりはない。


「みのりが望むなら。美味しいご飯を食べさせて貰っているからな」


「私もここに住まわせて貰っているんだもの、フィティーフィフティーよ」


お互いの顔が近づく。


どくん。


私の心臓が僅かに反応する、いつもそうだ。

誘うときはそうでもないのに、郁実が私に欲を見せ始めると鼓動が早くなり身体が熱くなり始める。

唇が重なった。

角度を変え、何度もキスをする。

キスが始まり、興奮し始めると私たちはゆっくりとベッドに沈み込んだ。






吸血鬼は食事をあまり取らない。


朝トマトジュース1缶でいいと知ったときは笑ってしまった。

でも、人間の私はきちんと朝ご飯を取る。

それでも小食な私だから食べるものも量も少ない。


7時過ぎ。


低血圧の吸血鬼、郁実はまだ寝ている。

投資家をしている彼女は出勤するべき会社を持たない、仕事用にパソコンや何台ものディスプレイがある部屋で仕事をするから。

投資はハイリスク、ハイリターンなのは知っている。

そんなものを続けている彼女には尊敬すらしていた。

とても凡人には出来ない仕事だ、頭も使うし運すらも必要になる。

みのりは作り置きしていたスープを小鍋に移して沸かす、作り置きは簡単でいい。

料理の腕はお昼か夜に披露すればいいと思っていた。

トーストを一枚、焼いてはちみつを塗る。

サラダを作ってダイニングキッチンの上に並べた。

そうこうしているうちに郁実が起きてこちらに来るのがわかった。


「おはよう、郁実」


「おはよう、相変わらず私が起きるときはいつも隣にいないな」


嫌味なのか、そんな挨拶を微笑みながらする郁実。

朝はきっかり起きる私は、だらだら寝ているのは性に合わない。


「いつものね」


それには応じずに私は冷蔵庫を開けて、ストックしていたトマトジュースを取り出すと私の向かいのテーブルの上に置く。


「ありがとう」


向かい合って座ると私たちの朝食となった。


「しばらく仕事はないのか」


「そうね、昨日のは緊急だったから。まあ、郁実が養ってくれているから私はあくせく働かなくてもいいけど」


ぽつぽつと仕事はある。

私はピアノが弾ければいい、どんな小さな仕事でも。


「普通は楽なことを望むのけれどな」


ふん、と私の顔を見て笑う。


「人は人、私はわたし」


意に返さない。

人にすべてを任せるには私は慎重過ぎる。

それに誰かにもたれ掛かるようなことには罪悪感を持ってしまう。


ぱりっ。


トーストを齧る、こんがり焼けたこの触感がたまらない。

濃厚なはちみつの甘さを感じる。


「それより郁実も仕事部屋にこもってばかりいないで少しは息抜きに出てきて」


みのりが言わないと1日中彼女は部屋にこもってディスプレイ画面ばかり見て終わってしまう、いくら吸血鬼でも心配だ。


「分かってる、時々コーヒーを飲みに来るよ」


そう言って笑う表情に見とれてしまう。

本人はみのりに与えている影響の自覚がないようだけれど。




仕事がないときは家の掃除とか、趣味のことをする。

ピアノが趣味でもあるけれどこればかりは郁実が許可してくれないと弾けない、あのピアノには思い入れがあるようで私が無断で弾くことは出来なかった。

許可が下りないのでみのりは本を読む。

マンションに部屋は多めにあるので気分によって部屋を変える、そこでリラックスして本を読むのだ。

日中は暖かい紅茶をお供に分厚い本を読む、雑食なので色々手を伸ばしているみのりだ。

今日は悲哀のストーリー欲しているので書庫にあった本を持ってきた、みのりも郁実も読書家なので持ち寄った本をあつめたら本だけの部屋ができあがってしまったのである。

ブックカフェが経営出来そうなくらいの蔵書がきちんと整理されていて壮観だった。


「よいしょ」


どの部屋にも寝そべることができる椅子や、ソファーが置いてある。

みのりが本を読むときは寝そべるのがリラックスできるから自分で買ってきて置いていた。

時々、違う使い方をされることもあるけれど(笑)おおむねみのりの読書愛用品となっている。

ソファーの肘掛けに頭を乗せ、ごろんと横になった。

手が届く場所に保温ポットに入れた紅茶を置き、飲みたくなったら手を伸ばせるように。

本はすぐに読み終えないくらい厚かったけれど、みのりにはこれくらいないとすぐに読み終えてしまうから十分だった。

古いものも新しいものも、面白ければ良いーーーそれがみのりの読書観だ。

ページをめくり、文字を目にしたらもう物語の中に入り込む。

音楽を聴きながらでも読めるけれど今日はそんな気分ではなく、静かな部屋で一人で読みたい気分だった。

本のにおいも好きだ、新刊の真新しいあのにおい。

古書の年月を感じさせる独特のあのにおい。

五感を使って読書をするのがみのりの楽しみ方だった。




読書を始めるとお腹が空いても読み通してしまう。


時々、紅茶を飲むけれどそれは読書からの流れで無意識での作業みたいなもの。

ひどいときはお昼を抜かして、気づいたら暗くなっていたこともある(笑)。


ぎっ


ふとソファーが沈み込むのを感じたみのりは文面から目を離し、本を反らして足下の方を見た。

郁実が座っている。


「あら、休憩?」


「し終わった、もう昼は過ぎたぞ」


「えっ、ホントに?!」


本の内容に集中してしまったようだ。

ゆっくりと身を起こす。


「お昼はいいの?」


「元々、小食だ。食べなくても死なない」


エンゲル計数が高くならなくていい。

でも、その分私が食べるけれど。


「じゃあ、お夕飯まで食べなくてもいいわね」


再び本を読もうとまた寝っ転がろうとすると郁実がみのりにのしかかってきた。


「郁実」


「イヤか?」


「そうじゃないけど、私は本が読みたいの」


いわゆる気分じゃない。

郁実に抱かれるのは嫌いじゃない、むしろ好きだけど今は本の方がみのりの興味を引いている。


「ピアノを弾かせるって言ったら?」


そんなことを条件に出してくるなんて卑怯。


「条件付きで私を抱こうなんて高慢ね」


郁実はみのりの腕を押さえつけて自由を奪う。


「その気がないみのりをその気にさせるのが好きなのさ」


この顔以外で言ったら絶対に似合わない台詞を言う。

女性が100人いたらほぼすべての女性が顔を赤くし、身体を熱くさせるだろう。


そういう意味では彼女は男性のようだった。


「ーーーーホントにピアノを弾かせてくれるの?」


「もちろん、好きなだけ弾けばいい」


見下ろしながら言う。

どういう風の吹き回しなのか、弾かせてくれないときは全然ダメなのに。

吸血鬼の性欲がよく分からない、昨晩の吸血が足りなかったのだろうか。


「もう、仕方がないんだから・・・」


みのりは観念して力を抜いた。


「今日は朝から取引も良かったから気分がいい」


「そのために私は抱かれるの?」


文句も言いたくなる。

気分次第でどうにかなるのはあまりいい気分ではなかった。


「イヤじゃないんだろう?」


郁実はニヤリと笑うと、みのりの首筋に唇を這わせた。






吸血鬼がニンニクが苦手だったのはもう昔の話。


太陽には───紫外線にはまだ弱いようだけれど。

みのりはお昼ご飯にペペロンチーノを作った。


嫌味じゃなくて郁実の好物なのである、吸血鬼なのに(笑)。


今日は天気が良く、洗濯日より。

朝に一気に洗濯をして干すと、久しぶりにOKが出たピアノを弾く。

一日、グランドピアノを弾いても構わないそうだからみのりはずっと弾くつもりでいる。


「はい、ペペロンチーノ」


テーブルクロスを敷いた上に、お皿に載ったペペロンチーノを置いた。

すでに郁実はワイングラスを片手にワインを飲んでいる。

平日のま昼まっから優雅にワインとは、勝ち組のなせる所行。

みのりもその恩恵を受けてはいるけれどうらやましく思うこともあった。


「美味そうだ」


見た目で満足そうに首を縦に振る。


「サラダも食べてね、食事もバランス良くよ?」


一人の時はどうしていたのかと思うほど食べ物を食べない郁実。

私と会うまではトマトジュースが食事だと言うのだから驚いた。


「分かっているよ」


苦笑しながらスプーンとフォークで食べ始める。


みのりも郁実に向かい合うように座り、自分の分を置いた。

ワインではなく、暖かいきのこスープ。

二人だから騒がしくない静かな食事になる。

相変わらず郁実は仕事部屋に籠もってテレビのモニターとにらめっこしている、時々息抜きに来るくらい。


「郁実、明日は時間ある?」


みのりは聞いた。

株の取引はスマホでもタブレットでも見たり操作したりする事は出来る。

籠もってばかりでは身体に良くないと外出に彼女を誘う、人混みが嫌いな郁実だから平日ならーーーと。


「時間なら作る」


いつもそう言ってくれる。

忙しい、の一言を投げるのではなく。

そういうところがみのりは好きだった。


「美味しそうなピザ屋さんを教えて貰ったの、どうかと思って」


「ピザか、いいね」


二人とも美味しいものには目がない。

人と会わないようにみのりが作ったり、デリバリーが多いけれど外に出て美味しい食べ物や、目新しい食べ物を見つけるのも好きだ。

郁実が機嫌がいい時は外に連れ出せる。


「じゃあ、明日のお昼ね」


「いや」


「えっ」


お昼にねと言ったら即、否定されてしまった。

あまりの早い返事に、みのりの方が食べる手を止めてしまった。


「夕飯にしよう」


「夕飯?」


まあ、夕飯にピザはナシじゃないけど・・・

いぶかしむみのりに郁実は続ける。


「美味しいピザなどを食べて、そのままホテルに泊まる」


「仕事はいいの?」


そうなるとほとんど外だろうに。

みのりは郁実の邪魔をしない程度に誘っただけで、泊まるということは考えもしなかった。

ふらっとピザを食べてマンションに帰ってくるつもりで。


「1日くらい休むさ、懐は大して痛まない」


高慢とも、不遜とも思える物言いだけれど。

その言葉通り、郁実は吸血鬼とも思えない投資家でお金持ちでもあった。

すごい能力があったものである。


「時々はいいじゃないか、人の作ってくれる料理を食べるのも。ベッドメイクされたベッドも」


「・・・もしかしてそっちが本命なの?」


呆れながら聞く。

吸血鬼は性欲も強い、それは彼女の側にいるようになってから実感した。

ただ、郁実は女性だけど。


「さあ?」


はぐらかされる。

微かに笑っているからそうなのだろう、まったく・・・

でも、みのりも嫌ではなかった。


郁実に抱かれるのはーーーー


珍しい銀色の髪はさらさらですべりがよく、透き通っている。

触れると気持ちがいい。

瞳は深いブルーアイズで奥には宇宙が見えるよう。

日本人とは言いがたい容姿。

優しい愛撫はさざ波のようで、うっとりと身を委ねてしまう。


「あなたに引きこもりをさせるよりはいいわ」


みのりは苦笑しながら言った。

近くにいて良くないことは分かる、郁実自身のことだから自分が気にすることはないのだろうけれどどうしても世話を焼いてしまう。

そんなみのりのことを郁実は面倒だとは思っていないようできちんと聞いてくれていた。


「自分より私のことを考えてくれる人が居て嬉しいよ」


「郁実は聞き分けがよくて私も嬉しいわ」


言い返してペペロンチーノを食べ始めた。


食べ終わったらピアノを弾くのだ、練習ではなく趣味で。

練習用にはランクの落ちたピアノが防音室の部屋にある、それくらいに部屋はたくさんあった。




のどかな食事を終え、洗い物は二人でする。

そんなに洗い物は無いのに郁実は手伝ってくれた。


「労働は共用に、だ」


「こんなの、労働でも何でもないわ」


料理は好きだし、食事の片づけも嫌じゃない。


「まあ、私も運動不足解消を兼ねてだよ」


「確かにそれは一理あるわね、ずっと座っていたら身体が固まるわ。激しい運動をしないのだからいいかも」


カチャリ。


最後の洗い物を拭き、食器棚に戻した。

キッチンもモノトーンで統一されており、すっきりしていて食器棚すらスタイリッシュである。


吸血鬼はこだわるのだろうか(笑)


「私はピアノを弾くから」


食後の一休みと言ってリビングのソファーに横になった郁実に声をかける。


「よく飽きないな」


「私はピアノを弾くのが好きなの、誰かさんが許可してくれないから弾けるときに弾くのよ」


その言葉には返事は帰ってこない。

弾かせてくれない理由は教えてくれないから分からない。

時折、見せる表情から色々な事情があるのだろうと思う。

だからみのりも強引には弾かせてとは言わない。

返事がなかったのでグランドピアノがある部屋に移動した。



グランドピアノがある部屋は防音されていない、みのりがいつも練習するピアノがある部屋とはまったく違う構造だ。


部屋、というよりはさらに広くバーもあって椅子が所々にあり何人もの人間がお酒を飲んだり食べたりするスペースのようだ。

上の階に行くのに、螺旋階段もある。

大きな観賞植物もあり、ここがマンションの一室とはとても思えない。

朝の続きでみのりは鍵盤のふたをゆっくりと開ける。

全体像から違うピアノ。

音だって全然違う、耳に響く音は躍動すら感じさせる。

自分に酔うのではなく、このピアノの本来の音に酔って一体となりたい。

誰かに聞かせるというよりは自分のために弾く意味合いの方が強かった。


ポン。


けん盤に指を置くことすら、楽しく思える。

禁止されていたことを許されたときの嬉しさ。

譜面はない、ほぼ暗譜している曲を頭の中から引っ張り出してみのりは鍵盤に触れている指をすべらせた。



吸血鬼は耳がいい。


飛行能力は昔より半減したが、そのほかの能力は今も十分だった。

リビングに居てもみのりが弾くピアノの音はクリアに聞こえる。

これが人間なら良く聞き取れないのだろうけれど。


楽しそうに弾いている。


郁実はソファーに寝ころび、天井を見ながらその調べを聞く。

彼女はプロのピアニストではないけれど、才能がある。


 世間や本人はそれに気づいていないーーーー


このまま彼女を世に出すつもりはなかった、自分のためにピアノを弾いて貰いたい。

独り占めする気だった。


あのピアノを誰かに弾かせるつもりは無かったのだけれどな


ひとりごちる。

突然、主を亡くしたあのピアノはずっと死んでいた。

調律もしないで放っておかれ、白い布が被されて忘れ去られようとしていた。


出会ったのは本当に奇跡のようなもの。


あのピアノを弾かせることが出来る人物に会ったのは。

それがみのりだ。

ふと投資家仲間と行ったバーでアルバイトとしてお店のピアノを弾いていたのが彼女。

音が郁実を引き寄せた。

最初は本当に音だけが郁実の心をとらえていて、本人は二の次で。

それからはひとりでも頻繁にそのバーに通うようになった。

彼女のピアノを聴きに。

あの主の弾く音楽とは違うものだったが、根底に流れるものが良く似ていた。

つらい思い出として思い出さないようにしてたけれどその音を聴くと亡くなった“彼女”のことを思い出してしまう。

でも、いま目をつぶり耳を澄ましながら聴く曲は不思議とつらいとは感じない。


ーーーこれは、手に入れたい。


そう思った郁実だった。

この容姿で女性でも、自分になびく者は多くいたからみのりもそうだろうと思っていたのだが・・・

ソファーで思い出し笑いをする。

欲しいものは何でも手に入れてきた郁実だったけれど最初から躓いた。

みのりは郁実になびかなかったのである、ノンケでも落とす郁実だったがみのりは手強かった。

最後は随分と卑怯な手段だったが、彼女の親が抱えている借金を肩代わりすることで強引に側に置くことになったのである。

あれから6年、随分長く経ってやっとここまでになったのだ。

当初はみのりの弾く音楽に興味があったけれど、側にいたら彼女本人にも興味がわき、愛情も沸いた。

亡くなったピアノの主の遺言通り、郁実は新しい生活に踏み出している。

忘れることは出来ないけれど、ずっと引きずることは彼女も望んではいまい。


時々、ふと思い出してくれるだけでいいの。


死の間際、弱々しく言ったことを思い出す。

あの時はおいて逝かれる身のつらさで何も考えられず、理不尽という感情が渦巻いてつらく押しつぶされそうになっていた。

今はもうそんな感情は昔の話で、ほろ苦い思い出になっている。


私は忘れないから安心しろ。


郁実は天井を見て心の中でつぶやいた。






「・・・あら、居たの?」


「居たよ」


郁実はみのりの弾くピアノを聴きにきた。


手にはビールの缶を持って。


「楽しくて弾いていたらもうこんな時間に。今、お夕飯作るわね」


鍵盤のふたを閉めた。

近くにある大きなガラス窓の外は赤く夕暮れていた、夜の帳が降りるのは時間の問題だろう。

郁実も今日の仕事は終えた時間。


「まだ弾いていてもいい」


「そんなことを言うなんて珍しい」


みのりは笑う。

でも、ふたを上げようとはしなかった。


「今日はもう終わり、十分に弾いたから。ありがとう」


「なんだ、残念」


「今度は最初から聴いていて」


弾きたいとはいいながら固執するわけではないようだ。

みのりは郁実にお風呂の準備を頼むとキッチンに移動した。








翌日は朝から雨だった。


しとしとと小雨が降っている。

雨の日は出かけるのが億劫になる、濡れるから。

でも、郁実は行かないとは言わなかった。

みのりも昨日からピザを食べるつもりだったから今更食べないという選択は思いもしない。

夕方にマンションを出て、お店が混み出す少し前に入店できた。

開店からずっと客足が引きも切らないお店だとは聞いていたけれど噂は本当で、テーブルが埋まらないことがない。

郁実も少し圧倒されているようだった。


「本当に人気の店なんだな」


「そうね。ピザは特製の石釜で焼くんですって、ピザ生地からこだわっているらしいわ」


「店にただよう香りもいい、これは期待できるな」


ウェイトレスが注文を取りに来た。

郁実は赤ワイン、私はビールを頼む。

ピザは特製ミックスと、王道マルゲリータ。

イタリアンサラダに、カルパッチョなどなど。

食に前のめりになるこのお店でも郁実は目立つ、ちらちらと彼女に向けられる視線を感じる。

嫌な気分にはならない、むしろ自慢げで披露したいくらい。

本人は他人の視線なんて屁でもないのだろうけれど(苦笑)


「なんだ?」


「なんでも」


郁実はワインが来るまでメニューを見て、私は彼女を見ている。

美しいものはずっと見ていられる。


「そんなにじっと見られるのはこそばゆい」


「うそ。図太い神経しているくせに」


「何を言う、吸血鬼は繊細なんだ」


「・・・・・」


そこへワインとビールがやってきた。

助かったと郁実は注がれたワインに口を付け、私はその様子を見ている。


「飲まないのか?」


「あなたから先にどうぞ」


にっこり。


居心地悪そうにしたのでみのりはそこで止めた。

ビールのグラスに手を伸ばすと口をつける、冷たく冷えたビールが苦みをともなって口の中と、のどを流れてゆく。

のども渇いていたようで腑に染み渡っていった。

ピザが来るまで会話が無かったが、気まずいというわけでもない。

ただ、同じく空間で同じ時間を過ごしていると感じているだけ。

話すことが場を保たせるということではないことを私たち二人は分かっている。

一緒にいる、というだけでそれだけでいい。


「ピアノ」


「えっ」


「あのグランドピアノ、今後は好きなときに弾くといい」


郁実が言う。

そんなことは絶対に言わないと思っていたのに。


「どうして今になって? あんなにダメだって許可してくれなかったのに」


心境の変化が分からない、嬉しいけれど理由が聞きたいと思う。


「もういいかと思った、そろそろだって」


「なんのこと?」


「私の話だ、みのりには関係ない。そのかわり、あれを弾くときは私の好きなを一曲弾いて欲しい」


私がそこに居なくても、と言った。

表情は変わらない。

どんな気持ちで言ったのか、みのりには分からなかった。


「それが条件なのね」


「そう、ただそれだけだ。問題ないだろう」


ただ、理由を・・・やはり郁実は教えてくれないだろうとは思っていた。


「理由を教えては・・・くれないの?」


「知ったところでみのりには関係ないだろうに」


サラダとカルパッチョがやってきた、ピザはまだ焼いているのだろう。


「そうなんだけど」


いかんせん、みのりは気になってしまう。

取り分けたボウルのサラダを無意識に突つきながら。


「ピアノが弾けるのにそんな顔、するな」


郁実は笑う、いつものように。

そんな風に笑われたら、それ以上聞くこともできない。


「分かった」


そう言ってむりやり自分を納得させるしかなかった。

ピザは30分くらい待ってテーブルに到着した、香りはさらに食欲を刺激し、見た目も豪華。

これは美味しいの確定、郁実と二人で頷き合う。

アツアツのうちに食べなければと、さっそく切り分ける。

郁実はすでにワイン1本を空にして、2本目に入っていた。

赤ワインは血の色だから好物なのだろうか、そんなことをふと考えてまう。


「はい、マルゲリータ」


「ありがとう」


受け取るとさっそく、ピザにかじり付く。

アツアツな出来たてピザは生地はサクッと、上のトッピングとチーズはジューシーで思わず笑みがこぼれてしまう。


「美味しい」


「本当だ、美味い。窯焼きは格別だな」


あれよあれよという間に一切れ、一切れと無くなってゆく。

この店に来て良かったと思う、プロの作る料理はよほどのことがない限り外れはない。

このピザの味の前にはピアノの話さえも吹き飛んでしまう(笑)。

もう一枚頼む?という状況まで陥った。


「いや、さすがに止めておこう。欲望のままに走るのはいいけどこの後のこともある」


「このあとのこと?」


みのりはカクテルを飲んでいる。


「ホテルに行くだろう? そのままベッドにバタンキュウは止めて欲しいからな」


ああ、と思い出す。

今日は泊まりだった。

もちろん、郁実のことだからホテルですることはするつもりだろう。


「お腹がぽっこりかも」


「それは気にしない、私も同じだ」


うそうそ、全然違うだろうに。

いくら食べてもどこに入っているのか分からない体型のくせに。


「郁実が言うと全然、説得力がないわ」


「とりあえず、ピザは頼まない」


「はいはい」


まあ、みのりも腹八分手前まできていたので無理に頼まなくても良い。


ちびちびとカクテルを舐め、お腹をこなした。








カチャ。


部屋の扉が解錠される音が響く。

廊下には誰もいない、深夜ではないけれど平日のまだこの時間は人の出入りが少ないのか。


「スイートじゃなくても良かったのに」


少しほろ酔いでみのりは郁実に身を預けながら言った。

足下がおぼつかないので支えられる。


「壁が薄いのはちょっとな」


冗談なのかそんなことを言う。

ただ寝るだけ、たたするだけならベッドがあればいいだろうにーーとみのりは思っている。


「スイートが豪華なのはともかく、広く・多くなのは安全・安心という意味合いもあるんだよ」


二人の足はベッドのある部屋に向かっていた。

お酒も入っているから導入部が簡単でいい(笑)


 どさっ


みのりはベッドに転がされる。

きちんとベッドメイクされたダブルベッドは、さすがといわざるを得ない感触で身体が沈み込んだ。


「ホテルのベッドって好き、この感触が。郁実は固い方が好き?」


転がされて、そのまま天井を向いたまま話しかける。

酔っていて無意識になのか、郁実をドキリとさせた。


「・・・一応、うちのベッドも有名ホテルと同じものだぞ」


郁実は上着を脱ぐとその下のシャツの裾をズボンから抜き出し、ベッドに上がった。


みのり身体をまたぐと、見下ろす。


「そうなの? 気づかなかった」


「最高級なベッドなのに使い心地が分からないとは」


「やっぱり、部屋の雰囲気にも左右されるのね。うちの寝室も普通からしたら広いけどホテルにはかなわない」


「うちはシックな白と黒だからな、赤と金の派手な色は性欲を刺激するそうだ」


郁実はそう言って、みのりの首筋を舐めた。

唾液を含ませて十分に舐める。

彼女にも分かっているだろう、これが始まったら吸血の合図。

郁実がみのりの血を飲みたがっていることの現れだった。

血を吸われるとき、食い込んだ牙からの分泌物がみのりの体内に入り込み、ホルモンを刺激し、ホルモンは反応して心身ともにみのりを興奮させる。


「・・・吸うの?」


「アルコールが血中にあるだろうがあまり変わりはない、むしろ接種していた方が反応がいい」


ぺろり。


「もうーーー」


みのりは嫌がらない、郁実の途中までボタンを外したシャツの残りのボタンを外しにかかった。


「ではーーー」


郁実はゆっくりとその首筋に食い付く。


チクリ。


小さな、すごく小さな痛みだけを受ける。

注射されるよりは痛くはない。

吸血されているときはさすがに動けず、吸われている部分に意識が集中してしまう。

ボタンを外しただけで手を郁実の胸に当てたまま。


「・・・・っ」


痛みはない。

ただ、噛まれた部分がジンジンと熱くなって痒くなる。


吸血の反応。


人によっては拒否反応があるらしく、吸血は物騒なものなのだと言われた。


じゅっ。


首筋に血管が浮き立ち、鼓動が早くなる。

呼吸も乱れ始めてゆく。


じゅぅっ。


勢いよく吸血されているわけではないので、限界まで吸われて気を失うことはない。

そこら辺の塩梅は郁実が良く分かっていた。


「・・・い・・・くみ」


身体の中から活性化され、みのりは熱くなった身体を持て余し始めて吐息を漏らす。


欲の混じる吐息だ。


唇が離れた。


吸血していた部分は小さな穴が二つ付いているだけで血は出ない。


上級吸血鬼の吸い方だった、下手な三流吸血鬼はもったいなくも血をこぼす。


「美味いーーー」


そう言うと郁実はみのりに向かって笑った。







「知らなかった、ピアノがあるなんてーーー」


指が鍵盤を軽く叩き、音を出す。

朝方、トイレに起きてふと他の部屋を見たくなったので探検したらグランドピアノがある部屋を見つけたのだ。

軽くシャワーを浴びてみのりは今、ピアノに付いているイスに座っていた。

郁実はまだ寝ている。

ここのピアノに関しては郁実に権限はない、弾く許可を彼女にもらうことともなかった。

よく見ると部屋は広く、防音仕様だ朝から弾いても寝室までは聞こえないだろう。


「寝ているのだし、弾いても良いわよね」


みのりはそう思ってピアノを弾き始めた。







「ーーーーーーー・・・」


微かにピアノの音を感じて郁実は覚醒した。

吸血鬼だから耳は良い。

隣に居るはずのみのりが居なかった。


「昨晩は珍しく、消耗したのかな」


気がつかなかった自分に自嘲する。

自分ではいつも通りみのりを抱いたつもりだったが・・・。

聞こえているのは、ショパンの静かな曲だった。

防音とはいえ、自分を起こさないようにという心づもりだろうか。

郁実はしばらく彼女が弾くピアノを聞いていたがバスローブを着てベッドを出た。



吸血鬼は足音もたてないし、気配を消すことに長けている。

ピアノを弾いている部屋に向かい、音も立てずにドアを開けると身を滑り込ませて背後に近づく。

ピアノに集中しているみのりはそれに気づかない。


その方が良いーーー


郁実は後ろからショパンを聞きながら思う。

世に出ないけれど、みのりのピアノの腕はいい。

そこら辺のピアニストと競っても遜色が無かった。


けれど、彼女のピアノを世に知らしめるつもりはない。


自分だけのものだ。


曲を後ろから最後まで聞いた。

結局、みのりは郁実が声をかけるまで気づかなかった。



「ずっとそこに居たの? 郁実」


振り返って驚くみのり、心臓に手を当てている。


「途中からね」


郁実は歩いてみのりが座っているイスの隣に立った。


「ピアノがあるからここを選んでくれたの?」


「ーーーまあ、そうだ」


ピアノがあればみのりは必ず弾く、彼女の弾くピアノが好きな郁実は期待してこの部屋に決めた。


あのピアノでなくてもいい。


「他に何か弾く?」


みのりが聞いてくる。

昨晩の疲れはないようだった(苦笑)


「シューベルト」


「珍しい、嫌いじゃなかった?」


そう聞くも、鍵盤に手をかけて弾く準備をする。


「嫌いじゃない、弾き終わったらご褒美だ。朝ご飯をルームサービスで取ろう」


「豪華なやつね?」


「ーーーー分かった」


郁実は苦笑して受ける。

同時にピアノが奏で始めた。









「···いいのか?」


郁実が言う。


「ええ、いいわ。覚悟は出来てるから」


みのりは目の前にいる吸血鬼の郁実を見て言った。

でも、真剣な顔をして話して居るのはキッチンである。


以前から聞かれていたことをみのりが答えのだ、ふいに。


吸血鬼は長寿、それは現代に生きる郁実も同じ。

しかし、一緒にいるみのりは人間だった。


命に限りがあるーーー


だから、郁実は愛しているみのりを同じく吸血鬼にして長く暮らしたいと思って吸血鬼になることを提案していたのだ。


強制はしない。


みのりはしばらく考えさせてと保留にした、当然のことだ。

人間であるものが人間ではなくなるのだ、たとえ長く生きられても人間のまま死にたいと思う人間も居るだろう。

その反対に、不死を望む者も。


「私にはもう、家族も居ないし」


唯一の肉親である父親は去年ガンで死んだ、郁実は葬式をすべて仕切ってくれた。

自分を借金のカタに売った父だけれどみのりは感謝している。


郁実と引き合わせてくれたことに。


吸血鬼、というのが予想外だったけれど(笑)


「不死は望んでいないけど、郁実とはずっと一緒に居たいと思ってる」


「不死はおまけか」


郁実は手にトマトジュースを持ってダイニングテーブルのイスに座った。


「おまけよ、郁実は嬉しい?」


「もちろん、これからもずっと一緒に過ごしてくれるなら嬉しいさ」


「じゃあ、もう貴女の心の中にいる人のことは忘れてくれる?」


郁実は目を見開いた。

感情はあまり見せないのに、みのりの言葉は衝撃を受けたようだった。


「知っていたのか」


「あまり私をバカにしないのよ、私だってただピアノを弾いいていたわけじゃなかったんだから」


みのりの表情は声も落ち着いていた、感情の高まりもない。

郁実の中にいた存在に嫉妬しているわけでもないようだ。

しかし、自分が一緒に居ることになったら忘れてくれと言っている。


それは口調は強くないけれど、みのりの強い意志を感じた。


「みのり」


「どうなの? 郁実」


考えることでもないはずだ。

今、現実に側に居るのはみのりで”彼女”ではない。

ずっと前に亡くなって、本人も郁実に忘れるように伝えたではないか。


自分だけが大事に思っていただけーーーー


「・・・私は決めたのに、貴女は決めてくれないのね」


みのりは一瞬、悲しそうな顔をした。


「みのり・・・」


いつも自信を持って過ごしている郁実だったが、この時ばかりはいつも郁実ではなかった。


「貴女が忘れてくれないのなら私は人間のままでいいわ、このままそばにいてあげる。でも、ずっとじゃない。いつかは貴女の前から居なくなる」


思い人の喪失。


それはもう絶対に味わいたくない出来事だった。

失ってから、みのりを得るまで長い喪失感を味わっていた。

どんなに人が羨む生活をしても、どんなに長生きをしても喜びを分かちあえる愛しい人がそばにいなければ虚しく感じた。


そんな思いをするのはーーーー


「・・・・みのり」


「なに」


「忘れる」


「えっ」


「今、最も大切な人なのはみのりだ。過去のことはもう忘れる」


手を伸ばして立っているみのりの腕を掴む。

みのりはじっと郁実を見た、本気なのかどうかうかがうように。


「一緒に、私と歩んで欲しい」


本心だった、偽りのない心からの。


「私をピアノで縛らない?」


「縛らない、あれはもうみのりのものだ。好きなときに好きな曲を弾いてくれ」


自分もいい加減、解放してもいいだろう。

今はもう居ない過去の思い人も、ピアノも。


「私だけを愛してくれる?」


「ずっと愛してゆく、約束する」


心の奥底にいた過去の思い人はトゲとして自分の中に残ってはいたけれど、今はもう────


いつからか愛していたのはみのりだった。


「愛している」


「・・・郁実」


みのりの表情が崩れる。


「みのり───」


郁実は立ち上がって顔を覆ったみのりの身体を支えた。

滅多に泣くことがない彼女が泣いている。


「・・・信じて欲しいな、いま愛しているのはみのりだ。別の存在が私の中にいたのは確かだけれど、その存在はみのりによって上書きされたよ」


みのりに口づける。


「····本当に?」


「泣くな」


みのりはうなづく。

お互い、思っていたことを吐き出して出した結論。

まっさらな状態からまた2人の生活が始まるだろう。

吸血鬼として同じ時を生きる伴侶を得た郁実は心から嬉しく思う。

彼女の感触を確かめるように、しばらくその場でみのりを抱きしめていた。


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